恋人とは、「恋しく思う相手」だと教えられた。辞書にもそう書いてあったし、きっと間違いじゃない。でも「恋しく」とはどういう感情なんだろうか。周辺の人間に聞けば、相手を大切に思うこと、だとか離れたくないと思う人だとか。まぁ色々喋ってくれた。
つまり。要するに。自分の手元から離れて欲しくない人のことを言うらしい。それが恋人なんだと。
「だからさ、僕が君を恋人っていうのは何も間違ってないと思うんだよ」
しゃがみ込んで震えている彼女は、ぶんぶんと首を振った。おかしいな。何か怖がらせるようなことをしたか?……あぁ、僕が上から見下ろしているからか。
近づいて座り、目線に合わせるとそっぽを向かれてしまった。
「僕は君にここから居なくなって欲しくないし、ずっと横にいて欲しい。顔を合わせたんだから、明日からはお話もできるよね?いつもカメラ越しだったからさ、君の笑顔をもっと見たいんだよ。いいでしょ?だって恋人だもん。返事くらいしてよ、西川みことさん」
「なんで、私の名前」
「ずっと見てたからだよ」
好きな人について知りたいなんて当たり前だ。相手の名前すら知らないで愛を囁くなんて、不審者にも程がある。
安心させる為に笑うと、ひっ、と彼女が後退りした。後ろはベッドだよ。もしかして誘ってるのか?……悪いけど、それは後日にしようね。
なんて物思いに耽っていると、彼女が突然玄関に向かって走ろうとしてきた。慌てて腕を掴んだら転びそうになったから必死で抱きかかえる。ぶんぶんと腕を振って抵抗するのが本当に可愛い。力で敵うわけ無いのになぁ。
「はー……急に動かないでよ、危ないじゃんか」
「離して、あなた自分のやってること分かってる!?ストーカーだよストーカー!急に家に引っ張ってきて閉じ込めて……!」
「さっきごめんって謝ったでしょ?それとももう一回自己紹介からやり直す?」
「いらない!いいから帰らせて!」
「帰さないよ。何回も言うけど、僕と君は恋人同士だよ?同棲したいよね。うん。俺はしたい。君も一緒になりたいでしょ?」
「そんな訳ない!」
「強情だなぁ」
ここまでは言うことを聞いてくれないと、最終手段を取ることになる。決して良い方法じゃ無いけど、逃げられるよりはずっといい。
「ま、いいや。一緒に住んで長い時間隣に居れば、きっと僕のことを好きになるよ」
「いや、いやだ……!離して、帰してよお願い」
「駄々こねないの。んー、今日婚姻届書いてもらおうとおもったけど明日にするか」
ゆっくりとお互いを知っていけばいい。時間はかかっても、将来夫婦になるんだから焦らなくていいよね。
「とりあえず逃げないように手錠嵌めるよ。あぁ寝返りとかは打てるくらいの長さにしてあるから、安心してね」
まだ色々叫んでいるけどとりあえず無視。外は危ないんだから、安全なこの場所に居られることをありがたく思って欲しい。明日ゆっくり話せるといいな。
「それじゃおやすみ。いい夢を」
あぁ幸せだ。好きな人と同じ屋根の下ってこんなにもいい気分になれるものだったのか。
彼女はもう僕から離れられない。いや、離さない。僕無しじゃ生きられないようにしないと。やることは沢山あるな。記念日のマークをカレンダーにつけて、ベッドに潜り込む。
朝食は彼女の好きなものを作ろう。何がいいかな。喜んでくれるかな。いやだ、ばかり言ってないで笑ってるくれると嬉しい。
最高の時間を明日から生きられることに胸をときめかせながら、僕は睡魔にゆっくりと落ちていった。きっといい夢を見られるだろう。
2024/11/16
「はなればなれ」
前日の日照りから一変、今日は涼しい気温だと、テレビのニュースキャスターは喜んでいる。「半袖では厳しいかもしれません」という助言の元、薄手の七分袖シャツとコートを引っ張り出した。もうあと数日で「秋」という季節も三分の一が過ぎる。今日を皮切りに過ごしやすい気温になると良い。
