【バカみたい】
俺のクラスに転入して来たアンタは、不自然な程すぐにクラスに馴染んだな。あれは小学校の五年生だったか。
家が近所だからって、俺にも初めからやたら馴れ馴れしくて、俺の親や兄貴にまで取り入って気に入られて。
明るくて、人懐っこくてよく笑う―――だけど行儀は良い、大人受けする女子。
俺はそんなアンタが昔から大嫌いだったんだ。
なんてな。嘘だ、俺はアンタが好きだよ。
嫌いだったのはアンタの笑顔。
明るくて人懐っこくてよく笑う、アンタはただ、皆に好かれるそんな女子にあの頃なりたかったんだろ?
けど卑怯だろ。そうやって人を和ませる柔らかい微笑みの下に、固く閉ざした心を隠し続けていたんだから。
バカみたい。
だってアンタさ、ホントはそんな女じゃないよな。
誰かになんてなれやしないのに、そんなモン演じてみても結局一人で落ち込むだけだろ。
それでも笑っていたかったってのか?
精神どんどん擦り切れてんじゃねえか。
本当バカみたい。実は自分でもそう思ってるよな?
仕方ねえな。疲れ切ったバカで可哀想なアンタに、居場所をひとつやるよ。
「俺にまで無理に笑わなくても良いぜ、疲れるだろ。幼馴染みじゃん俺ら」
アンタの心を解放する言葉。
この時の、俺を見上げる縋り付くような眼が忘れられない。
アンタ余程疲れてたんだな、こんな他愛ない言葉で呆気なく堕ちるなんてさ。
大丈夫、これからは俺の隣に居るだけで良い。ホラ、楽だろう?
そう言うと、アンタは小さく頷いて俺の腕にしがみ付いた。
そうだ、それで良い。
アンタは、素の自分で居られる場所を求め、俺がそれを与えた。
俺は、暗くて人間不信で気怠げな、誰も知らない本当のアンタが欲しかった。
Win-Winだろ?
だからずっと俺の側に居ろ。本当のアンタを理解しているのは俺だけなんだから。
笑わない、誰も知らないアンタが好きなんて、俺も大概バカみたいだけどな。
【kiss】
「知ってる? キスする場所には、それぞれ意味があるんだ。もちろん耳にも、首筋にもね」
私の首筋や耳に何度もキスした後、彼が耳許で囁くように言う。
「意味?」
「そう。例えば頬は親愛、瞼は憧れ、手の甲は敬愛、みたいに部位別に意味がある」
「へえ……初耳」
「キミが今、唇以外で僕にキスするなら、何処にする?」
「……引かない?」
「え、待って。キミ何処にしようとしてるの」
「ちょっとだけ上向いて?」
急所だからと細心の注意を払いつつ、私は彼の喉仏にそっと触れるか触れないか……くらいの軽いキスをした。
「私、ずっとここにしてみたかった」
意外過ぎて驚いたのか、彼は言葉もなく瞠目していた。
「急所だし、本当は触っちゃいけないんだろうけど、女にはないものだから。それに私、君の声好きだし」
「引きはしないけど、びっくりした」
「ここにも意味があるのかな……」
「喉仏も含まれるかは分からないけど、喉へのキスも確か意味があるよ」
「教えてくれないの?」
「ん?」
「意味。首筋と耳も私は意味知らないもん、気になる」
「じゃ、耳だけね」
「何でよ」
「後は調べてみろよ。自分で」
「……分かった」
不満気な表情の私を見てフッと笑った彼は、耳許に再び唇を寄せてわざと息を吹き掛けるように囁いた。
「耳へのキスは『誘惑』だ。そんな所にキスしてくる男には気を付けろよ」
「そんな悪い男、君くらいかな」
「悪い男か……そうかもね」
低く笑う彼の声がやけに艶っぽく聞こえる。やっぱり私は彼の声が好きだなと思っていると、耳にまたキスしてきた。
何と反応して良いか分からないでいるうちにキスは頬、鼻と移り、唇にゆっくりと降りてきた。半開きのまま口を固定され、すぐに熱を帯びた舌が入ってくる。捉えられ、絡まり、解放されたかと思えばまた絡まる。
背筋に痺れが走り、私の中を這い上がってくるこのゾクゾクとした疼き。キスから先を待っている身体。
―――なるほど、彼の『誘惑』は大成功って訳か。
【I LOVE…】
人に執着する事なんて、無いと思っていた。
他人に興味は無かったし、特に深入りしたいと思った事も無い。
逆もまた然りで、僕自身他人に踏み込まれたくも無い。
相当排他的な性質なのだと、我ながら思う。
なのに―――全部を捨てるのが急に怖くなって。
いつからだろう?
