"夜明け前"
「……ッ!!」
飛び起きて、ドクンドクン、と早鐘を打つ心臓に手を当てながら、ハァッハァッ、と肩を上下させながら必死に酸素を貪るように息を吸う。またあの夢か…。あれからもうすぐ5年経つというのに、全く消え失せない。頻度は少しずつ減ってきてはいるが、それでも起きる度に辛いのは変わらない。一体いつになったらこの悪夢から抜け出せるんだ?
少しずつ落ち着いてきたので、呼吸を徐々に緩やかにする。元の呼吸のリズムに戻ったところで、窓を覆うカーテンを見る。まだ日が差していない。今の時刻を確認する為に枕元に置いていたスマホの電源ボタンを押して、時刻を表示させる。画面には《AM3:30》と表示されている。
「まだ夜明け前じゃねぇか…」
けれど、すっかり目が冴えて二度寝する気になれない。
「仕方ねぇ。これでも読みながら時間潰すか」
キャスターの上に置かれた、栞を挟んだ文庫本を手に取ってベッドから立ち上がって部屋を出る。給湯室でインスタントコーヒーを淹れ、コーヒーが入ったマグカップを文庫本を持つ手とは反対の手で持ち、診察室に入ると明かりをつけて椅子に座り、マグカップをデスクに置く。引き出しからラムネの入った小さな容器を取り出し、蓋を開けて1粒手の平の上に出して口に入れて噛み砕く。ラムネの優しい甘さが口の中に広がっていく。そしてマグカップを手に取り、コーヒーを1口(淹れたてで熱いのでちょびっとだけ)含む。コーヒーの良い香りが鼻腔を擽り、苦味が広がるが、先程食べたラムネの甘さが幾らか中和してくれる。
「ほぅ…」
本当の意味で落ち着いて、ため息を漏らす。文庫本の栞を挟んだページを開いて読書を始める。
たまにはこうい朝も良いかもしれない。コーヒー片手に本を読みながら夜明けを待った。
"本気の恋"
ずっと《恋》なんて知らなかった。
言葉だけは知っていた。だけど、学生の頃は医者になる為に勉強ばかりしていたし、医者になってからも1人でも多くの患者を救う為に日々奔走していたり、最新の医学を調べて学んだりしていたから、恋愛なんて自分には縁遠いもの。
それなのに、そう思っていたのに。29になって、しかも同性の、年下のやつに《恋心》を抱くようになるなんて誰が想像できる?最初は『なんかあいつ、よく俺の視界に入ってくるなぁ』と思う程度で。あいつが来た時、心のどこかで喜んでいる自分がいることに気付いて。以前から料理の腕は立つ方だったが、ある時期を境に料理のレパートリーが増えていた事にも気付いて。あいつと離れている時、何だか胸が苦しくて辛くて。それらに気付いた時、俺は一体どうしてしまったのか、と不思議で仕方なかった。
それは《恋》だ、と言われた時勿論混乱した。初めての感情の名前が《恋》だし、その相手が同性だし。けど、それを否定する事なんて出来ないし、したくない。そんな事したら、自分の心に嘘をついて、自分を否定する事になりそうで怖かった。だから、こんな自分を受け入れて、何もしないで過ごす事を選んだ。この気持ちを伝える事なく、ずっと片想いでいる事を選んだ。だけど、苦しくて苦しくて、片想いでいる事に耐えられなくて、どうしようもなくて。いつか伝えなくちゃいけない。心臓が、ドクンドクン、と打ち付けてきて痛いけど、伝えなくちゃ。伝えなくちゃいけない。この想いを、胸にわだかまっている言葉を伝える勇気を、どうか、俺にください。
"カレンダー"
「そういやこの後何かあったか…?」
予定を確認する為一度居室に戻って鍵付きの引き出しの鍵を開けて、中からスケジュール帳を取り出しページをパラパラと捲って今月のページを開いて確認する。数日後に締め切りのやつは、もうできてて昨日チェック済みで提出するだけだから、今日か明日提出するか。早く提出するのに越したことはないし。えぇ〜っと、他に予定は…。サラリと今月のスケジュールに目を通す。それ以外はプライベートな予定だらけだった。来月のページなども開くと、次の月も、その次の月も、何なら先月のも先々月のも、仕事のより個人的な予定の方が多かった。
「以前の俺がこれを見たら、相当驚くな」
ハハ、と笑みを零しながら想像してみる。きっと混乱してフリーズもするなぁ。