なんて呑気な考えをしていたのは朝の話。夜になった今はすっかり冷え込んで、さらに風が少し強めに吹いている。日中のぽかぽかたした日差しが恋しい。涼しいといえば涼しいし、寒いといえば寒いというどっちつかずの冷たさが全身を包む。それに顔を顰めながらも、自分は今、公園のブランコに腰掛けて、何をするでもなく宙を見上げていた。
家に着けば、こんな所より遥かに良い環境なのは間違いない。風呂にもゆっくり浸かれるし、動きやすい服に着替えてのんびりもできる。反対に、ここは騒がしく囃し立ててくれるテレビもなければ、落ち着けるベッドも無い。あるのは寂しい月明かりと、寿命が尽きかけた蛍光灯の点滅くらいの物だ。「あの灯りが消えたら私の命も……」なんて妄想をしてみると、いよいよ動く気が無くなってくる。ギィギィと揺らすブランコの音でさえも、なんだか命を削るようなものに聞こえて仕方ない。動かしているのは私自身なのに。
時計を見る。既に十時半を回っていて、今すぐに帰らなければ、と足に力を入れる。まだ夕食も済んでいない。明日も仕事なのだ、休む訳にはいかない。そんなことは分かっているのだけど。
帰れば明日が来るのか。
至極当たり前のことを考えて、ほんの少し浮いていた腰がまた落ちる。ため息を一つ、またブランコを揺らした。
別にここで帰らなくても明日はある。勝手に向こうからやって来る。少しでも休んで疲れを癒してからになるのか、全身を疲弊させたままにするのか。それくらいの違いだ。駄々をこねていても何一つ解決しない。
ギィギィ。
ギィギィ。
ジ……。
顔を上げる。蛍光灯が消えていた。
月はぼんやりとそこにあるが、道を照らしてくれるほどの明るさはない。まるで自分だけが取り残されたような、目の前の暗闇がそっと自分を包んで離してくれないような。そんな錯覚に目を細める。
身動き一つ取れず、ぼうっと浸ってどのくらい経ったのか。トドメを刺すように風の力が増した。びゅうと吹いた冷たさが肩や足を氷づけにして、揺られる気すらも奪い去っていく。握っていた手もそっと離して、鎖にもたれかかった。
ついさっきまで、憂鬱としながらも明日のことを考えていたはずだった。この公園に来たのだってただの気紛れで、長居するはずでは無かったのに。
急激に眠気が襲ってきて、抗うことなく眼を閉じる。風は相変わらず私を抉っているけれども、正直それさえも心地いい。このまま削られて、さらさらと溶けていったとしても後悔は無い。
もし今が夏であったなら蒸し暑さに身悶えているだろうし、冬であれば寒さで惨めなことになっていたに違いない。この季節であったからこそ、私は心置きなく身を預けられる。
今日が秋で、本当に良かった。
2024/9/27
「秋🍁」
コトリ、と音を立てて置かれた「それ」を、つい目で追ってしまったのは仕方のないことだと思う。
つい先ほどまで彼の指で光っていたはずの指輪は、同じ物であるはずなのに全く別のものに見えて仕方ない。本来なら流れに沿って私も外すべきなのかもしれないが、視界がぐにゃぐにゃと揺れてそれどころではなく。ただ沈黙が喉を絞めて息が苦しくなる。
「結婚とは、一種の契約です」
突然の一言に困惑したが、頷く。
「これからの人生を互いに預け、共に生き、相手を大切にするという契約。それが結婚であると私は思っているんです」
少し小難しい言い方な気がしなくもないが、別に間違ったことは言っていない。特に反論も無く再度頷き、そこで首をかしげる。
てっきり私は、彼に何か粗相をしてしまったのかと思っていた。知らない間に彼を傷つけていたとか、彼の両親の不興を買ってしまったとか、それとも飽きられてしまった、とか。
特に彼を束縛したりだとか、不必要に女性関係に敏感になった覚えは到底ない。会社の付き合いというものも納得しているし、部下を率いる立場の人だ。食事に行くことも多々あるだろう、特に疑心を持ったことも無かった。何よりも彼の口から自分以外の女性の話なんてついぞ聞いたことが無かったものだから、そもそも考えていなかったとも言える。
「今まで、特に女性の話は聞いて来なかったですけど……もしかして、他に好きな人でも出来ましたか?」
「有り得ません」