たった一人で良い、『愛したい』と思うようになった。
そしてこの喉の渇きにも似た思いを、君はその持てる全てで潤そうとしてくれる。
けれど決してそれが満たされる事は無くて。
どうしてだろう?
君の事は好きなのに。
……ゴメンね。
本当はちゃんと、君を愛してみたかった。
【どうして】
料理そのものは多分母親の方が上手だったように思う。例えばそれは技術的なものや、盛り付けひとつとっても。
だがどんなに豪華で綺麗に盛り付けられた飯でも、それを食う俺は独りきりだった。
そんな風に育ってきたから、正直食事なんて空腹を満たす事さえ出来ればそれで良い、その程度にしか思ってなかったんだが。
『……美味い』
『本当? 良かった』
アンタの部屋で、アンタの作る飯を一緒に食うのはどうして、あんなにも美味かったのか。
どうして俺の心は幸せで満たされたのか。
生きる事自体、正直どうでも良いとすら思っていた俺が、初めて知った日常の中の幸せ。
それは、いつも傍らで微笑んでくれるアンタとだから感じる事が出来て、分かち合えたんだな。アンタを喪った今なら判る。
「命日くらい、夢でも良いから俺のとこ来いっての」
嗚呼、アンタの作った飯が食いてえなぁ。
【ずっとこのまま】
しつこいナンパ男から私を救い出してくれた彼は、ちょっと怒った様に無言で私の手を引きズンズンと大股で歩いていく。
私は彼に手を引かれたまま、ただ後ろ姿を見詰めているしか出来なくて。
背は平均より高い方でも、痩せ型でひょろっと手足が長く少し頼りない。そんな印象だった彼の背中が、思いの外広い事を初めて知った。
少しだけ格好良いな、なんて見直したけど、認めるのが何となく悔しい。
(何か言って)
広い背中も、いつにない無口さも、その身に纏う雰囲気も。やはり怒っているのか、その全てが普段の彼とは別人の様で。
何だか調子が狂う。
(こっち向いて)
隙だらけだった私が悪いのは判っている。これからは気を付けなきゃって反省しているから……
(お礼くらい、面と向かって言わせて)
「……キミさぁ、反省してる?」
振り向きもせず、彼は呟くように問う。
「うん」
「なら良いよ。柄にもない説教とか、僕もしたくないから」
「あの、助けてくれて有難う。それと……ゴメン」
返事の代わりに彼は握っていた手に力を込め、私もその手をそっと握り返す。その温もりは、下手な説教なんかよりもずっと、私を安心させてくれた。
ずっとこうして、ずっとこのままこの手を握っていて欲しいと。
この手を離すものかと、初めて思ったんだ。
けれどこの気持ちが、胸の痛みが……この溢れる涙が何なのか、私にはまだハッキリと解っていなかった。
『ああ……私、彼が好きだったのか』
結局その答えが見付かったのはずっとずっと後の事で、彼に二度と会えなくなってしまってからだった。
会いたくて、恋しくて、叶わぬ想いに絶望しながら、それでも彼を思わない日は今まで一日たりともなかった。それなのに―――
私はどうして、あの広い背中しかもう思い出せないのだろう。