"別れ際に"
「…っと、そろそろ行く」
いつもの休憩スペースでだべっていると、時間になったので椅子から立ち上がり、帰ろうとする。
「ん、そうか。……」
俺が立ち上がったのを見て、飛彩が左腕に着けた腕時計で時間を確認し、少々名残惜しそうに(何か言いたげな顔をしながら)立ち上がる。その様子に小さくため息を吐く。
「まだ時間あっけど、テメェの事だから早めに行って準備してぇんだろうと思って」
俺がそう答えると、フッ、と鼻を小さく鳴らして
「思った以上に俺を理解しているな」
と、感心したような顔でこちらを見る。
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」
「それもそうか」
んじゃ、と一歩踏み出し休憩スペースから出ようとする。
「ぱにゃにゃんだー」
「…はぁ?」
ふいに謎の言葉(言葉か?)をかけられ、思わず振り返って怪訝な声を出す。
「ぱ、にゃ…、なんだ?」
「《ぱにゃにゃんだー》。ラオス語で《頑張れ》という意味だそうだ」
──ラオス語…。という事は、れっきとした外国語か。つーか、何で急に…。まぁどうせ『何となく』なんだろうけど。
「ほぉー…」
──だが分かったところで、どう返せと?
「因みに対となる《頑張る》は《ぱにゃにゃん》」
と、まるで俺の思考を読んだかのような言葉を続ける。
「へ、へぇ〜…」
「だから」
「は?」
──だから、という事はまさか…。
「俺に言えって事か?」
そう続けると、コク、と首を縦に振った。
──マジかよ…。
意を決して、グッ、と唇を固く結び、口を開く。
「……ぱ、…《ぱにゃにゃ、ん》………っ」
しりすぼみになりながらも言い切った。
「…これで満足か?」
そう言うと、飛彩は「あぁ」と満足げに頷いた。
「あっそう。じゃ、今度こそ行く」
恥ずかしかにいたたまれなくなり、まくし立てるように言い放つと今度こそ帰ろうと足早に廊下へと大股で歩く。
「……」
廊下まであと一歩のところで、ピタリ、と足を止めて振り返る。
──テメェが俺なんかを激励してどうすんだよ。
急に足を止め、振り返った俺に不思議そうな顔をする。
「……ぱ、」
「?」
不思議そうに首を傾げて言葉を待つ。
「…《ぱにゃにゃんだー》……」
──激励すんのはこっちの方だ。
一瞬驚いて少し大きく目を見開く。すぐ元の表情に戻ったかと思うと
「あぁ、《ぱにゃにゃん》」
柔らかく、ふわりと微笑みながら返してきた。その表情に胸が跳ねる。かぶりを振って
「じゃ…、じゃあなっ」
半ば吐き捨てるように廊下に出る。後ろで「あぁ、また」と声がかかる。早足で病院から出て、敷地外に出てそそくさと自分の病院に戻る。少々乱暴にポケットから鍵を取り出し、錠を開けて中に入り扉を閉める。閉めたと同時に両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んで
「あぁー…っ」
と、大きなため息を吐く。
「穴があったら入りてぇ〜…」
"通り雨"
「うわ…」
用事を済ませた帰り道、急に雲行きが怪しくなり近くの店の屋根の下に行くと同時に雨が降り出した。
「雨降るなんて聞いてねぇぞ…」
スマホを取り出して天気アプリを開き、雨雲レーダーを見る。雨雲はそんなに大きくなく、少し待っていれば雨が止むだろう。
──さて、どうするか…。このまま止むのを待つか、店に入って時間を潰しながら待つか…。
うーん、と少し考えていると、優しく柔らかな雨音が鼓膜を揺らした。
──まるで歌ってるみたい。
パラパラとリズミカルに落ちる雨音に、ふいに鼻歌が出る。
「フ〜フフ〜フフ〜フ〜フ〜…♪」
パラパラと降り続ける雨とのセッションに体が揺れそうになるが、人の目があるので抑える。
──まさか、雨を《楽しい》と思う日が来ようとは…。けど…いいな、こういうの。
