"あなたとわたし"
『世界には自分と同じ顔の人間が三人いる』なんて言われてはいる。まだ出会った事はないから完全に信じてはいないが《顔が同じ》ってだけで、勿論育った環境が違うから、中身は全然違う。
感性が同じでも、置かれた環境が違うから得意な事や苦手な事が違う。
何かが《同じ》なんて、ごく稀な事。何もかも違うのが殆ど。誰かといて、劣等感を抱く事が沢山ある。
俺は、他人に体当たりでぶつかる事ができないし、自分に絶対的な自信なんてないし、大きな変化に器用に対応する事もできない。長として大勢を率いる事はやった事ないけどできる気しないし、誰かを強引に引っ張っていく事もできない。
誰かと比べれば、できない事ばかり。
けれどそんなのは当たり前。当たり前の事を気にしてる暇は無い。
俺は《今》の俺ができる事をやるだけだ。
"柔らかい雨"
なんだか急に頭痛を覚え、窓の外に目をやる。雨粒が窓いっぱいに張り付いている。雨粒が一つ、また一つと付いているのを見ると、今雨が降っているのだと認識する。「雨か」と独りごちて少し気分が落ち込む。
けれどその雨粒はまるで窓に霧吹きをかけられたようで、とても小さく。
音も、ザー、ではなく、サワサワ…、というような音で。
今降っているのはただの雨じゃない、《霧雨》だ。
──霧雨が降るのは本当に久しぶりだ。最後に降ったのはいつだ?
自分の傘を手に取って、外に出る。ワンタッチ式の傘を、バッ、と開くと、目を閉じて雨音に耳を傾ける。
開いた傘に雨粒がぶつかり、柔らかく優しい雨音が響く。目を開けて外を見ると、柔らかなレースカーテンのフィルターがかかったような景色が広がっていて思わず「綺麗……」と呟く。まだ若干の頭痛はあるが、霧雨が作り出す柔らかな音と景色に頭痛がある事を忘れ、傘をさしながらあまりの美しさに立ち尽くす。
だがすぐに、はっ、と我に返る。
──まずい、まだ仕事中なのに。早く中に戻らなきゃ。
と、傘を閉じて傘についた雨粒を軽く振り落とし、いそいそと中に戻った。
"一筋の光"
今日は朝からずっと曇り空。「雨は降らない」と予報だが、朝は薄らだった雲が少しずつ厚くなっているような気がして『本当に降らないのか?』と何度も疑った。帰路に着こうと扉へと歩きだす患者達に
「天気予報では《降らない》と言っていましたが、空模様が怪しいので雨に打たれないよう、お気を付けて」
と、声をかけて扉が閉まるのを見送った。
やはり杞憂だったか、いつまで経っても雨は降らず、夕方になった。流れが落ち着いてきたので、窓の外を見上げる。夕方になっても尚、曇り空が広がっているだけ。
「いらねぇ気遣いだったか……」
今やお節介となった自分の気遣いが患者達に『かける必要のない心配をあおってしまった』と少し気分が落ち込み、視線も少し下に向いてしまう。
──いけない、まだあるんだ。上を向かなければ。
パッ、と視線を上げる。
「……っ」
窓の外。今まで見た事のない光景が目に飛び込んできた。
分厚い雲の切れ間から夕日の光が漏れ出て、綺麗な光のカーテンができていた。
窓の錠を上げ窓を開けて、改めて光のカーテンを見る。
本当に綺麗で、思わず息を呑む。
──あの人達も、この空を見ているだろうか?
ふとそう思うと、口角が少し上がった気がした。
深く吸い込んで、長く息を吐き出して身を引き締めると窓を閉める。
──さてと、もうひと踏ん張りだ。
身を翻し窓から離れて、元の場所に着いた。
"哀愁をそそる"
朝焼けを見ても何とも思わないのに、夕焼けを見ると少し寂しくなる。
花畑も、昼間だと華やかだけど、夕方だと儚さを強く感じる。
同じ景色でも、夕方に見ると哀愁を感じる。
けれども俺は、そんな夕方の景色の方が好き。
夕方の空気が好き。夕方の方が集中して作業が捗っている気がする。
それと、夕方になると長い一日がもうすぐ終わると安堵して『もうひと踏ん張り』という気持ちになる。
"鏡の中の自分"
「…っと、これで全部だな」
開院準備を完了させ、診察室を出て居室に入り、白衣を掛けたハンガーを手に取ってハンガーから外し、壁に戻すと、白衣を翻して腕に通す。軽く襟を整えるとクローゼットを開けて、扉の裏の鏡を見ながらしっかり整える。
ふと目線を上げ、鏡に映る自分を見る。前髪を撫でると髪先が、さらり、と解ける。
──前髪、少し伸びたか?
と、思いながら目線を少し引いて顔全体を見る。メッシュのように顔の両サイドに生える白髪は変わらず。だが顔付きが少し違う気がした。少し前の自分では考えられない、少しの安らぎを覚える顔付き。
流石に五年前と比べたら表情が固いが、当時の自分とあまり変わらない顔付きだった。
──いつの間にか、またこんな顔できるようになったのか……。
不思議そうに頬を指で撫でると、口角を上げる。当時の自分と同じ高さまで、とはいかない。当時の半分以下の高さ。何とかそれ以上上げようとすると、頬がプルプルと震えてしまった。
──やっぱり駄目か。
真顔に戻して、また頬を撫でる。
少し前の自分ではできなかった笑顔を、五年前の自分のようにはできずとも、少しでもできるようになったのだと思うと、何だか少し嬉しい気もする。
「あっ……」
ふと時計を見る。もうすぐで病院を開ける時間だ。正面玄関の扉の施錠を開けなければ。
「……っ」
両頬を叩く。パシンっ、と小気味良い音が部屋に響いた。
「……ふぅ」
一息吐いて顔を引き締め身を翻す。長い白衣の裾が、ふわりと舞い上がる。卓上の引き出しを開けて正面玄関の鍵を手に取ると、居室を出て廊下を歩いた。