食い気味に否定されてしまった。嬉しい反面、疑問符しか浮かばない頭で必死に考える。離婚なんて、ちょっとやそっとじゃ出てこない選択肢だと思う。よっぽどの理由があるか、私に隠し事があるか。
「素直に離婚して貰えませんか」
「理由無しになんてできません。説明をください」
少し目線を逸らした彼は、申し訳なさそうな顔をした後、真っ直ぐに私の眼をみた。
その顔を私はよく知っている。夜に私を貪る獣の顔だ。私が一生かけても敵わない男の、私にだけ向いている劣情。反射でびくりとするのを必死で抑えつける。
「先ほども言いましたが、結婚とは契約です。つまり、反故にする場合は破棄しなければならない。」
私の手にスッと手が伸びた。右手の指輪を、ゆっくりとした速度だがしきりに撫でられる。
「相手を大切にする。つまり、あなたを今後今までのように甘やかしてはあげられないんです。私が我慢ならない」
あなたが眠っている間、どれだけあなたをぐちゃぐちゃにしたかったか、泣かせたかったか知らないでしょう。閉じ込めたいとどれだけ願ったか。自分だけの物でいてくれと何度言い聞かせてたか。分からないのも当然です、見せないようにしていましたから。
普通の人はもっと大切に愛しますし、自由を奪うような……こんな方法は取らないでしょう。なるべく長く隠すように決めたつもりでしたけど。あなたを騙しているようで心苦しかったんです。
一息に言って私の指輪にキスを一つ落とした彼は、自室に向かいじゃらじゃらと鎖を引っ付けた首輪を持って来た。机の上に置かれた物にこれは何?とか誰用?とか聞くのは野暮だ。彼の好きな青色の綺麗な首輪。
「ね、理解しましたか。今指輪を置いて頂ければ、すぐに離婚届を持ってきます。私の分は既に記入済みですし」
なんと用意がいいことで。彼のことだ、あとは私が名前を書くだけで離婚が成立するよう色々準備したに違いない。
確かに一般の人達は、自分の配偶者に首輪をつけようなんて思うことはないだろう。彼の言っていることは「自分だけのペットが欲しい」に近しい。私は人間だし、私なりの意思がある。それを制限するための首輪でもあるだろうけど、一番は逃亡防止だ。
「私が寝てる間にこれを着けようとは思わなかったんですか?そうしたら、私は何も出来ませんでした」
「……無理強いは、させたくなかったので」
つまり彼は、私に自分の意思で着けて欲しかったと。
再度彼を見る。
怯えていた。見たことの無い顔だった。指輪に手を掛かると眼を閉じたのが前髪越しにでも分かる。このまま薬指から抜いて見せれば、彼は無理に笑ってそのまま離婚し姿を消すだろう。いやもしかしたら、吹っ切れて無理矢理犯される可能性も無くはない。
……それもいいかな。なんて考えが出た自分に一瞬驚いた。私は破滅願望でも持っていたんだろうか。
大体、結婚したということは、私はあなたのものだし、あなただって私のもの。なんで話し合いじゃなくて離婚を突きつけられなきゃいけないのか。そりゃあ色々逸脱している部分はあるが、何もここまでしなくても。
そこで、私はようやく自分自身が少し怒っていることに気がついた。と同時に、そこまで彼に愛されているのが堪らなく嬉しかった。
指輪を外して、彼が外した隣に置く。口を真一文字に結ぶ彼に少し笑いそうになる。
「言う通りにします。夫とか、妻とか、もうやめましょうか」
「……そっか。分かりました。なら離婚届を」
「その必要はないです」
は、と彼が顔を上げた瞬間に首輪を突きつける。鎖が結構重い。腕がプルプルしているのを察してか、慌てて受け取られた。
「着けてくれるんですよね?」
顎を上げながら言うと、少し見下ろしているようになってしまったけど、彼が泣きながら頷いたのでよしとしよう。
首が重い。自由に動けないし、じゃらじゃらうるさいし、時々嫌になるくらいいじめられる。でも私を見て彼がわらうから、その眼を私に向けてくれるから。良かった、と今日も安堵するのだ。
2024/7/16
「終わりにしよう」
