猫背の犬

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5/30/2023, 1:35:39 PM

 
とにかく必死に走った。なにから逃げているのかわからなかったけど、とにかく逃げなければならないという強迫観念に背中を強く押され続けて、遠いところまで来てしまった。上手く逃げれたというのは束の間の安堵で、もう走れないからそうであってほしいという願望に過ぎない。ふと背筋に走る悪寒。追いかけてきていた何かがすぐ側まで来ているようだ。逃げ切れたと勘違いし、浮かれいる俺へと着実に距離を詰めてきていた得体の知らないもの。
もう一度振り向けば、きっと終わる。もう一度振り向けば、二度と前を向くことはできない。もう一度振り向けば、世界は暗転する。諦めて暗闇に飲まれてしまうのか、ここからまた走り出すのか、そのどちらも選ぶことが俺には許されている。さあ、どうする。選択肢はたったふたつだけ。然程難しいことじゃない。そうは言っても流暢にしている暇はない。
眼前にある光を網膜に焼き付けて誰にもわからないように口角を上げる。些細なことだ。とても些細なこと。だけど、その些細なことで自信は育つ。
解けかけていた靴紐をきつく結び直せば、緩やかに流れていた情景は時の流れのように早まっていく。走って、走って、走る。アスファルトを蹴り上げるたびに足の裏から身体中に伝っていく振動は、生きていることを強く実感できる。この感覚を決して忘れてはいけない。この感覚を決して手放してはいけない。大丈夫。きっと大丈夫。まだ進むことはできる。まだ間に合う。前だけを向いて、このまま走り続けるんだ。

5/17/2023, 1:50:39 PM

真夜中にふと目覚めると世界でひとりきりになった気分になる。静まり返った夜の中におれただひとりだけが存在しているような不思議な感覚。誰も居ないから気楽だ。誰も居ないから寂しい。誰かを見つけたい。誰かにおれを見つけて欲しい。おれはここに居るよ、きみはどこに居ますか。誰宛にもならない言葉は壁に当たってこだまする。そんな虚しさも朝になれば、忘れてしまう。真夜中の出来事は、朝になったら全部忘れてしまうんだ。





もしもし、聞こえますか。そうそう、君。君に話しかけてるよ。朝になったらボクが消えてみんなが帰ってくる。もしも君がボクと同じ真夜中に存在することができるのなら、ボクと遊ぼう。あそこの十字路にある販売機でラムネを買って、それを飲みながら散歩をしよう。きっと楽しいと思う。なんで楽しいかって? ひとりだとつまんないことも、ふたりになると楽しくなるんだってさ。まだ試したことはないからわかんないんだけど、子供の頃、読んだ絵本にそんなようなことが描いてあったんだ。ボクが言ってることを信じれないなら君が真夜中に遊びに来れたときに試してみようか。ボクはずっと真夜中で君のことをじっと待ってるよ。あ、朝が来る。もうお話は終わりにしなきゃ。じゃあ、まあ、とりあえず、いつかね。え? なに? だめだよ、それは。「またね」なんて言えないよ。だってボクたちまだ会ったことないもの。君は面白いなあ。これは全部、夢だよ。君の夢の中の出来事。真夜中の出来事。朝になったら全部忘れてしまうんだよ。

5/13/2023, 7:10:06 AM

「無垢で居るにはいろいろ知りすぎたし、いつまでも子供のままじゃ居られないんだよ」
あの人はそう言ってアパートを出て行った。ひとりになったアパートで、あの人が置いて行った煙草をあの人と同じようにベランダで吸った。流れゆく時間に沿って変わる街の動きをぼんやり眺める。煙草は頭がくらくらするから好きじゃない。街を眺めていると虚しさで涙があふれてくる。もうだめだと思った。だから私はいつまでも子供のままなのかもしれない。

