常識、普通、当たり前。
これらの前に「私の」と添えることがそれこそ常識的であるとされる世の中の動きが強くなっている。
「私に限らずそれはそういうもの」という簡潔さがそれらの言葉の利便性であったが、それも失われつつある。
言葉の利便性と安全性はトレードオフの関係でどちらかに振ればどちらかは失われる。
今は安全性、つまり加害性の排除が重要視されており配慮のために利便性を犠牲にした言葉遣いが求められている。
しかしそういった流れに対して反動的に思うことがある。
そもそも物事を語るうえで多くは個人の主観でしかないのだから「私の」と付ける必要はないのではないか。そもそも受け手側もこれはあくまで個人の意見に過ぎないという大前提を踏まえて聞いているものではないのか。
そこまで考えても結局、他人の認識はわからない。結局どの認識の人にも対応できるよう「私の場合は」と添える。
見えない神の祟りにあわぬよう、祈りを込めるように。
私の場合は。
7/9/2024, 9:26:28 PM