相手に向けて何かプレゼントをあげるときは、皆何をあげますでしょうか。実用品とか、あって困らないギフトカードとか、ネタだったりだとか、様々だと思います。
私は「相手に似合いそうな物」を選んできました。
長らく一緒にいると、なんとなく好みそうな物とかって見えてくるじゃ無いですか。色とか、形とか。可愛いもの、格好いい物など。少し見当がつかない場合は、必殺のギフトカードでやり過ごしたり。まぁ今の所友人達からは好評なので、特に選んだ物に問題は無さそうです。
そして先月、とうとう私にもやって来たんです。彼女の誕生日というものが。
お恥ずかしながら、友人へのプレゼントを選ぶことはどうにか出来る私ですが、彼女へ向けてというのは初めてのことです。悩みに悩んだ結果、彼女が普段から好んでいるモチーフをあげることにしました。
彼女は青い薔薇が好きで、少し暗めの濃い青色を好んでいました。勿論他の色の服も着ているのを見ますし当然似合うのですが、彼女のイメージというと薔薇しか思い浮かばなかったのです。
話し合った結果、誕生日月の末にお互いプレゼントを渡すことになりました。書き忘れましたが、私と彼女は誕生日が一緒の月で、こうしてプレゼントを渡し合うというのも楽しみにしていたんです。憧れるじゃないですか、こういうの。
楽しみにしている日というのは中々来ない物で。たった一週間後が数ヶ月に感じながら、とうとうその日がやってきました。私が彼女に選んだのは青薔薇の形をした入浴剤です。美容がどうとかよく分からないことが沢山書いてありましたが、恐らく大丈夫でしょう。対応してくれた店員も太鼓判を押していましたし。
食事をたのしんで一息ついた後、私たちはプレゼントをお互いに渡しました。嫌がられたらどうしよう、違う物がいいと言われたらどうしよう。心配しながら固唾を飲んで見守っていた私に、彼女は笑顔で嬉しい、と言ってくれました。
緊張から解放され胸を撫で下ろしましたが、まだ彼女からのプレゼントを開けていません。箱に傷をつけないように丁寧に開けると、ドライフラワーが入っていました。とても綺麗な、青色の、薔薇。
彼女は自分の好きな物をあげるタイプなのか?花の置物なんて部屋に飾った経験すらないが、たまにはいいかもしれない。何より好きな人から貰った物ですし、大切にしない理由がない。
ありがとう、と口にしようと顔を上げたところで、彼女が笑っているのが目に入りました。
笑顔はもちろん何回も見ていますし、その度に見惚れて話にならないのですが、その時の笑みは違いました。恐怖などでは無いのですが、何か、がしっと自分自身を掴まれるような、そんな感覚だったんです。
思わず固まっていると、「どう?」と一言投げかけられました。
数秒思考が止まりましたが、プレゼントの感想を聞いているのだと気がついた私は、こくこくと頷きながら「ありがとう」というのが精一杯。本当はもっと重ねた方がいい言葉があったのでしょうが、焦ってしまって口から何も出て来ません。
どうしようどうしようと無い頭で考えていると、彼女がそっと私の手を握って来たんです。ただでさえ言葉に出来ない違和感と焦燥感で手一杯なのに、重ねて乱されてしまって身体が跳ねてしまいました。今まで手を握るのはなんら不思議なことは無かったのに。
「それ、私が好きな物なの」
それはそうだろう、と頷くと、彼女は私が持っている箱と私の顔を交互に見て、「だから」続けて言ったのです。
「私の好きな物を持っているアナタは、私の物なの。その花はそういう証拠」
ちゃんと飾っておいてね。せっかく枯れない物にしたんだから。
その日、私はどうやって会話を終わらせて店を出て帰宅したのか今だに思い出せません。
ですが貰った花は玄関先にありますし、埃一つ被ることなく綺麗に咲き誇っています。これが枯れることはきっと一生無いのだろうな、と思います。
当然ですよね。自分から壊さなければ散らない物なのですから。
2024/5/23
「逃れられない」
