"平穏な日常"
診察室で昼食を済ませた後、ボールペンのインクを取りに居室の扉を開ける。
「みゃあん」
扉を開けると、小さな鳴き声で俺の入室を許可する。
──ここ俺の部屋なんだけど。お前の許可なんて無くても入るけど。
ハナのご飯皿は既に空っぽで、窓辺に座って昼食後の日向ぼっこをしている。
卓上棚の引き出しからボールペンのインクを一つ取り出し、ご飯皿も手に取って退室しようと扉に近付く。
ふと振り返って窓辺のハナを見る。
気持ち良さそうに目を細めている様に、そこだけ時間がゆっくり流れているような感覚になる。
──ハナや街の人達が、こんな風に時間を長く過ごせるといいな。
目を細めながら廊下に出て、日向ぼっこ中のハナを邪魔しないよう小声で「じゃ、また行ってくるな」と言うとハナはその体勢のまま「みゃあう」と、間伸びした声で返事をした。
ふ、と小さな笑みを漏らしながら扉を静かに閉めた。
"愛と平和"
好きな時間、望む未来、愛する世界、愛する場所があるから平和を願う。
理由も無くただ平和を願い続けるのは難しい。
守りたい《何か》があって、その延長線上にあるのが平和。
愛する《何か》があるから平和を望み願って、歩む事ができる。
"過ぎ去った日々"
《過去》は変えられないし、戻る事も出来ない。だからって《過去》と同じ事も出来ない。
なら簡単。《過去》よりも良い時間を作ればいい。
《変えたい過去》があっても、だからってその《過去》は無駄な訳じゃない。その《過去》が活きる時が必ず来る。
《変えたい過去》を抱いて《真に望む未来》を示し、掴む。
"お金より大事なもの"
寝る準備を終えベッド横のランプを点け、ベッドに入ると枕を背もたれにしてサイドテーブルの上の読みかけの本を手に取り、読書の体勢になる。
するとハナがベッドに乗ってきて、俺の腹の上に移動して喉を鳴らす。いつもの読書スタイルの完成。
初めはうるさく感じて読書どころではなかったが、今ではとても心地良い音。
本を開かずに、香箱座りで目を閉じながら喉を鳴らすハナの名前を呼ぶ。
「ハナ」
「みゃあん」
喉を鳴らしながら返事をして立ち上がると頬に擦り寄って、柔らかな体毛で頬を撫でてきた。耳の近くで喉の音が聞こえる。
「くすぐってぇよ」
くぐもった笑いを漏らし、肩を上げて片手でハナを撫でる。
──ふわふわで、暖かい……。
もしあの時、ただ扉の錠をかけるだけで立ち去っていたら。あの時、ハナが『ここに居るよ』と鳴いて教えてくれなかったら。
これまでも今も、こんなにも愛おしい感情で胸がいっぱいになる事はなかった。
ハナの頭に口付けをする。ハナの柔らかな体毛が、唇をふわりと包み込んだ。
唇をゆっくり離し、ハナを見る。
「みゃあん」
再び喉を鳴らしながら、俺の頬を舐める。
──こりゃ、また読書どころじゃねぇな……。
諦めて息を吐き、本をサイドテーブルに置いてハナを胸元に動かし包み込む。
すると、鳴き声を出さずに口を開いた。
その様に微笑んで、ハナを再び優しく撫でた。
"月夜"
入浴を終えて日記をつけた後フルートと《overtuRe》のページを一枚の横長の紙に纏めて印刷したプリントを手に処置室に入り、スイッチを押して室内の明かりを点けて窓辺に立つ。
ふと窓の外を見上げる。
よく晴れていて、綺麗な月明かりが夜闇を照らしている。
だがその月はとても細い。そのせいか、月明かりがあると言っても、他の明かりが無いと暗くて動きづらい──処置室の明かりを点ける前はとても暗く、月明かりも微かにしか無くて少し怖かった──。
──三日月より細い気がする。この月にも、名前があるのか?
気になってポケットからスマホを取り出し、検索タブに【今日の月】と入力して検索マークをタップする。
一番上に出てきたサイトをタップすると、すぐに出てきた。
「……?『有明月(ありあけづき)』……?聞いた事ねぇ名前だな」
初めて見る名前に首を傾げる。そもそも読み方は『ありあけづき』で合っているんだろうか。
画面をスワイプしてスクロールすると、その他の月の名称も出てきた。三日月はそもそも新月の後に見られる月の形で、新月の手前であるこの月と全く違うものらしい。
いくら記憶を遡っても、この名前を理科の授業で習った記憶はおろか、教科書でこの名前を見た記憶すら出てこない。
──まぁ、ここまで細かな事は流石にやってないか。
有明月の他にも、見た事の無い名前があった。
「なんて読むんだ、これ?『さらまちづき』?『こうたいづき』?」
──後で調べるか……。
説明には、満月を過ぎた月の名前らしい。
ちなみに【更待月】と書かれている。
「みゃあ」
不意に足元から鳴き声をかけられ、視線を下げるといつの間にかハナが足元に来ていた。
「みゃあん」
そこで「あっ」と声を出し、ここに立った目的を思い出す。
窓辺を譜面台にしてプリントを広げフルートを構えると微かな月明かりの下、練習を始めた。