泣いている。
いとしきみが泣いている。
可哀想だとは思わない。
だって、きみを泣かせたのは私だから。
ほら、こうしている間にも、きみの黒真珠からあふれた涙で、やわく陶器のようにしろい頬は濡れそぼる。絹を裂くような叫びを紡ぎ、私の名を呼ぶ。
周りが引き留めるのもお構い無し、形振りかまわず必死に叫んで……そんなにも私に振り向いてほしいのかな。そんな姿もうつくしいね。
「やだ! 嫌だよ、待って! ねえ!」
だけど私は止まらないよ。
これは私が、私の意思で決めたことだ。いくらきみの嘆きを聞いたって、止まるわけにはいかない。
そんな決意がブレてしまわないように、私はそそくさとその場を後にする。
ねえ。さよならは言わないからさ、その代わり、もう二度と私に向かって「行かないで」なんて言わないで頂戴ね。
▶行かないで #30
始まりはいつもあなたからだった。
最初に話しかけたのも、会話のネタを出すのも、デートに誘うのも、告白も、手を握るのも、キスも。それらは全部あなたからで、私から誘うことは無かった。
それでもいい、とあなたが笑ってくれてることにすっかり安心しきって、私からなにかを仕掛けることは無かった。
それが社交辞令のようなものだとは思わずに。
言い訳になるけど、私、照れていたの。嬉しさと恥ずかしさと幸せな気持ちが先行して、だらけきった顔を見せたくなくて、自分からはいけなかった。
ほんとうに今話しかけても大丈夫?
私なんかが彼に話しかけてもいいの?
まだ心の準備も話す内容も考えてないのに?
そんなことばかり考えて、いつも自分のことで精一杯で。あなたの気持ちなんて、これっぽっちも考えていなかった。
「……うーん」
だからかな。私がそんなだから、私はあなたに棄てられちゃったの?
▶始まりはいつも #29
キリリと突き刺すような眼光に魅入られてしまった者の末路は、一体どうなるのだろうか。
ねえ、あなたのその輝きは何処から来るの?
▶鋭い眼差し #28
放課後は楽しい。
中学生の頃、僕は帰宅部で、徒歩通学出来る距離に住んでいた。それでいてぼっちで、静かな場所ほど心地好いものを知らなかったものだから、放課後は、誰もいない教室で黙々となにかをしていた。
例えば普段は手を着けないような小難しい本を読んでみたり、音楽を聴いてみたり、授業の復習をしてみたり、頭に浮かんだシーンを書き連ねて、執筆みたいなことをしてみたり。
そんなちっぽけな日々が楽しくて、大好きで。そのためだけに苦い学校生活を乗り越えていた。
放課後は、一人静かに教室で過ごす。
それ以上に楽しいものはないのだ。
──うん。
高校に入るまではそう、本気で思ってたんだけどね。
「おいっ、今絵の具飛ばしたの誰だ!?」
「そっち段ボール足りてる?」
「それよかペン欲しい、ペン」
「アッハッハッハッハ! ゲホッ、ウハハッ……」
文化祭まで残り一週間。大詰めの時期である。
そこに静かな空間はなく、ガヤガヤと騒ぎながら作業を進める同級生たちの姿があった。
まあ、うん。なんだろうね。
昔はこういう雰囲気がすごく苦手だったけれど、今なら、こういうのも悪くないと思える自分に心底驚いてるよ。
「なあ佐藤ぉ、暇なら手伝ってくれよ~」
「暇じゃないっての! 仕方ないなぁ」
「よっしゃ! こっちこっち!」
うーん、世の中不思議なことだらけだなぁ。
▶放課後 #27
走る。走る。後ろなんか振り返らずにただ前を向いて走り続ける。
靴の裏が擦りきれようとも、生い茂る枯枝で頬が切れようとも、肺が潰れてしまいそうなほど苦しくても、身体が重石になろうとも、ビュウビュウと吹き荒れる風のように走る。繋いだ左手は絶対に離さぬようにと注意しながら、数多もの木々の隙間を縫って、岩を飛び越え、駆ける、駆ける。
しばらくして洞窟を見つけた。少々手狭ではあるが、周囲の安全は確保できるし、俺たち二人でぴったり隠れられる。これなら五分程度は休憩できるだろう。束の間の休息だ。
じっとりと嫌な汗をかいた手を互いに離して、壁に沿うように座り込んだ。すぐ隣で、彼女も俺とおなじように座る。今までにないほど息が荒かった。
「だい、じょぶ、そ、ですか?」
「ムリ……………」
まあ、だろうな。なんせ彼女は一国のお姫様だ。普段の移動方法はほとんどが馬車だったし、こんなに走る機会は無かったはずだ。
深呼吸してすこし息が整ったところで、姫様が、
「あ、なたこそ……だいじょ、ぶ、なの……?」
「はい? 何が……」
「いえ、その……足に……」
「?」
気まずそうに遣られた視線を追って自身の右の足を見ると、うっすら靴に血が滲んでいた。大方、どこかの指の爪が剥がれでもしたのだろう。傷を認識したことでズキリと痛みが走った。
「いえ、このくらい、お気になさらないで……」
「しかし……」
「私のことはいいですから、姫様は自分のことをご心配くださいね」
「うっ……」
彼女はおとなしく口を閉じた。
重い沈黙が、滔々とした闇とともに訪れる。身体は休まるが、これでは俺の心が休まらない。なんとなしに苦しくなって、俺は口を開こうとした。その時。
──カサッ。
洞窟のすぐそばの、枯葉の動く音がした。
何かが、洞窟のすぐそばを歩いている。
警戒しながら頭を出す。彼女はすっかり怯えた様子で後ろにくっついていた。
「……チッ」
「だ、誰?」
「追っ手の犬です。わりと遠くですが、くそっ、もう此処まで来てるなんて……」
隣国との国境まであとどのくらい? 何日掛かる? それまで彼女は果たして保つか? 不確定要素だらけで処理が追い付かない。不安ばかりが積もる。自信がない。俺はいま此処でどう動くべきか?
……ともかく今は逃げるしかない。
改めて左手を差し出し、彼女に問うた。
「姫様、いけますか?」
「………ええ」
やや長い沈黙の末、覚悟を決めた彼女は俺の手を握った。温かくて、柔らかくて、しなやかな手のひら。これを守れるのは今は俺だけなのだ。
二人で顔を見合わせて、最後の覚悟を決め、いっせーので足を踏み出した。
▶束の間の休息 #26