あの頃は幼かった。ひたすらにゲームセンターで遊んだり、カラオケで六時間熱唱したり、とにかく体力に任せた遊び方をしていた時期がある。今では到底真似できないやり方だけれど、当時はとても楽しかった。
複数のクラスメイトと集団で遊んでいた時期もあったが、とりわけ遊んだのは一人のAちゃんだった。
彼女はクレーンゲームが上手く、相性のいい台では二百円や三百円でぬいぐるみを腕に抱いていた。何回かおこぼれをもらい、二人でもふもふな毛並みを撫でては笑い合ったことを覚えている。他にもコインゲームをしたり、暗い中でゾンビと戦ったり、まぁとにかく様々なゲームをした。
当時はスマートフォンなど便利なものは無く、一つのクラスに一人がガラケーを持っているかどうかの時代だ。特に約束する日は無いけれど、学校で朝に話し、その日の思いつきで決まることが多かった。今ではあまり無いことかもしれない。けれどその思いつきが楽しかった。
ぬいぐるみが増えていって、ちょっとした収納ケースいっぱいになるくらいに集まったある日。
いつも通りに遊び、笑い、もうそろそろ帰ろうと、私達は店の外に出た。そして「また明日ね!」と言い合い手をピースして帰り道を歩く。
どちらから始めたのか覚えていないが、帰る前にはピースマーク、また明日。これがルーティーンになっていた。これは今でも癖になっていて、友人達に時々聞かれるのだが、私にとってはこれが別れの挨拶なのだ。明日、もしくは次に会う為の言葉と言ってもいい。Aちゃんは反対方向で、尚かつ向かい側の道路に渡って帰る。それを追いかけて、車の往来で見えづらい中で再度ピースを見せる。……なんてこともしていた。お互い何をしているんだと今なら思う。
そしてその日を境に、Aちゃんは暫くの間姿を消した。要は学校に来なくなってしまったのだ。私は彼女の家の場所はおろか電話番号すら知らなかったし、当時、各クラスメイトの電話番号名簿は母の自室にあった。私は私でまた会えるだろうとそこまで気にしていなかった。
けれどその日は帰りに雨が降って、びしょ濡れで帰ってきた私は風邪を引いた。そしてどこから感染したのかインフルエンザに罹り、学校に行けない日々が続いてしまった。漸く登校できた日、斜め前の机を見るが、Aちゃんには会えない毎日が続いて行く。
一週間、一ヶ月と過ぎていったあの日。公園でボール遊びを楽しむみんなをベンチで眺めていると、通りの向こう、Aちゃん家族が歩いているのが見えた。
話しかけに道路を渡れば良かったのだが、少し億劫に思った私は、その場からAちゃんの名前を呼んだ。二回叫ぶと、お母さんらしき人がこちらを見て、Aちゃんの肩を叩いた。ようやく彼女が私を見る。
また遊ぼうよ、明日会える?と叫びながら手を振る私に、Aちゃんは私にピースして見せた。
だが少し、おかしかった。
ピースマークというのは、手の指を外側、つまり相手に向けてするものだ。けれどその時Aちゃんがしてくれたピースサインは逆。つまり手の甲をこちらに向けたサインだった。
一瞬「ん?」と思うが、幼かった私は気にも留めずにピースサインを高々に掲げた。その通りは大通りとは言えないが車の通りは少ないとは言えず、距離もある。それに親の前だ、大声で叫ぶのは怒られるのかな、なんて考えて、再度ぶんぶんと手を振ることで返事を保留にした。
Aちゃんはそれに少しだけ手を振って応えて、また歩いて行く。それを追いかけることはせず、私はボール遊びに戻ってしまった。
これが、私とAちゃんの別れになるとは思わずに。
その日以来、彼女と私は未だ再会出来ていない。彼女が転校して学校からは居なくなり、引っ越してしまったそうで電話番号も使えず、連絡先も分からぬままだからだ。
あれが最後だと分かっていれば、きちんと話をしに行ったのに。声を聞くことができたのに。せめて電話番号さえ聞いておけば、今でも楽しく通話をすることが出来たかもしれないのだ。悔やんでも悔やみきれない。
夕方五時、周辺の子供達が口々に叫びながら帰路につく光景を見る度に思い出す。この苦さは、恐らくこれから先、ずっと残り続けるのだろう。
2024/5/22
「また明日」