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 走る。走る。後ろなんか振り返らずにただ前を向いて走り続ける。
 靴の裏が擦りきれようとも、生い茂る枯枝で頬が切れようとも、肺が潰れてしまいそうなほど苦しくても、身体が重石になろうとも、ビュウビュウと吹き荒れる風のように走る。繋いだ左手は絶対に離さぬようにと注意しながら、数多もの木々の隙間を縫って、岩を飛び越え、駆ける、駆ける。
 しばらくして洞窟を見つけた。少々手狭ではあるが、周囲の安全は確保できるし、俺たち二人でぴったり隠れられる。これなら五分程度は休憩できるだろう。束の間の休息だ。
 じっとりと嫌な汗をかいた手を互いに離して、壁に沿うように座り込んだ。すぐ隣で、彼女も俺とおなじように座る。今までにないほど息が荒かった。
「だい、じょぶ、そ、ですか?」
「ムリ……………」
 まあ、だろうな。なんせ彼女は一国のお姫様だ。普段の移動方法はほとんどが馬車だったし、こんなに走る機会は無かったはずだ。
 深呼吸してすこし息が整ったところで、姫様が、
「あ、なたこそ……だいじょ、ぶ、なの……?」
「はい? 何が……」
「いえ、その……足に……」
「?」
 気まずそうに遣られた視線を追って自身の右の足を見ると、うっすら靴に血が滲んでいた。大方、どこかの指の爪が剥がれでもしたのだろう。傷を認識したことでズキリと痛みが走った。
「いえ、このくらい、お気になさらないで……」
「しかし……」
「私のことはいいですから、姫様は自分のことをご心配くださいね」
「うっ……」
 彼女はおとなしく口を閉じた。
 重い沈黙が、滔々とした闇とともに訪れる。身体は休まるが、これでは俺の心が休まらない。なんとなしに苦しくなって、俺は口を開こうとした。その時。
 ──カサッ。
 洞窟のすぐそばの、枯葉の動く音がした。
 何かが、洞窟のすぐそばを歩いている。
 警戒しながら頭を出す。彼女はすっかり怯えた様子で後ろにくっついていた。
「……チッ」
「だ、誰?」
「追っ手の犬です。わりと遠くですが、くそっ、もう此処まで来てるなんて……」
 隣国との国境まであとどのくらい? 何日掛かる? それまで彼女は果たして保つか? 不確定要素だらけで処理が追い付かない。不安ばかりが積もる。自信がない。俺はいま此処でどう動くべきか?
 ……ともかく今は逃げるしかない。
 改めて左手を差し出し、彼女に問うた。
「姫様、いけますか?」
「………ええ」
 やや長い沈黙の末、覚悟を決めた彼女は俺の手を握った。温かくて、柔らかくて、しなやかな手のひら。これを守れるのは今は俺だけなのだ。
 二人で顔を見合わせて、最後の覚悟を決め、いっせーので足を踏み出した。


▶束の間の休息 #26

10/9/2023, 1:21:59 AM