橋って、あの世とこの世を繋いでいる危うい場所みたいです。
虹の架け橋って、ペットが死んだ時に、『虹の橋を渡りました』というけど、あれのことかしらん。。
わたしはハムスターを4回飼った事があって、3匹目のハムスターは、指を出すとペロっと舐めてくれる優しいコだった。
動物に名前を付けると、動物もただの動物じゃなくなるのね。【自分】ってものになれるんだと思う。名前を呼んであげる事によって、人間の愛を知って【自分っていうカタチ】になれるんだと思う。死んでからもしばらくは【そのカタチ】を保ってるんだと思う。
【自分が死んだ】って分かるのは、人間に名前を付けてもらったからだと思う。普通の動物は、生きるのも死ぬのも一緒の世界だから。
でも、名前を付けてもらっても人間と違って、残念ながら長くは【自分のカタチ】を保ち続ける事ができそうにない。
だから、出来るだけ早く忘れてあげる方が良いようです。あまり人間が思い出し過ぎると、還る場所へ還る事が出来なくなって、段々【自分】が分からなくなってしまうから。そうなったら悲惨だから。
ペットが亡くなった時の、虹の橋を渡るって考え方は素晴らしいと思う。
悲しくて思い出してしまったら、『この世での役目を終えて、虹の橋を渡ったんだね』って、心の中でつぶやいてあげれば、そのコはもう単なる動物ではない。役目を終えた永遠の魂になれるんだと、思う。
既読は付いているけど、
亡くなった知人のLINEはなんだか消せない。引っ越しして一年後、落ち着いたので久しぶりに暑中見舞いを送ったら、たぶん旦那さんからだと思う喪中はがきが届いた。前年には年賀状をもらっていたから、あっという間に亡くなった事になる。
その人はブログ開設していたので、まだあるかと思い、見に行った。趣味に関するブログだったのに、闘病の記録になっていた。今は他人事とは思えない。
この間近所の奥さんが、雑木林で栗拾いしてくれて、頂いた栗をさっき茹でてみた。
ホクホクの栗はほんのり甘かった。
最近の野菜も果物も、何でも甘さ増し増しで、それは不自然なことなのに気づく人はあまりにも少ない。砂糖を足す、っていうのはあまりにも不自然過ぎる。
本来の甘みは、口に入れて咀嚼しているうちに甘みを感じる、その程度のもの。
(スポーツ飲料の甘さは、もう論外。身体で作ることが出来ない栄養素なら身体に入れない方が絶対にいい)
ホクホクの栗の香りは、呼吸とともに鼻から抜けて台所に広がった。鍋から上がった湯気と一緒になって、またそれを吸い込んだ。
鼻から空気や香りを吸い込む、というけれど、本当はそれだけじゃない。そこらに浮遊しているご先祖様や、わたしの周りに寄ってきている霊なども一緒に吸い込んでいる。わたしのオーラと、同じ光量の霊たちだ。
わたしの鼻から入って、一緒に栗を味わって、わたしの鼻から出ていく。呼吸するたびに、わたしの中に霊が入ったり出たりしている。それを感じることは、わたしには出来ないけれど、
秋の色も鼻から吸って、脳にぶちあたって、『秋だなぁ』と感じる。というより、知らせてもらえる。そして、目で気づく。
____人間は視覚に頼りすぎてる。
世界っていうと、自分から外の世界ってだいたいの人は思うんだね。自分の世界が終わるなら、もしもではなくて、そのうちそうなる。自分が死んだら、自分の世界は広がらない。もしかしたら、誰かが引き継いでくれる、かもしれないけど。終わるというより、自分の意識は広がらない。その瞬間に持っていた意識のままが続く。持てるのは、ひとつだけ。生きているうちに最も強く感じた事をひとつだけ持って、死ぬ。
もしも、外の世界が終わるなら、人間の本性が剥き出しになって、犯罪が増える。このさいだから、あれをやってやろう、これをやってやろうと、普段は理性の奥に隠しておいたものを、『どうせ、』って気持ちでやりまくる、そんな人間で溢れかえる、それは獣性の解放だ。その混沌から【人】になれる人間も出てくる。
世界は毎日、どころか毎分毎秒終わった瞬間に始まっている。自分の何を見れば、それを感じられるか、見るのは自分で外の世界じゃない。
終わった瞬間に始まってる。始まったら終わってる、始まってる、終わってる、始まってる、の繰り返し。
それにしても、『もしも世界が終わるなら』なんて、バカップルぼくて野暮ったいテーマだね。
今日は病院へ10:00の検査予約で、前日まで車で行くか電車で行くか悩んだけど、電車で行くことにした。車だったら約1時間15分くらい、電車を使えば1時間40分あれば到着する予定。
電車だとしたら、最寄り駅まで車で20分かかるから、予定時間にプラス30分。おおよそ2時間あれば余裕のはずだった。
今朝は雷雨で、最寄り駅は家族を送ってきた車でごった返していて、停めるはずだったパーキングも満車で、第二候補も第三候補もパーキングは満車だった。
グルグルまわってればそのうち1台くらいは空くだろうと思ってたけど、ホントに20分グルグル周って1台だけ空いた。そこへストンと車を停めて、駅へ向かうと電車が発車するところで、ギリギリ乗れて座ることもできた。乗るはずだった電車のたぶん1本後の時間だったと思う。本数は少ないから、1本逃すといろいろと予定があわなくなる、、それでも時間には余裕があるから大丈夫だと思った。
JRから地下鉄へ乗り換えて、出口も間違うことはなかった。
地下から地上へ出ると、突然方向感覚が狂った。右か左か、どちらへ行けばいいか分からなくなって、スマホで検索すると、徒歩6分。余裕じゃん。
だけど、歩けど歩けど、なんとなく違う。反対だったか…?
途中のコンビニで、目的地検索。徒歩17分?。目的地が遠ざかってる。
でもまだ30分くらいはあるから大丈夫なはず。どこかで曲がるはずなんたけど、それらしい道が分からない。マップ見てるのに、グルグル。
病院は移転していて、新しくなってからは初めて行く。それらしい建物がいくつかあって、マンションだったりビルだったり。
やっと、見つけたと思ったら、果てしなくフェンス続きで入り口が分からない。広くなった駐車場をぐるりと周ったら、ホテルのエントランスみたいな入り口で、高級なタクシーが停まってた。
ぃゃぃゃ…10:10着。遅れてしまった。
家を3時間も前に出たのに。
検査なんかしなくても、わたしはすこぶる元気だと思った。元気じゃないと病院へ自力で来ることが出来ないし…。
結局検査は4時間もかかった。
歩いたことより、検査と待ち時間でヘトヘト。若い先生が元気元気で、それが唯一の救いだった。この先生なら、『また会いたい』そう思った。
帰りは地下鉄に乗らないで、JRの駅まで迷いながら40分歩いた。
靴紐を結ぶような靴を履けるのは、元気な証拠。元気な人しか履けません。
車椅子に乗るようになると、マジックテープか、ゴムバンドの上履きだよ。
あー、お腹空いた。。