雨。雨。雨雨雨雨雨。
今言ったのはこの一週間の天気の話だ。三月に入り、もう数日で四月だと言うのに雨ばかり。風はびゅうびゅう吹くし、寒い。昨日は近くで花見のイベントがあったが、この雨でも多くの人だかりがあった。日本人の花見への根性には恐れ入る。……そう言うと、雨だなぁしか思えない私は日本人では無いのかもしれない。
大体、花見は晴れた日、ぽかぽかのお天道様の下でやるのが一番楽しいもの。というのは私の勝手な好みなのだが、生憎私には共にそういう物へ誘える友人が居ない。酒が飲める訳でも無いので、夜に花見酒へと洒落込もう、なんてこともできないのだ。一人で見れば良いという話ではあるのだが、それなら自宅への行き帰りに少し見上げる程度で十分では無いか。わざわざ人の多く騒がしい場所へ行く必要もないだろう。
そういう訳で。いつもより帰宅の遅くなってしまった私は、小雨の降る中で桜も見ずに騒ぐ集団を尻目に帰路を歩いていた。朝よりも勢いが無いとはいえ、雨は雨。傘を差さなければ濡れてしまうから、視界の大方は黒地で遮られている。
雨は好きだ。濡れることは避けたいが、水が屋根や草木を打つ音は耳に良い。今のような小粒のものは特に。夜は当たり前だが出歩く人間は昼よりも少ないため、このような音だけの世界を楽しめるのもまた贅沢と言ったところだろう。
コツコツ。ぴちゃぴちゃ。とんとん。
少し浮かれた気分になりながら四ツ木公園へと足を踏み入れる。この公園は、昼は風の子供に夜はふらふらと出歩く大人まで、地元の全ての人間の憩いの場だ。突っ切れば早く家に着くので、余程の馬鹿騒ぎを起こす輩が居ない限りは定番の道にしていた。
家に帰りたい。屋根のある安心な部屋でほっと一息、そうだ紅茶でも飲もう。買ってきたクッキーもまだ残っていたはずだ。バターをふんだんに使った素朴な味わいで、お気に入りの喫茶店でいつも帰る前に何袋か買って行く。うんそうだ、それがいい。
思わず早足になった私に、ひゅう、と風が一つ吹いた。そこまで冷たい風では無い。普段の私であればその程度で足を止めることはないのだが、今日は違った。傘で覆われた視界から、桜が落ちてきたのだ。鳥につつかれでもしたのだろうか、花びらが散ることなく綺麗な花弁である。幸い砂利などがない綺麗な道の上だったものだから、美しさを損なうことなくそこに降り立つことができた。
よくあることのはずなのだが、何故だか私は、その私の前に降りてきた花弁を拾い、上の桜を見上げた。
昼間日光を浴びて悠々と私達を見下ろしていた桜は、雨粒のヴェールを纏い、普段とは全く違う装いでそこにあった。電灯がまるでスポットライトのような明るさで桜を照らし、その光を受けた桃色の彼女は風に身を任せて踊るように揺れている。桜という花の一人舞台がそこにあった。
私は呆然とそこに立って、板の上で踊る彼女を見ていたのだが、再び風がこの身を引っ叩いてきたので我に帰って足を動かす。家に着き傘を閉じる時に気付いたことだが、私は拾い上げた桜を返しもせずに連れ帰ってしまっていたから、慌てて小皿に水を入れて迎え入れることに時間を使った。
紅茶を飲み、水に揺れる花弁を眺めながら明日の天気を見る。生憎の雨である。つまり、またあの舞台を観れるという訳だ。この子を返すついでに団子でもつまみながら観劇と行こうじゃないか。
風が木々を揺らす音が響く中で、明日の予定を考えながらのティータイムは、とても格別である。
2025/3/30
「春風とともに」
コンビニの入り口で立ち尽くす。最悪だ。傘パクられた。
入る時には、女性物の可愛いらしい傘が三本だけで、私の黒くて長い傘を見紛う訳がないラインナップだ。奥の飲み物コーナーに向かう前に、出口へと向かう男とすれ違ったのを思い出す。……お前か。あのヤロウ。
今日は厄日。そう断言できるほどに運が良くなかった。行きに傘は何故かひん曲がったし、仕事中はイライラ溜め込み中の課長に八つ当たりされ、おまけに今の傘だ。
何?私前世で悪いことしたツケを月払いにでもしてんの?
