ページをめくるという行為。
本を読むと必ず必要となる操作。
その僅かな身体の運動の意味。
映像であれば再生さえすれば操作は要らない。
音声なら目を向ける必要さえ要らない。
しかし本は目を向けページをめくらなければならない。
映像も音声も作り手の意図通りの速度で物語が進む。
しかし本は物語の速度は読み手の読む速度に比例する。
つまり本は読み手の受動性に能動性を混ぜる性質がある。
ただ眺める受動的な態度ではなく目と手を動かさせる。
この僅かな身体の動きは経験から体験へと変容させる。
物語の続きが気になると目が速く手も速く。
次へ次へと逸る意識が芽生える。
この速度感が本における快感の1つではないだろうか。
それは音楽でいう ノる に近い快感だろう。
本来聴かされているという受動の場面に帯びる能動性。
受動/能動が入り混じるほどの快の衝動が本にもある。
文字という静的なものでもそこに物語が付けば動的に。
その動的な性質に巻き込まれた読み手も能動的に。
そして動きの中に挟まれる身体の運動を伴うもの。
ページをめくるという行為がもたらすものはなにか。
既に述べた経験から体験への変容。
表から裏へ視覚的な世界の一新。
その際に起きるほんの一瞬の 間 の感覚。
本という物理媒体には細かな快の仕掛けがある。
しかし今普及している電子書籍ではどうだろう。
本という形を失った書籍には身体の運動があるだろうか?
あなたは答えを知っているはず。
今ここにある文章に目だけでたどり着けただろうか。
松尾芭蕉「夏草や つわ…」
ポーン
Natsukuxa「はい 今日はどのような要件でしょうか?」
松尾芭蕉「ごめん 詠んだけど呼んでない」
「もう一歩だけ、前へよろしくお願いします」
既に小便器と超至近距離の俺の目に入った注意書きの文
たしか量子力学的には人体が物体をすり抜ける確率は
地球に生命が生まれる確率よりも遥かに低いと憶えている
俺、地球に生命を生めるかな…
お題:!マークじゃ足りない感情
いやそんなマークごときで足りる感情なんてこの世に一つも存在しないんじゃ!!!!!!!!!!!!!!!!!
↑
反例
幼かった頃の僕の世界では
言葉にならないもので溢れていたのに
ママやパパから始まった言葉たちを
知っていけばいくほど賢くなって
世界を言葉にできるようになっていた
今じゃこんな文章も書けるようになったのに
それでも言葉にできないものはなんだろう
言葉にできないものと言葉にできているのに
それでも足りていないと感じるのはなぜだろう
そう感じさせる僕の何かが原因で
本当は何でも言葉にできるのかもしれない
始めは全てが言葉にならなかったのに
どんどん言葉できてしまったのは
僕の何かが幼かったからだろう
言葉を知って暮らしていくと
言葉にさせたくない何かが現れて
僕から幼さを奪っては足りなさを与える
それでも言葉しなきゃいけないこともあって
その度に足りなさを引きずる心が痛い
その痛みもママとパパは知っていたのに
それでも僕に言葉を与えて名前を呼ばせた
だけど痛みを知っても言葉をやめないのは
きっとそれ以上の何かが言葉にはあると思うからだ
そう信じて今日もこうして言葉を使う
言葉には言葉にならないものがあると信じている