子供のように無垢で無邪気なことと、精神的に未熟であることは違う。
私は、「子供のよう」と誤魔化して言い訳し成長しようともしない大人が嫌いだ。
これはそんな、私の話。
あの子と出会ったのは中学生の頃。心身の成長に皆が戸惑い、差がついてくる季節。
あの子は皆の中でも背が低く、格好によっては小学生にも見えた。真新しい制服に着られているよう、というのが初印象。もしかしたら向こうから見た私もそうかもしれないが。
あの子への初印象なんて語ってはみたものの、この際これといって関わりがあったわけではない。お互いにお互いが、道端に落ちているコロンとした石ころみたいなもの。きっとその程度の印象だ。
結局、あの子と初めて関わったのは三年の秋だった。もう卒業間近のシーズンはまるで既に別れが訪れているかのように、皆がどこか感傷的で、とても新しく友達を作る人なんかいない。
毎年この季節には合唱祭が行われる。あの子は隣のクラスでピアノを担当していた。
とある日の昼休み、私はいつもの場所へ訪れた。この季節だけの、特別な場所。
「あ、聞こえる」
耳をすませて、響いてくるピアノの音を聞く。
音楽室でピアノ担当の人が練習しているのだ。人通りの少ない階段のこの踊り場でそれを聞くのが、ひそかな楽しみだった。
だが、なんだか今日は様子がおかしい。聞こえてきたと思ったピアノの音はすぐに止まってしまったし、音楽室からは教師と思しき男性の怒鳴り声。
そして、バンッという鈍い音。たぶん、ドアが勢いよく開閉した音だ。耳をすましていた私はその音にびっくりして硬直し、こちらへ駆けて来る足音にも反応できなかった。
「あっ……」
「え?」
現れたのは、涙で頬を濡らしたあの子。今は私と同じ、学校指定の体育ジャージを着ている。相変わらず、これまた私と同じで、石ころみたいな子だった。
「ごめん」
そう呟いて踵を返すあの子に、慌てて口を開いて言葉を返す。
「頑張って」
あの子の背中に向けて言ったら、意外と声が響いて自分で驚く。そんな情けない私を置いて、あの子は消えてしまった。
早いこと、当日、本番。
私は自分のクラスの発表よりも、あの子のことが気になっていた。まだ名前すら知らないあの子のことが。
まあ私の心配なんて知らんこと、あの子は練習のかいあって見事に曲を弾きあげた。それはもう、素晴らしい。
そして嬉し涙を流すあの子のまわりのは、多くの友人達が集まってあの子を褒めたたえている。私もひそかに「おめでとう」と呟いた。
中学生なんてまだまだ子供だろう。子供らしく笑って、遊んで、泣いて、大人になっていく。
「大人になる」ということを考えるたびに、私はあの子のことを思い出す。
子供らしい小さな体でありながら、大人っぽい真面目さで、大人のように悲しい涙を隠し、嬉しいときは子供らしく泣く。そんな、ちぐはぐなあの子のことを。
「君はいつもひらひらして、楽しそうだね」
暖かくなってきた風に乗ってカーテンが揺れる。
最初は忌々しかったそれも、今ではすっかり友達だ。
「風に乗るってどんな感じ?」
尋ねるというていで呟き目を閉じる。
考えるのは、カーテンになった自分。春のぽかぽかした日差しの元でひらりひらりと優雅に舞えたら。
どうせなら、こんな陰気臭い部屋の真っ白なカーテンじゃなくて、明るい部屋の、色鮮やかなものがいい。
ふわっと一際強く吹いた風に乗って、カーテンが私の頬を撫でていく。なんだよ、君も私のことが好きかい?