仕方なくまた同じ黒い傘を手に取る。六十五センチ、真っ黒な傘。男用みたいな見た目だけど、ビニールより頑丈だし、大きいから濡れにくくて良かったのに。溜め息を吐きながらレジに再度並ぼうとしてふと思い出した。昨日再度読み返した文章の一節。
「五百円のビニール傘から、きらびやかなデパートの寂れた一角に長年取り残された、上等な傘に買い替えるような、そういうちゃちな変化だと思う」
小説の内容自体は、今の自分の状況と全くもって当てはまらない。作品の男には女がいて、女も男を好きだ。この一節は男の、この女と居ることで幸福を認識できると言っているのであって、ただ傘を盗まれた哀れな私には何も重ねられるものが無い。それでもこれを初めて読んだ当時、想像した風景が頭をよぎる。自分がおしゃれな傘を片手に雨の中を歩く様。
確かにデパートの傘は、可愛いと思ったり色が素敵なものがある。それらを羨望の目で見ていたのは確かで、いつか自分も大人になったらこんな傘が欲しいなぁ、なんて思っていた。
でも正直、自分に似合う服だとか持ち物だとかを的確に理解できる人間は少ないと思う。私も未だ服に悩むし、ネットで見るような人達が羨ましいし、〜〜系とか名のつくような服を着こなしている人たちを見るのがとても楽しくて苦痛だ。似合う物なんて出会えない人間には特に。
だが、今はどうだ?私は傘が無い。不本意だけど、新しく買わなきゃならない。今後使う傘に出会いに行かなきゃいけないんだ。
傘を戻す。行き先は決まっていた。信号が青になることを祈って全力疾走。服、あんまり濡れないといいな。
青色が好きだ。空の色、海の色。自分を包んでくれる色。落ち着いた色がいい。大きいほうが濡れづらい。……あ、これ。
あぁ、ちゃちな変化かもしれない。特別高い訳でも無い傘だ。なんだったら明日パクられるかも。それは嫌だな。これは私の傘で、私が選んで出会った傘なんだから。
たかだか傘一本と、ポツポツと降る雨に踊らされながらも道を歩く。物に出会うとか出会わないとか、メルヘンな話だ。ただそこにあるものを買っただけのよくある日常。なんの飾りも必要のない話。
今日は、それでもいい日になりそうだし、欲を言うなら今後の雨の日もきっと楽しい日になる。そんな馬鹿みたいなデカイ幻想的と妄想を抱きながら、玄関の扉を開けた。
2025/3/28「小さな幸せ」
付き添いで買い物に付き合った一週間前。レジで精算されたカゴを先に受け取って袋に詰めていると、フロア全体に響くほどのつんざく声に身を固くした。思わず肩がびくりと跳ねて声の方を見ると、幼い女の子が入り口の前で泣き叫んでいるのが目に入る。しきりに丸いおもちゃか何かが入っている機体を指差して、言葉にならない叫び声をあげていた。いつものことなのだろう、その子の両親らしき二人は取り合いもせず、外へと我が子を引っ張って消えていく。休日のそこかしこで見る日常だ。
ぼうっと見ていると肩を叩かれる。いつの間にか会計を終わらせていた友人と袋詰めを再開した。カゴを入り口近くの置き場に重ねながら、ちらりと先程の女の子が欲しがっていたであろうものを見ると、キラキラなラメ入りの、色とりどりのスーパーボールが視界の端に映る。あぁ、あの子はあれが欲しかったのか。
自分も同じ年齢の頃、スーパーボールが好きだった。跳ねるし、持っていたものがとても不思議な色をしていてお気に入りでいつも持ち歩いていた。あれは紫というのか、はたまた別のきちんとした名称があるのかはいまだに分からないが、簡単にいうなら「宇宙色」だろう。キラキラとしたラメを内包し、絵本やテレビで見るような星々を彷彿とさせるそれを鞄に入れながら、「自分だけ星を持っているんだ」と信じて疑わなかった。子供特有の、夢のある思考。