そう思いながら鼻歌を口ずさんでいると、いつの間にか雨音がしなくなり空を見上げると、洗いたてのように澄み切った青い空が広がっていた。大きく深呼吸すると、洗いたての空気が鼻腔を通る。
「…気持ちいい」
そう言うと足を踏み出し、再び帰路に着く。その足取りは心做しか、とても軽かった。
"秋"
風が冷たくなってきて、日もだんだん短くなってきて。トンボも青空の下を飛び回って、雲の形も夏に見たものとは全然違う形になって、それだけでも『秋だな』って思うけど。
街を歩いていると、ハロウィンの飾り付けをしている店がいくつかあって。服屋さんに置いてある服も、カーディガンとか長袖のトップスとか夏より肌の露出が少ない服、色だと山吹色とかワインレッドとか秋っぽい色のものが多くて。洋菓子屋さんに置いてある、芋やかぼちゃや栗を使った、クッキーとかモンブランとかタルトとか見るようになって。この前見た時は、梨とか葡萄とかをふんだんに使ったタルトが置いてあった。花屋さんに置いてある花も、秋に咲く花に変わっていって店の中が秋の花の良い香りでいっぱいになって。この前まで夏だった色々な風景が秋になって、少し寂しい。けど、出会いがあれば別れもある。出会いと別れを繰り返して、変わっていく。環境も人間関係も、それに伴って自分の考え方も変わっていく。
自分を変える事は難しいけど、ちょっとずつ進んでいけば自ずと変わっていく。変われば、それまでとは違う《新しい自分》になる。けど変わる事は、それまでとは違う考え方になって、それまで何とも思わなかった事に悩んだり迷ったりして、苦しい。けど、《変わる》って事は、それまで自分と向き合って考えて決めた事。それが最善だと思ったから《変わる》事を選んで、その先を進んでいくと決めた。俺は不変を望まない、またここから始めよう。
"窓から見える景色"
一日の業務が終わり、明日の準備をしていると、ふと窓の外を見る。
「うおっ」
窓の外の夜空に綺麗な月が登っていた。模様が肉眼でも分かる程、あまりにも綺麗で驚きの声を上げる。
すると、手を止めて窓に近付き、窓の外の月を見上げる。
「はぁ…」
黄金色に輝く月に感嘆の息を漏らし、しばらく見惚れてしまう。
──このまま、吸い込まれてしまいそう。
うっとり、と月を見上げながらそんな事を思う。が、はっ、と我に返り頭を振る。
──んな事してる場合じゃねぇだろうが、俺。
心の中で自分に喝を入れ、そそくさと窓から離れて準備の続きを再開した。
"形の無いもの"
電車のボックス席に座って一息吐き、窓を見る。窓に映る俺の顔を見ると、頬にキラリと光る一筋の糸のようなものが通っていた。
俺、泣いてた…?
いや、《泣いてる》の方が正しいだろう。目元を見ると、今も目から涙がポロポロと零れ落ちている。指で頬を優しく撫でる。きっとあの町の事は、一生忘れないだろう。訳の分からない事件に巻き込まれて、不思議な体験をして憔悴したのもそうだが、その中で自分自身を見つめ直して、自分が思っていた以上に心に溜め込んでいて、苦しんでいて。それまで何をすればいいのか分からなかった。けれど、心を大切に進もうと思えた。そしたら急に道が開けた様に《やりたい事》《やるべき事》が分かって、おかげであの町に着いた時よりも心が暖かい。来る前より俺自身が好きになった。
これからずっと辛い事や苦しい事があるかもしれない。けれど、だからって見て見ぬふりをするのは、自分の心に嘘をつくのと同じ、自分の心を傷付けるのと同じ。《あいつ》と約束したんだ。《もう1人ぼっちにしない》って。たとえどんな現実が待っていようとも、逃げず背けずしっかり向き合って、前へ進み続ける。それに、俺より若いのに、あんなのと幾度も戦っている皆に合わせる顔がない。
いつか《やるべき事》を片付けたら、会いに戻ろう。笑顔で。
再び窓に映る自分の顔を見る。そこにはもう、以前の《花家大我》はいなかった。