「ただいま。」
新しく買った鞄を床に降ろし、スーツから着替える。
日も傾きかけて薄ら寒かったので、マフラーだけは付けたままにしておいた。
「おかえり、お義母さんの家にお泊まりだから、荷物まとめといてね。」
奥から妻の声がする。分かった、と応えてそういえば…と、昔のことを思い返す。
「ただいま」
そう両親に最後に言ったのは、いつだっただろうか。分かるのは思い出せないくらい前だということくらい。
僕の家族は、良く言えばいざこざのない安定した家庭、悪く言えば互いに興味関心がない無の家庭であった。会話も、一線を超えないような、心を許せない相手との会話のようなものでしかなかった。
だからといって、寂しさはなかった。少し、そのような感情が欠落していることは自分でも理解しているつもりだったし、何より、無くても困らないようなものだと思っていた。
ただ、無性に物足りなく感じることもあった。
幼なじみだった妻は、穏やかで、心を満たしてくれるよう存在だった。
おそらく、自分の今までの人生で最も会話をしているのは彼女だろう。
僕は他人との関わりが極端に少なかったが、いつでも彼女がいたから、気にはならなかった。
「親と全然会話をしない、か…。確かに今は近くにいるのが当たり前だもんね。」
そう彼女に言われたことがある。
足元の石ころを転がしながら、そうかな、と曖昧な返事をしたのを覚えている。
久しぶりに、実家の玄関に立つ。
なんと言って入るべきか、ただいま、だろうか。それとも何も言わずに入ろうか…。
思考を巡らせるが、最適解が見つからない。
と、妻が、
「ただいま戻りました。ご無沙汰してます」
と、声をかける。
「あら、いらっしゃい。寒かったでしょ。久しぶりねぇ」
と、母が出てきた。
少し会っていなかっただけなのに、長年あっていなかったかのように思えた。
なんだか、胸の当たりがそわそわして、思わず
「ただいま」
と言っていた。
「えぇ。」
何故か、おかえりとは言われなかったけど、それがまた可笑しくて、嬉しかった。
やっぱりここが家だなと、安堵する自分がいた。
―冬のはじまり―
―祖母は気の強い人だった。
自分の芯を持っている人で、それをはっきりと口にする人だった。
幼い頃からその態度で接してくるものだから、僕は祖母が苦手だった。
父方の祖母で、年末とお盆は家族で祖母の家に泊まりに行っており、その時期になると背筋が凍るような感覚がしたのを今でも思い出す。
家では、怒られないように、目をつけられないように、細心の注意を払ってやり過ごしていた。
それでも祖母は僕の些細な過ちを見つけては、しつこく注意してくる。
両親は、そんな祖母を注意せず、僕の非を責める。
子供ながら、理不尽さを恨んでいた。
それでも、帰る時は必ず蜜柑だの林檎だの何かしらの果物を持たせてくれて、また来なよ。と頭を撫でるので、どうしても憎めなかった。
いつだったか、祖母の家に泊まっていた日の夜、祖母と両親が薄暗い電気の下で、ボソボソと話しているのを耳にしたことがある。
「アタシが死ぬときゃね、病気でも治療なんかすんじゃないよ。命の原理に反して生き長らえようとすんのなんか、ゴメンだからね。」
祖母が死の話をしているのを聞くのは、それが初めてだった。その時、両親がなんと答えたのかはもう覚えていない。だが、その言葉だけは今でも祖母最期と共に思い出すものであった。
祖母は、がんになった。僕が中学生になった頃には末期で、お見舞いに行くたび辛そうな顔を見るのが嫌だった。
そんなの、祖母でない気がした。
黄色いシミのある病院の壁は、祖母を闇に引っ張っていくようだった。
不意に、祖母が僕に話しかける。
「ねぇ、最期までちゃんと、面倒見てくれよ、?」
あの時の言葉とは正反対のことを言っていた。
戸惑って、答えられないでいると、
「あたしゃね、もうちょいと、アンタが育ってくんを見てたいのよ。そのくらいあの人も待ってくれるじゃろ。」
そう言って、辛そうながらも不敵な笑顔を見せてきた。
それほどまでに、祖母らしい表情はなかったと思う。
春を迎える前に、祖母は亡くなった。
今思うと、祖母は実は寂しかったんじゃないかと思えてくる。
祖父を亡くしからは、余生13年あまりを独りで生きてきた。
泊まりに行く度に僕にキツく当たるのは、祖母なりの愛情だったのかもしれない。
頑固で、弄れていて、不器用な、祖母の愛。
窓の外に降る雪を横目にそんなことを考えながら、僕は蜜柑をひとつほおばった。
―終わらせないで―
僕は、がむしゃらに走っていた。
自分が馬になったかのように思えていた。風が僕の耳元を通り過ぎていく。
静まり返った街では、ただ、僕の生きている音だけがした。
霜柱のできた砂利道を蹴り上げる音、フェルト生地のコートが擦れる音、荒い息遣いの音、
僕の、心臓の音。
さっきまで僕を動かしていた心に、突然恐れが芽生える。
息が荒くなり、足ももたつきはじめた。
僕を守る何かが食い尽くされていくように、ただ、ただ、恐ろしさが増していく。
「はぁっ、はぁ、はぁ…。」
足が止まる。もう、走れなかった。
僕が止まると同時に、すべての音が消えた。
世界に静寂が訪れる。
僕は、本当に1人になった。
それを知ると、鼻の奥がツンとなって、急に目の前がぼやけはじめた。
しまいには喉から出る声が抑えられなくなってしまった。
何か、何かを求めている。
目を擦る手は、氷のように冷たかった。
しかし手よりも、僕の心の方がずっと冷えてしまっていることに気づいた。
僕は求めた。必死に求めた。
1人の世界で、ひたすらに。僕を温めてくれる何か、守ってくれる何か、満たしてくる何かを、
――僕は、求めていた。
―愛情―
雪の舞う朝だった。
街はまだ眠りについているようで、不思議な気持ちがしたのを覚えている。
まるで、この世界に僕一人しかいなくなってしまったような…。
まるで、出会ってきた人々全てに捨てられてしまったような…。
自分の中で何かが弾けて、無性に駆け出したい気分になった。
親はまだ寝ているのか、階段をおりても朝食を作る音がしない。
掛けられたコートを引っ張って取り、袖を通す。すぐに大きくなるから、と最近買ってもらったそれは僕には少し大きい。
そんなことも、こんな静けさの中では特別なものに感じられた。
一層、胸の奥がドンドン叩かれる。
僕は走り出していた。
―微熱―