事実、この都会では星なんて滅多に見れるものではない。一度だけ親戚の家で見たくらいだ。もしあの時に携帯を持っていたなら、所構わずシャッターを押し続けていただろう。……とてもこの目で見るものと同じとは思えないが、とにかく押すに違いない。黒い海にポツンと月が浮かぶ光景しか知らない、しかもまだ子供となると、自分の周り全てを星が覆い尽くして守られているような感覚だった。そんな壮大な、両腕では到底抱えきれないものを手のひら大の小ささに収めたんだ。しかもクラスで自分だけ。得意気になるのも分からなくはない。
そんな幻想的な考えをしている子供でも、時が経てば思考も変わる。今の今まで、あの美しいスーパーボールを大切にしていたことも、美しい夜空を見たことがあることもすっかり忘れていた。つまらない人間になったものだ。沢山の出来ること、手に入るものが増えたのに、あんなに鮮やかだった自分自身の世界の色は捨ててしまった。
エレベーターのボタンを押そうとしていた友人を引き止め、通り過ぎていた機体の前へと向かう。ツマミと連動している棒の付近には、あの日閉じ込めた星と同じような宇宙が引っかかっていた。もしかしたら。
財布の数百円を回して、どきどきしながらガチャンと回せば……望み通り、あの日と変わらない宇宙が、私の手のひらにあった。いや、前よりも星の輝きが強くなったかもしれない。光を当てれば、より強く瞬いてくれることだろう。
大人しく待ってくれていた友人に頭を下げて帰路へと向かう。帰っても暗闇しか無いあの部屋が、初めて楽しみに思えた。この宇宙がきっと、照らしてくれるに違いない。
2025/1/18「手のひらの宇宙」
人間は、その人の声から忘れていくんだそうよ。最初に聞いた時は信じていなかったけれど、今なら納得するわ。あなたの声はあんなに優しくて、心地よくて、私をこんなにも縛り付けて離さないのに、ちっとも思い出せないの。薄情よね、あなたが居なくなって一年しか経っていないのに。
もう匂いも、ちょっとした仕草も、あなたが溜め込んでいた茶葉も、全部無くなったわ。あなたの思い出の貯蓄を使い切ったのよ。手元になぁんにもない。早く戻ってきて貰わないと、本当に何もかもを忘れてしまいそう。
ねぇ、あなた、一体何を考えていたの?私、あなたが煙のように消えてしまうまで、あなたが苦しんで居たなんて知らなかった。考えもしなかったの。日記も勝手に読んでしまったけれど、あなた、毎日私のことを書きすぎなのよ。少しは自分の考えも書いて貰わないと。
でも、そう、あなたが決して私に愛想を尽かしたんじゃないことは分かったわ、だってあんなに細かく書いてあるんですもの。朝のパンにバターを塗るかジャムを塗るかなんて、一々覚えてないわよ。あれはあなたの日記というより私の観察日記ね。題名を書き換えた方がいいと思う。
アルバムもしまってあったわね。あなた本当に几帳面で、いつ撮ったのか分からない写真まで大切に入ってたから笑ってしまったわ。写真の練習だなんて言って、私しか撮ってないの知っていたのよ?いいカメラを買ったのだから、少しは自然も撮れば良かったのに。おかげで恥ずかしいアルバムだったわ。家族写真というより私だけの写真集ねあれは。
……私、昔によくあなたのこと「猫ちゃん」って揶揄ったことがあったわよね。あの時のあなたは小さく縮こまっていて可愛くて、ついそんなことを口に出してしまったのだけど。一緒になってからはかっこいい、なんて思っていたのに、最後は猫みたいに去って行くのね。
あなたの部屋の引き出しを見たわ。余命三ヶ月の宣告通知。あなた、私に自分の死を見せるのが嫌だったのね。馬鹿な人。どんな想像をしたのかしら。私が泣いて縋ると思った?あなたの居ない世界が苦しくて抜け殻になるとでも?
