手を取り合って花いちもんめ
世界一平和な、人身をかけた賭博
優越と劣等を感じることに忙しい人たちを軽蔑してきた
その軽蔑も優越感の一種と感じてからは黙ることにした
アラビア語でフラレたことが君にはあるだろうか?
「إِنْ شَاءَ ٱللَّٰهُ」
僕にはある。マッチングアプリで知り合った子から送られていた1件のLINE。それを最後に彼女と音信不通になった。
会う予定の日時以外は決まっておらず、なかなか話が進まなかったので店を提案した後に送られた返信だった。
なぜアラビア語だったのかはわからない。とりあえず調べてみると直訳で「もし神が望んだならば」の意味らしい。
いまいち理解できなかったのでもっと詳しく調べてみるととある日本語とニュアンスが近いことがわかり、ああ二度と会うことはないんだと悟った。
「行けたら行く」
※実話
常識、普通、当たり前。
これらの前に「私の」と添えることがそれこそ常識的であるとされる世の中の動きが強くなっている。
「私に限らずそれはそういうもの」という簡潔さがそれらの言葉の利便性であったが、それも失われつつある。
言葉の利便性と安全性はトレードオフの関係でどちらかに振ればどちらかは失われる。
今は安全性、つまり加害性の排除が重要視されており配慮のために利便性を犠牲にした言葉遣いが求められている。
しかしそういった流れに対して反動的に思うことがある。
そもそも物事を語るうえで多くは個人の主観でしかないのだから「私の」と付ける必要はないのではないか。そもそも受け手側もこれはあくまで個人の意見に過ぎないという大前提を踏まえて聞いているものではないのか。
そこまで考えても結局、他人の認識はわからない。結局どの認識の人にも対応できるよう「私の場合は」と添える。
見えない神の祟りにあわぬよう、祈りを込めるように。
私の場合は。
人が知り得ないことを言い換えただけなのにお題である「神様だけが知っている」という響きは一考できるものと感じさせる。
神の概念は論理の破綻を補完する為のものでありそれ以外の何物でもない。人格的な要素を足すことで「いる/いない」という存在論に話をズラされているが本質はそこではなく論理に対する位置づけの方だろう。
とある種のマジレス的な主張もあるが祈りや信仰の文脈で言えばむしろ人格的なもの持つ存在が本質だと思う。人はまず信じるものの対象として他者という存在に価値を置いていると思うからだ。
スピノザの言うような非人格的な神よりも人格を有する神の像は人智を超えた存在と規定されながらあくまで「他者」という存在観念の内にいる。それは人が人を信じることと同じように神を信仰することがその延長線上の行為であることを意味している。
どこまでいっても人は信じるために愛するために対象を自分の観念に引き寄せる。そういった意味では人が最も信用するものは人なのだろう。擬人化というフィルターを通す過程を経て何かを信用する。
あっけらかんと言えば結局、人は人が大好きなんだろう。
嫌いな人を人ではないと表現するように。