目を覚ます。
窓を開ける。
ベランダのパセリに水を遣る。
太陽は真上にある。
掃除機をかける。
パンを焼く。
バターを買いに出掛ける。
電車に乗る。
鍵を開ける。
パンはすっかり冷めている。
洗剤を入れる。
洗濯機を回す。
書類を片す。
ピアノに向かう。
鍵盤を叩く。
きみは隣にいる。
鍵盤を叩く。
きみの表情を想い描く。
黒鍵を叩く。
白鍵に触れる。
………
浴槽を洗う。
鍋いっぱいの水を沸騰させる。
レトルトカレーを放る。
洗濯物を取り込む。
ガスの元栓を閉める。
床に放られたアルバル。
前の本棚に詰め込む。
しかし溢れる。
床に放られた広辞苑。
後ろの本棚に詰め込む。
それでも溢れる。
…………
ヘッドフォンを着ける。
ケーブルを接続する。
すこし変わった音が鳴る。
空気を吐く。
鍵盤を叩く。
パセリの香りが漂う。
鍵盤を叩く。
棚から落ちた本の音がする。
鍵盤を叩く。
白鍵を叩く。
黒鍵を叩く。
楽譜は要らない。
そんなもの必要ない。
全て頭に残っているから。
夜の静寂が襲い掛かる。
怖い、と思う。
きみがいてくれたらいいのに、と思う。
きみが隣にいた日を思い出す。
きみの隣に在れた日を、想う。
きみとの思い出を噛み締めながら。
ぼくの中できみを感じながら。
ぼくは、きみの居ない今を、生きている。
▶過ぎた日を想う #25
キラキラしたシャンデリアなんか必要ない。
星空のほうがもっとずっと素敵だわ。
きれいで豪奢なドレスなんか必要ない。
それじゃあ自由に踊れないでしょ?
かっこよく着飾ったおとこの人なんか必要ない。
私にはもう、かっこいいヒーローがいるもの。
ねえ、英雄さん。
私といっしょに踊りませんか?
▶踊りませんか? #24
ピーッ、ピーッ、ピーッ。「誰か先生呼んで!」「手術室の手配出来た!?」「はいっ、あと数分で──」
幾度聴いたともしれぬ騒音が鼓膜を貫く。
ベッドサイドモニタのアラーム音。怒鳴りにも近い、看護師たちの緊迫した声。その中心で、沈黙を貫くひとりの少女。ああ、耳が痛い。
少しして、白衣を身にまとった男性医が訪れる。心なしか早足だった。
「患者の容態は?」
「心臓が止まってから四分です! 未だに心拍、意識ともに戻りません!」
「手術室の手配は?」
「あっ、空きました! C室いけます!」
患者の少女──私の娘を乗せたストレッチャーが、ガラガラと音を立てて目の前の扉へと吸い込まれ、そして閉じられた。
私は、両手と瞼にぎゅうと力を込める。
嫌な汗が背中を伝うのも、胃のあたりに鈍い痛みが走るのも無視して、ただ一心不乱に願う。
もしも、この世に神様とかいうものが本当にいるなら、どうか聞き届けて欲しい。
もう一度、あと一度だけでいい。
あの子を救ってくれ。
かつて余命宣告された幼少の私が救われたように、あの奇跡をあの子にも与えてください。
▶奇跡をもう一度 #23
たそがれ。それは赭。
まるで血の海に飛び込んだみたいな空の色。
たそがれ。それはきみ。
真暗な常闇がこころを摘まみ潰そうとするたびに掬い上げてくれる人の身にまとう布の色。
たそがれ。それは荷物。
あなたの背負うおおきなリュックであり、あなたを地に付かすためにある、うつくしい重し。
わたしとあなたをつなぐ唯一の色。
▶たそがれ #22
ある日、君は記憶障害に陥った。
記憶を司る前頭葉に異常が見つかり、以降、君は記憶を翌日まで持ち越すのが難しくなったのだ。
どんなに楽しいことがあっても、悲しいことがあっても。次の日になれば記憶から消えている。
きっと明日も、義親も、友人も、恋人も、今日あった出来事もキレイサッパリ忘れてしまっているだろう。このまま悪化の一途を辿れば、自分が誰なのかですらあやふやになるかもしれない。
だからこそ、ぼくは君にもっとより素敵な日々を提供できたらと思う。
日常に見え隠れする、ほんのささやかな優しいものを。終わってしまうのが悔しくて、どうしようもなく切なくなるものを。
──そんな日々を、君にプレゼントしたい。
ぼくが君を忘れるその日まで。
君にぼくの記憶を移植する、その日まで。
▶きっと明日も #21