「あったかあい」
私の手を頬にあてて、あなたは笑った。
さっきまで手袋もなしに屋外で作業をしていたのだからそんなはずないのに……と思ったけれど、朗らかなこの笑顔をまだ見ていたくて「そうだね」と返した。
「ねえ知ってる? 手が冷たいのは心があったかい証なんだって」
「そうなの? 知らなかった。あなたは物知りね」
「へへ、そうでしょ」
軒の先でしんしんと雪が降り積もる。
彼女の頬から奪った熱が、痛いほど冷えた指先の氷を溶かしていくのがひどく心地好かった。
***
記憶のページをていねいに捲って、ひとつずつ、ゆっくりと見比べていく。
あれは楽しかったとか、これは今でも許せないとか、その時は冷たい態度を取ったけど実は飛び付きたいほど嬉しかったとか、そんな他愛のないことばかり話していたので、すっかりのどが渇いてしまった。
白湯でも飲もうかとテーブルに目をやると、向こうの窓の外の景色が視界に入る。そうして白くて軽い妖精がはらりふわりと空を踊る様子を目にしたのだ。
その時、ふとあの日を思い出した。
数秒考えて、彼女の頬に手をあててみる。
雪の降り積もるあの日、私がしてもらったように。陶磁器のような肌へ、優しくていねいに。
「いつもはちゃんとカイロ持ってるんだけど、今日はバタバタしてて忘れちゃった」
どんなに話しかけても返事はないし、どんなに笑いかけても無反応なまま。まるで当時の私を彷彿とさせる態度に、おもわず笑みを溢した。
窓のフレームが小刻みに震える。
あの頃と比べれば、私もずいぶんと素直に感情を出せるようになった。今なら脇目もふらずあなたのもとへ飛び込んでいける……ような気がする。
「どう? あったかいでしょ」
あの日奪った熱を返すにはどうしたらいい?
あの日貰った優しさを返すにはどうしたらいい?
そんなことを考えるには、すべてが遅すぎた。
もし本当に、手が冷たいことが心のあたたかさの証であるなら、あなたの心は、あの時よりももっとずっとあたたかくなっているはずだ。
▶あたたかいね #80
【今年の抱負】
①規則正しい生活(早寝早起きetc.)
②ひとの話を最後まで聞く
③余裕を持って行動する
④自分を甘やかさない
⑤かといって追い詰めすぎない
⑥何事も楽しむこころを忘れない!
謹賀新年 明けましておめでとうございます。
どうも気力が湧かずひっそりと筆を置いていたら年を飛び越えてしまいました。皆様、変わらずお元気でしょうか。
昨年は人のあたたかさを実感した年でした。
年月は変わりましたが、だからといって景色が一日で移ろいはしないように、私自身の何かが突如変化したというわけではありません。ですから今年もあまり無理をせずマイペースに、しかし昨年よりもほんの少しだけ自分に厳しく日々邁進して参ります。
2025年が皆様にとっても喜びに満ちた良い一年になりますように。
今年もよろしくお願いいたします。
眠らない限り明日が来なければいいのに。
そうしたら、嫌なことも全部遠くへやれる。
自分を守ることだってもっと容易になるし、自衛の手段が増えれば心の余裕にも繋がる。
余裕というものは財産だ。間違った処方をしなければいいこと尽くしである。
(ああ、だけど、それじゃあ不眠症の人はずいぶんと苦しくなってしまう)
いつものようにおとなしく薄い二枚の毛布の隙間に体を捩じ込み、枕元に常駐するリモコンで部屋の電気を消した。
きょうも僕らは背中を丸める。そうして、光の薄い明日から目を反らすように、夢を見るのだ。
▶距離 #80
──ふと、身体を揺さぶられる気配がした。
重い目蓋をあげて左側を見やると、白い衣の男がこちらを見つめていた。天真爛漫な昼間とはまったく異なる表情に何事かと上体を起こす。
「どうしたの」
彼はすっかり気が滅入っている様子でぽつりと呟く。
曰く、わたしが死ぬ夢を見たと。
「朝、いつものようにここに来てきみを起こそうとしたんだ。だけどいくら声を掛けても少しも動かないから、なんだ昨夜は夜更かしでもしたのかと身体に触れて、そしたら、……そうして触れたきみの身体が、いやに冷たくて」
「ええ」
「一気に身体が冷えて、目の前が暗くなった。死んだきみは眠るように穏やかな顔をして、嗚呼、ついにこの子までもが死んでしまったと、俺を置いていってしまったと思った」
「……ええ」
自分の見たものを整理するように思い付くままに話す彼の、布団を握りしめる手が震えていた。
血色の悪い肌をすぐにでも抱き締めてやりたかったけれど、なんせ彼はわたしより何十センチも身長が高い。上半身だけ起き上がった今の体制でわたしが抱き付けば、二人ともつらいかもしれないと思った。
だからせめて、と慰めるように頭を撫でた。細い髪が指の隙間をさらりと通り抜けて、指先の肉と爪の間に入り込む。
いつからか彼に握られた左手のひらをやわく握り返す。大きくて、滑らかで、よく鍛えられた男のひとの手。わたしはこの手が数多の人々を救ってきたことを知っているし、わたし自身幾度も助けられてきた。しかし彼の夢の中のわたしは──。
触れ合ったからか、思考がまとまってきたからか少しばかり落ち着いたようだけれど、それでもまだ顔色は悪い。
わたしはうまく口角を下げることが出来ないでいる。ただの夢の中での出来事で。わたしの死ひとつで、こうまで弱ることを知ったからだ。こんなちっぽけなわたしでも、強くて立派なこのひとを傷付けることが出来るのだと理解したから。
(貴方の取り乱す姿を見られて嬉しい、なんて)
今ここで言ってしまえば、彼はついにわたしをすっぽりと隠してしまうだろう。
わたしは大人しく口をつぐんで、鶴の羽毛のように真っ白な髪の毛をゆるりと撫で続けた。
▶静寂に包まれた部屋 #79
蚊取り線香の匂いがした。
そっか、もう夏だもんな、とひとり頷きながら、そおっと自分のとなりを盗み見る。
すると、向こうもこちらを見ていたようで、ばっちり視線がかち合った。
──あ、睫毛ながいなぁ。
そんな言葉がさっと頭のなかをよぎって、だけどあの子が眉尻を下げたのを見てハッとした。
いけない、この子は自分への視線の意味に鈍感だから、きっと無視をされたと思わせてしまう!
そう考えて、私もにっこり微笑み返してみる。
あの子は、満開のひまわりを彷彿とさせる笑顔を見せてくれた。
嗚呼よかった、嫌な思いはしていないみたい。
たくさんの虫が鳴いていた。
リーンリーン、リンリンリン、ピィッピィッ。
彼女は元気にしているだろうか。
辛い思いはしていないだろうか。
悲しいときそばで寄り添ってくれる存在はあるだろうか、寄り添える存在はあるだろうか。
ふと左手の甲に伝うやわい感覚に目を遣る。
なにもない。ただ、夜の闇が足元を照らすだけ。
「……───」
そっと目を閉じる。
私は、いったい何を考えていたのだろう。
線香花火はとっくの昔に落ちたのだ。
蚊取り線香など、もう片付けてしまったのに。
▶香水 #78