―――懐かしい夢を見ていた。懐かしい、と思う記憶すらこの部屋の中だなんて、つまらない人生。
「起きたの?」
母の優しげな、悲しそうな声。ゆっくりとそちらに顔を向ける。あのカーテンの前に立つ母の顔がよく見えない。
「……あ、さ……ん」
声が掠れる。そういえばやけに体が重い。
「……がんばったね」
「……ん」
ああ、そっか。もうだめなんだ。
不思議とあまり悲しくはない。しいて言うなら、優しい両親よりも先に逝くのが申し訳ないけれど。
「あり、がと」
残る力を全て込めて声にした言葉は、届いただろうか。
それを確認することも返事を聞くこともできずに、私は眠りに落ちた。
ひらり、ひらり。
風に揺れるカーテンが、だらりとベッドからのびる少女の手を撫でた。
まるで、もう目覚めることのない友を労るように。
「私と、踊りませんか」
落ち着かなさげに薄暗い教室の中をうろつきながら、そう声に出してみる。想像するのはもちろん、相手の顔。
「私と、踊りませんか」
文化祭のフォークダンスなんて、古臭くてつまらないと思っていた。そう、あの時は踊りたいと思える相手がいなかったから。
私がこの言葉を伝えることで、相手はどんな表情をするだろう。驚く?困る?それとも喜ぶ、だろうか。
「私と、踊りませんか。踊り……うーん?」
踊らないですか?いや、踊ろう?
なにがふさわしいだろうか。相手は部活の後輩。敬語というのもおかしい気がしてきた。
「おど……踊らない?私と」
ダメだ、言える気がしない。もうすぐ本番だというのに。もう既に相手が決まってしまっているかもしれない。だいたい、こんな急に申し出ても迷惑か。
「―――先輩!」
「えっ」
私一人だけがいた空き教室に飛び込んでくる存在。私が今まで恋い焦がれて止まなかった人。
肩で息をするその人が走って来たのは明らかで、その目ははっきりと私を捉えていた。
「私と、踊りませんか」
彼女のかわいい声が、私がずっと伝えたかった言葉を綴る。
「好きです、先輩。私と、踊ってください」
窓からさしこむキャンプファイヤーの灯りが彼女の桃色の頬を照らした。それが綺麗で、かわいくて、ずっと見ていたかったが、ゆらりと頭を下げた茶色の髪に隠れてしまう。
どこからか入り込んだ夕暮れの涼しげな風が、私達のスカートを揺らしていた。
オレンジ色に、青に、あるいは紫にと美しく彩られる
黄昏の空を、誰と見たものか。
まずは一人で見上げてみる。秋の涼しげな風に打たれ、鈴虫の声に耳を澄ませる。
その美しさを、自然を、一心に感じるにはこれが一番だろう。
二人で、それも自分の大切な人と見上げる。
「きれいだね」と言葉を、感情を共有できることが一番の喜びになるのではないだろうか。
また、とても手の届かない空よりもすぐ隣の愛する人の方が何倍にも美しいと、感じられるかもしれない。
大勢で見上げてみる。友人同士の集まりでも、仕事仲間でも、あるいは何の関係もない偶然その場にいた人でもいい。
共にそれを見る人の存在で、感じ方はどう変わるだろう。あなたはどんなシチュエーションに憧れるだろうか?
空を見上げ、そんなことを考えながらひそかに笑う。
それが、私は一番好きだ。
「さよなら、また明日」「おやすみなさい」
きっと明日も会えると、誰もが信じている。
自分も相手も、何事もなく明日を迎えられると。
病気も事故も事件もなく、必ず生きて会えると。
なんの確証もないというのに。
ただ無邪気に信じている。
それは、あまりにも虚しいものではないだろうかと、
考える度にやるせない気持ちになる。
「さよなら、また明日」「おやすみなさい」
そんな言葉を、あなたはどんな気持ちで口にしているだろうか。形式的に?それとも、愛を込めて?
せめて、心に愛する人、愛してくれる人にだけは、心を込めて伝えてほしい。笑顔を向けてほしい。
それはあなたの人生をより豊かな、温かいものへ変えることだろう。
そして、たとえ明日会えなくても、永久に離れ離れになってしまったとしても。
最後に愛を伝えられたことがきっと、あなたの心を守ることにも繋がるだろうから。