お生憎様、私、あなたのことを忘れてしまうような薄情な女よ。そんなみっともないことをする筈無いじゃない。葬式だって、ずっとあなたを見つけられないから出来ていなかったけれど、絶対に泣かないって決めてたのよ。
別にあなたがいなくなって寂しくなる訳でも無いわ。久しぶりに一人に戻っただけ。誰も居ないって気楽よ?朝から小鳥の声だけに集中出来るし、無駄に外を出歩いて疲れることも無い。本当に静かで楽しい毎日だった。
だからかしら?ちょっと苛々してしまったの。急に環境が変わったからとても辛くて、こんな所まで来てしまったわ。相変わらずここの崖は危なっかしいわね。昔と何にも変わってない。滅多に人が来ないからこそ、こんなに綺麗な月が見れるのだからまぁいいでしょう。
あなたが夜の月や海に憧れた理由が分かるわ。こんなに穏やかで、自分を包み込んでくれるようなものはあまり無いもの。ちょっと冷たいでしょうけれど、それもまた一興よね。
私、あなたのことはある程度分かるつもりよ。だからあなたがどこで、何を見ながら私の幸せを祈ってくれたのか想像できるわ。こんなに美しいものに私のことを願ってくれてありがとう。とても嬉しいわ。涙が出るくらい嬉しい。
だから今度は私の番よ。あなたの幸せも願って、叶うならもう一度あなたの隣に行くの。同じ場所で同じことをするんだから、神様もきっと気付いてくださるはずよ。楽しみね。
待っていて。今そちらに行くから。
2025/1/16
「あなたのもとへ」
恋人とは、「恋しく思う相手」だと教えられた。辞書にもそう書いてあったし、きっと間違いじゃない。でも「恋しく」とはどういう感情なんだろうか。周辺の人間に聞けば、相手を大切に思うこと、だとか離れたくないと思う人だとか。まぁ色々喋ってくれた。
つまり。要するに。自分の手元から離れて欲しくない人のことを言うらしい。それが恋人なんだと。
「だからさ、僕が君を恋人っていうのは何も間違ってないと思うんだよ」
しゃがみ込んで震えている彼女は、ぶんぶんと首を振った。おかしいな。何か怖がらせるようなことをしたか?……あぁ、僕が上から見下ろしているからか。
近づいて座り、目線に合わせるとそっぽを向かれてしまった。
「僕は君にここから居なくなって欲しくないし、ずっと横にいて欲しい。顔を合わせたんだから、明日からはお話もできるよね?いつもカメラ越しだったからさ、君の笑顔をもっと見たいんだよ。いいでしょ?だって恋人だもん。返事くらいしてよ、西川みことさん」
「なんで、私の名前」
「ずっと見てたからだよ」
好きな人について知りたいなんて当たり前だ。相手の名前すら知らないで愛を囁くなんて、不審者にも程がある。
安心させる為に笑うと、ひっ、と彼女が後退りした。後ろはベッドだよ。もしかして誘ってるのか?……悪いけど、それは後日にしようね。
なんて物思いに耽っていると、彼女が突然玄関に向かって走ろうとしてきた。慌てて腕を掴んだら転びそうになったから必死で抱きかかえる。ぶんぶんと腕を振って抵抗するのが本当に可愛い。力で敵うわけ無いのになぁ。
「はー……急に動かないでよ、危ないじゃんか」
「離して、あなた自分のやってること分かってる!?ストーカーだよストーカー!急に家に引っ張ってきて閉じ込めて……!」
「さっきごめんって謝ったでしょ?それとももう一回自己紹介からやり直す?」
「いらない!いいから帰らせて!」
「帰さないよ。何回も言うけど、僕と君は恋人同士だよ?同棲したいよね。うん。俺はしたい。君も一緒になりたいでしょ?」
「そんな訳ない!」
「強情だなぁ」
ここまでは言うことを聞いてくれないと、最終手段を取ることになる。決して良い方法じゃ無いけど、逃げられるよりはずっといい。
「ま、いいや。一緒に住んで長い時間隣に居れば、きっと僕のことを好きになるよ」
「いや、いやだ……!離して、帰してよお願い」
「駄々こねないの。んー、今日婚姻届書いてもらおうとおもったけど明日にするか」
ゆっくりとお互いを知っていけばいい。時間はかかっても、将来夫婦になるんだから焦らなくていいよね。
「とりあえず逃げないように手錠嵌めるよ。あぁ寝返りとかは打てるくらいの長さにしてあるから、安心してね」
まだ色々叫んでいるけどとりあえず無視。外は危ないんだから、安全なこの場所に居られることをありがたく思って欲しい。明日ゆっくり話せるといいな。
「それじゃおやすみ。いい夢を」
あぁ幸せだ。好きな人と同じ屋根の下ってこんなにもいい気分になれるものだったのか。
彼女はもう僕から離れられない。いや、離さない。僕無しじゃ生きられないようにしないと。やることは沢山あるな。記念日のマークをカレンダーにつけて、ベッドに潜り込む。
朝食は彼女の好きなものを作ろう。何がいいかな。喜んでくれるかな。いやだ、ばかり言ってないで笑ってるくれると嬉しい。
最高の時間を明日から生きられることに胸をときめかせながら、僕は睡魔にゆっくりと落ちていった。きっといい夢を見られるだろう。
2024/11/16
「はなればなれ」