人間は、その人の声から忘れていくんだそうよ。最初に聞いた時は信じていなかったけれど、今なら納得するわ。あなたの声はあんなに優しくて、心地よくて、私をこんなにも縛り付けて離さないのに、ちっとも思い出せないの。薄情よね、あなたが居なくなって一年しか経っていないのに。
もう匂いも、ちょっとした仕草も、あなたが溜め込んでいた茶葉も、全部無くなったわ。あなたの思い出の貯蓄を使い切ったのよ。手元になぁんにもない。早く戻ってきて貰わないと、本当に何もかもを忘れてしまいそう。
ねぇ、あなた、一体何を考えていたの?私、あなたが煙のように消えてしまうまで、あなたが苦しんで居たなんて知らなかった。考えもしなかったの。日記も勝手に読んでしまったけれど、あなた、毎日私のことを書きすぎなのよ。少しは自分の考えも書いて貰わないと。
でも、そう、あなたが決して私に愛想を尽かしたんじゃないことは分かったわ、だってあんなに細かく書いてあるんですもの。朝のパンにバターを塗るかジャムを塗るかなんて、一々覚えてないわよ。あれはあなたの日記というより私の観察日記ね。題名を書き換えた方がいいと思う。
アルバムもしまってあったわね。あなた本当に几帳面で、いつ撮ったのか分からない写真まで大切に入ってたから笑ってしまったわ。写真の練習だなんて言って、私しか撮ってないの知っていたのよ?いいカメラを買ったのだから、少しは自然も撮れば良かったのに。おかげで恥ずかしいアルバムだったわ。家族写真というより私だけの写真集ねあれは。
……私、昔によくあなたのこと「猫ちゃん」って揶揄ったことがあったわよね。あの時のあなたは小さく縮こまっていて可愛くて、ついそんなことを口に出してしまったのだけど。一緒になってからはかっこいい、なんて思っていたのに、最後は猫みたいに去って行くのね。
あなたの部屋の引き出しを見たわ。余命三ヶ月の宣告通知。あなた、私に自分の死を見せるのが嫌だったのね。馬鹿な人。どんな想像をしたのかしら。私が泣いて縋ると思った?あなたの居ない世界が苦しくて抜け殻になるとでも?
お生憎様、私、あなたのことを忘れてしまうような薄情な女よ。そんなみっともないことをする筈無いじゃない。葬式だって、ずっとあなたを見つけられないから出来ていなかったけれど、絶対に泣かないって決めてたのよ。
別にあなたがいなくなって寂しくなる訳でも無いわ。久しぶりに一人に戻っただけ。誰も居ないって気楽よ?朝から小鳥の声だけに集中出来るし、無駄に外を出歩いて疲れることも無い。本当に静かで楽しい毎日だった。
だからかしら?ちょっと苛々してしまったの。急に環境が変わったからとても辛くて、こんな所まで来てしまったわ。相変わらずここの崖は危なっかしいわね。昔と何にも変わってない。滅多に人が来ないからこそ、こんなに綺麗な月が見れるのだからまぁいいでしょう。
あなたが夜の月や海に憧れた理由が分かるわ。こんなに穏やかで、自分を包み込んでくれるようなものはあまり無いもの。ちょっと冷たいでしょうけれど、それもまた一興よね。
私、あなたのことはある程度分かるつもりよ。だからあなたがどこで、何を見ながら私の幸せを祈ってくれたのか想像できるわ。こんなに美しいものに私のことを願ってくれてありがとう。とても嬉しいわ。涙が出るくらい嬉しい。
だから今度は私の番よ。あなたの幸せも願って、叶うならもう一度あなたの隣に行くの。同じ場所で同じことをするんだから、神様もきっと気付いてくださるはずよ。楽しみね。
待っていて。今そちらに行くから。
2025/1/16
「あなたのもとへ」
1/15/2025, 3:53:51 PM