5/9/2023, 3:11:13 PM

大好きなあの子は年上のお姉さんが好きだって言ってた。自分じゃどうやってもあの子の好きな人にはなれないんだなって思いながら、線香花火がアスファルトに落ちるのを眺めていた。どうにかしてあの子の時間だけを止めて、自分の時間だけを進めることはできないだろうか。あの子の大好きな年上のお姉さんになって会いに行きたい。そしたら好きだって言ってくれるだろうか。
叶わないと思いながらも願いを七夕の短冊に認めたら、奇跡は起こった。眠りに就くとき確かに小学生だったのに、朝目覚めたら大学生になっているではないか。何度も夢ではないことを確認する最中、ふと鏡に映った自分はなぜか礼服を着ていてもしかして今日が大学の入学式なのかもしれないなんて浮かれた考えはすぐに砕けた。「ずっと仲良しだったのに残念ね。まさか病気がこんなに早く進行しちゃうなんて」お母さんが誰の話をしているのかわからなかったけど、お母さんに手を引かれるままについていくと、あの子のお家についた。黒い服を着た人たちがわらわらとやってきて、あの子のお家に吸い込まれていく。低い声のお経と線香のにおい。少しだけお兄さんになったあの子の写真には黒いリボンが施されている。お姉さんになりたいって願ったのに、あの子と今の自分の歳は然程変わらない気がした。時間だけが進んでしまったってこと? それよりも受け入れ難い事実が目の前で繰り広げられているのに平然としているのは、脳が理解を拒んでいるからかもしれない。知らない人たちが啜り泣く声が耳障りだ。あの箱の中にあの子が入ってるなんて絶対嘘だ。信じたくない。呆然と立ち尽くす自分の元にあの子のお母さんがやってきた。徐に口を開いたあの子のお母さんは「今まで息子と仲良くしてくれてありがとう、それとねこれは息子からあなたに渡してほしいって」と、嗚咽しながら辿々しく言葉を紡いで、あの子からという手紙を手渡してきた。


キャンパスノートを破ったであろう用紙に認められた文字は確かにあの子の字で涙が零れる。

ずっと好きだった。小学生のときイキって生意気に年上のお姉さんが好きだとか言ってたけど、あれ嘘。ごめん。あのときも今もおれが好きなのはお前だけ。おれバカだからさ、たぶん死んでもずっとお前のこと好きだと思う。もうすぐ死ぬくせにこんなの書いて渡したら呪いみたいで卑怯だよな。ごめん。本当ごめん。怖がらせてたらごめん。おれのことは忘れて。お前は病気なんかすんなよ。元気でな。

なんだそれ。なんなんだよ、それ。どうして嘘なんかついたの。あの子が自分と同じ気持ちならこんなに早く大学生になんてなりたくなかった。あの子が元気だった小学生の頃に戻りたい。ゆっくり流れる時間の幸せをどうして噛み締めることができなかったんだろう。だけど、だけどさ、仕方ないじゃん。好きだったんだよ、すごく。どうにかして同じ気持ちになりたかったんだ。その代償がこれなんてあんまりだ。きっとこの後悔はずっと忘れられない。いつまでも。

5/8/2023, 11:32:35 AM

「一年経ったら今あるこの想いも忘れちゃったりするのかなあ」
氷菓を頬張りながらそんなことを言うこいつに俺は相槌のひとつも打ってやれない。
「一年経ったらとか言ったけど、もしかしたら明日にでも消えてる可能性あるよね。ほら、想いって移ろぎやすいし」
なんでそんな悲しそうな顔しながら終わりを紡ぐのか。どうすればいいかわからなくなる。どんな言葉をかけることが正解で、どうしてあげることが最善なのか。
「君はどうなの?」
「どうってなんだ」
「いやだからさ、一年後も変わらない想いとか、そういうのあるのかなあって」
「変わらないのは無理だ。だけど、たぶん今よりお前のことを大切に思う気持ちが大きくなってるとは思う」
「なんだそれ」
困ったようにも嬉しそうにも見える微笑みが夕闇に溶けた。今夜もしも星が流れるのなら、一年後もこいつと今みたく氷菓を食べながら他愛無い話ができますようにって願おうと思う。

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