などと想像しながらスケジュール帳をパタリと閉じて、元あった引き出しの中に仕舞い、鍵を閉める。
「さて、次が来るまでに補充するか。…まだ残りあったか?」
居室を出て、処置台がある診察室へ向かう。無かったら、明日物資を頼もう。
"喪失感"
小さい頃、大好きだったうさぎのぬいぐるみがあった。模様は黒のハチワレで、片耳の先が垂れたうさぎのぬいぐるみ。大きさは今の俺の、両の手のひらに乗っかるくらいの小さいやつ。そいつに『はな』と名付けて、いつも両手で持ちながら(学校以外の)色々な所に持って行っていたし、勿論寝る時も一緒だった。
けど、ある日突然はなが居なくなってしまった。1ヶ月位だろうか、リビングでも部屋でもずっと泣いていた。親が心配して、俺の好きな物を作ってくれたり、俺の好きな場所に連れて行ってくれたりしたが、1ヶ月位は何を食べても味がしなかったし、何を見てもモノクロのようだった。自力で何とか吹っ切れたが、喪失感は完全には消えてくれなかった。
何でこんな事思い出したのか。それは前に、俺がもう一度仮面ライダーになる前、うちに入り浸っていた猫が、はなと同じ模様をしていたから。首輪を付けていたから何処かの飼い猫だったのだろう、ニャーニャーとよく鳴く猫で、気が散るし鬱陶しかったけど何だかんだ憎めなくて可愛かった。その猫は今も入り浸っている。まぁそいつ、普通の猫じゃないし。取引を持ち掛けられた時に変な世界に連れて行かれて、姿が変わった上に人の言葉も喋るし、バスになったりもしたし、戻って来た後鳴き声じゃなくて人語になってたし、猫より化け猫って言った方がしっくり来るけど。
"世界に一つだけ"
コンコンコン
パソコンと向かい合って書類作業していると、診察室の扉の方から小気味良いノック音が鳴って室内に響く。一旦手を止め、床を軽く蹴って椅子を回転させて扉の方を向く。
「はい。どうし……、なんだテメェか」
常に開け放たれている扉の所に、手にA4サイズの紙封筒を持っているブレイブが立っていた。入れよ、と手で入室を促すと、軽く会釈してこちらに歩み寄って来る。
「作業の邪魔をして済まない。頼まれていた資料持って来たぞ」
そう言って、持っていた紙封筒を俺に差し出す。
「おぉ、ありがとよ。」
受け取ると、デスクの上のペン立てからハサミを取り、紙封筒の上から約1mmの所をハサミで切って、残り数cmの所で切るのを止め、切り口を開いて中を覗き込んで確認する。
「…確かに。悪ぃな、急ぎで頼んじまって。急に気になって必要になってよ。…けど助かった」
「礼には及ばん。貴方の、細部にまで目を向けて答えを導き出すところに何度救われたか…。だからこの位、お安い御用だ」
そう言いながら、口角を僅かに上げる。
「そりゃどーも。騎士様のお褒めに預かり光栄です」
少々わざとらしい口調で返すと
「賢者様の命令とあらば何なりと」
と、返された。
「ハッ、賢者様って」
俺はそんなガラじゃねぇよ、と自虐を込めて返す。用事を済ませたブレイブが「では」と踵を返して廊下に出ようとするのを止める。
「あ、ちょっと待て。渡してぇのがある」
「渡したい物、とは?」
立ち止まって体をもう一度こちらに向けたのを確認して、1番上の引き出しを開けて貝殻のついたチャームを取り出し、ブレイブに向けて掲げる。
「これ」
「これは…?付いている貝殻は、前に海に行った時に拾っていた貝殻か?」
「ご名答。あん時拾った貝殻で、チャーム作った。カバンの取っ手に括り付けるタイプのやつ」
「手作りか?店に並んでいても可笑しくないクオリティだが…」
目を見開いてチャームを見る。恥ずいからあんま見ないでくれ…。チャームをまじまじと見られて恥ずかしさに悶えていると、パッと顔を上げて俺の方を見て遠慮がちに聞いてきた。
「渡したい物とは、これか?」
恥ずかしがりながら、おぉ、と頷く。
「ほら、受け取れ。早く」
とブレイブに差し出す。受け取ったのを確認すると、チャームから手を離してまた床を軽く蹴ってデスクに体を向ける。
「ありがとう。大切にする」
「おぅ…」
と、返事をする。恥ずかし紛れに、首から下げたネックレスの、チャームとお揃いの形をした貝殻を指で撫でながら。