蚊取り線香の匂いがした。
そっか、もう夏だもんな、とひとり頷きながら、そおっと自分のとなりを盗み見る。
すると、向こうもこちらを見ていたようで、ばっちり視線がかち合った。
──あ、睫毛ながいなぁ。
そんな言葉がさっと頭のなかをよぎって、だけどあの子が眉尻を下げたのを見てハッとした。
いけない、この子は自分への視線の意味に鈍感だから、きっと無視をされたと思わせてしまう!
そう考えて、私もにっこり微笑み返してみる。
あの子は、満開のひまわりを彷彿とさせる笑顔を見せてくれた。
嗚呼よかった、嫌な思いはしていないみたい。
たくさんの虫が鳴いていた。
リーンリーン、リンリンリン、ピィッピィッ。
彼女は元気にしているだろうか。
辛い思いはしていないだろうか。
悲しいときそばで寄り添ってくれる存在はあるだろうか、寄り添える存在はあるだろうか。
ふと左手の甲に伝うやわい感覚に目を遣る。
なにもない。ただ、夜の闇が足元を照らすだけ。
「……───」
そっと目を閉じる。
私は、いったい何を考えていたのだろう。
線香花火はとっくの昔に落ちたのだ。
蚊取り線香など、もう片付けてしまったのに。
▶香水 #78
海にいって、磯の匂いを鼻いっぱい吸い込むと、ちくわの磯辺揚げが食べたくなる。
……ああ、そんなに擦ってはいけません。
目元が腫れて、うつくしいその蛍石が
見えなくなってしまう。
泣かないで。
いとしいひと
泣かないで。
私は、たとえ嵐が来ようとも
あなたの傍にありましょう。
そこが波乱と苦悩に満ちていようとも
絶え間ない悪意にこの身裂かれようとも
あなたの傍にありましょう。
大丈夫、あなたはひとりじゃない。
私がついていますから
もうなにも怖がらなくていいんです。
だから、どうか泣かないで。
あなたの涙を拭う手を払わないで
どうかこの手を取ってください。
▶嵐が来ようとも #76
夥しい数の屍が転がっている。
噎せ返るような死の匂いにえづく者はいない。山越え谷越え、苦楽を共にし、同じ釜の飯を食らった彼らは、物言わぬ肉へと成り果てた。
──目の前の男の手で。
「なんだ、生き残ったのは一匹だけか」
あれだけ啖呵切っといて呆気ないなァとぼやく男の、至極つまらなそうに毛先を弄る姿に、鞘を握る手に力がこもった。
身体中を伝う赤が、顎から、襟から、指先から地面へと線を描く。
「それで? お前がヴィヴィ最強の剣士とやらか」
「違う」
男を睨み付け、中身を抜いた鞘を投げ捨てる。
深く息を吐きながら出来る限り重心を下げ、刀身を地面と平行に傾ける。
これは、師匠──ヴィヴィ最強と謳われた剣士・アルツと同じ構え。
アルツは死んだ。男の攻撃から俺を庇って。
「……お前が殺したのが誰か、あの世で思い知れ」
「ハッ、面白い! やってみろよ、やれるものならな」
視線がかち合った瞬間、戦場に閃光が走る。
さあ、仇討ちの時間だ。
▶視線の先には #75
──ぜんぶ終わりにしよう。
あなたは弾かれたようにこちらを振り返る。
なぁに、変な顔して。別に爆発音がした訳でもあるまいし。
「なんで、突然そんなこと、」
わなわな忙しない口許が紡ぐ言葉はぐわんと揺れて、なんだか頼りない印象を受けた。普段とはまったく違う姿を見てもちっとも動かない心臓にそっと手を当てる。大丈夫、それでいいと安心させるみたいに、手のひらの熱を分け与える。
なんでもなにも、先に火蓋を切ったのは貴女のほうだ。
「分かったんだ。僕らが釣り合ってないこと」
「そんな訳! 私と君が釣り合わないだなんて有り得ない話さ。いったい誰に吹き込まれて──」
「それ」
言葉を遮るように指をさす。
あなたはいつもそうだった。いつもいつも、僕とあなたの意見が食い違うたび、僕が誰かに唆されたのだと言って、僕自身の考えだとは思ってくれない。あなたの言葉と僕の言葉がまったく同じだと信じて疑わない。
集団をまとめる力であるそれは、僕にとっては、僕とあなたを縛り付ける枷でしかなかった。
「言ってくれれば改めたのに……」
「言ったよ。何度も、何度も、僕の意見だって。それでもあなたは信じてくれなかったじゃないか」
皆をまとめ率いていくあなたの背中に憧れて、その眩しさにいつからか惹かれていって。まさかこちらを見てくれているなんて思わず、ただあなたを見つめていた。
はじめて目が合った瞬間を覚えてる?
僕は、輝かんばかりの瞳に目を奪われて、嗚呼やはり僕はこの気持ちから逃げられないんだ。と腹をくくったからよく覚えている。
あの時、あなたが僕に言った言葉を覚えてる?
あなたは僕に「私を見つめる君の瞳を見ていた」と言った。「私を信じる君を、私も信じよう」と。そんなあなただから、僕も報いたいと思ったんだ。
だけど、実際はどうだろう。
ねえ、少しでも僕を信じてくれた瞬間はあった? そんなに信じられなかった? ねえ、
「僕は、そんなに頼りない……?」
あなたは此処ではじめて目を見開いた。違うと、そういうつもりじゃなかったのだと訴える。
その姿に顔を背ける。背けてしまった。もう取り返しがつかないのだ、僕らは。
だから僕は、あの時と同じように腹をくくる。
「だから、ね」
身勝手だと分かっていても、終わりにしたいと思ったんだよ。
▶終わりにしよう #74