【手を繋いで】
翌日眼を覚ますと、僕達はずっと手を繋いだままだった。まだ眠っている彼女に何気なく眼を向けて、僕は心臓を鷲掴みにされた気がした。
透き通る程白い彼女の頬に残る、涙の跡。
(あぁ、君は……僕の代わりに泣いていたのかも知れない)
繊細な彼女にはきっと、繋いだ手から僕の欝屈した思いが伝わってしまったのだろう。
それが例え僕の痛い妄想に過ぎなくても、眼の前の彼女に心が締め付けられ、愛しく思う気持ちに嘘偽りはなかった。
独りで居られたら、なんてどうして思ったりしたのだろう。
彼女が側に居てくれて、僕はどんなに救われたか知れないのに。沢山の思いを優しさを、彼女から貰っていたというのに。
自分が彼女を苦しめてしまったと気付くのは、いつも後になってから。
自分が満たされてからでないと気付けない、僕はそんな年だけを重ね身体が大きいだけの子供なのだ。
情けなくも僕は、彼女が居ないともう一歩も進めなくて―――
でもそれを、こんなに悔しく感じたのは初めてだ。今更ガキだと自覚したからと言って、すぐに変われやしないけれど。
強くなりたい。
彼女の全てを包み込める位、側で支えてあげられる位。彼女が僕にそうしてくれた様に。
その時、もそもそと布団が動いた。
「ん……っ」
「お早う」
「おはよ……。眠れた?」
「うん」
「そう、良かった」
「多分これのお陰かな」
朝まで繋いだままだった手を、軽く持ち上げて彼女に見せた。まだ寝呆け半分の彼女も、流石に驚いて眼を見張る。
「え、これずっと?」
「そう。このままだった」
頷きながら僕が言うと、照れ臭そうに……それでいて幸せそうに彼女は笑った。つられて僕も頬が緩む。
彼女が嬉しいと、僕も嬉しい。それはこんなにも幸せで、簡単な事だったんだと実感した。
「そっか。ねえ……もうちょっと、このままでもいい?」
「うん」
その笑顔を、このささやかな幸せを守る為ならば、僕はきっと強くなってみせる。そう胸に誓い、彼女の白い手にキスをした。
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※2023/11/3 お題【眠りにつく前に】の続き
【眠りにつく前に】
飲み過ぎて足元も覚束ない上司を何とか自宅まで送り届け、もと来た道を引き返す。
外に出ると、眩しい程の月が地上を照らしていた。こんなに月の光が明るいのは、満月だったからかと今更気付く。
ふと微かに吹いていた夜風も止んだ。それは僕に、全ての時の流れも止まってしまったかの様な錯覚を起こさせる。
(ああ、何だか疲れた……)
足を止め、明る過ぎる月を見上げた。
「いいなぁ」
何に邪魔される事も無く、月はただそこに『在る』。何のしがらみも持たず独り、そんな風に生きられたらどんなにか……
月を見ると、そんな事をよく思う。
だが人に絶対の孤独など存在しない事も知っている。判っているからこその欲求だった。
なのに不意に浮かぶのは、優しくもどこか寂しげに微笑む恋人の顔で。
彼女を置いて去るのも、失うのも嫌だという己の中にある矛盾も、僕ははっきり感じている。
何もかもに疲れたこんな時は、独りの方が余程楽なはずなのに……何故か今日は、誰も居ない自分の部屋に帰る気もしなかった。
そんな僕の手には携帯電話。
開いたトーク画面は――彼女。
「あのさ、これからそっちに行っても良いかな」
『泊まってくって事だよね? 大丈夫』
「うん。ゴメンね急に」
『いいって。じゃ、待ってるね』
時計を確認すると、そろそろ日付が変わるかという時刻だった。よく承諾してくれたものだと、僕は苦笑した。
彼女の部屋に着くと、座卓にはお茶漬けが既に用意してあった。だが先程まで飲んでいた事など、話した覚えはない。
僕が驚いて尋ねれば、そっと彼女は微笑んで呟く様に答える。
「んー、何となく?」
お風呂の用意して来るね、と彼女はバスルームへ姿を消した。
風呂を済ませると、完全に酒は抜けたようだ。
良いタイミングで麦茶を渡されて飲み干すと、彼女が僕をじっと見ていた。
「どうかした?」
「普段ならお酒を飲むと口数が増えるのに、今日は静かだなぁと思って。でも、時々何か言いたそうな顔もしてるから」
彼女の眼から、すっと光が消えた。暗い視線を伏せ、今度は僕を見ずに呟く。
「――何か話したい事、ある?」
「今は、いい。居てくれるだけで」
「そっか……判った」
彼女は顔を上げ、穏やかに微笑む。それはもう、いつもと変わらない笑顔だった。
(ホント勘が鋭いったらないよ)
一旦は気に掛けつつも、僕が黙っているとなれば彼女はそれ以上余計な詮索をして来ない。判った風な口も利かないから、沈黙すら心地良い。
多分僕は、彼女のそんなところが好きで―――失いたくないと思う、一番の理由はそこなのかも知れなかった。
僕達は必要最低限の会話だけしながら、そのままベッドに入った。
どちらからともなく何度か触れるだけの軽いキスをしてから、彼女は「お休みなさい」と呟いて、眼を閉じる。
「ねえ」
「なあに?」
「手、繋いでも良い?」
彼女は小さく頷くと、布団から手を差し出した。その華奢な白い手に指を絡めて、そっと握る。
孤独を欲する心と、彼女への執着に揺れるそんな夜には、この位の温もりが丁度良い。
「温かい……このまま寝ちゃうかも」
「うん。お休み」
彼女の温もりを感じながら眠りに落ちていく瞬間、急に僕は泣きたくなって、きつく眼を閉じた。
【たそがれ】
夕焼け空よりも日没直後の薄暗さが好き、と以前彼女は言っていた。何故と問い掛けても彼女は「秘密」と寂し気に微笑むだけで、俺に教えてはくれなかった。
今も丁度いつかの様に日が沈んで、水平線に微かに残るオレンジ色の空が徐々に濃紺の夜で覆われていく。
そんな西の空を彼女は黙って俺の隣で眺めているが、ふとその横顔に浮かぶ翳りが気になった。
彼女は時々そんな表情をする事があるのだ。
「寒くないか?」
そんな時でもこうして、物判りの良い上司の顔で彼女の側に居ながら、結局俺はいつも自分の気持ちを持て余している。
「……はい。大丈夫です」
他に何と声を掛けて良いのか判らず、俺はもう一度、日没後の空が好きな理由を尋ねてみる事にした。また秘密だとはぐらかされるだろうかと思ったが、彼女は少し逡巡した後、独り言の様な小さな声で呟いた。
「理由は3つあります。だけど、1つだけなら良いですよ」
「1つだけか。なら一番の理由が聞きたい」
彼女は俯きながら、涙を隠してくれるからですと答えた。
「なるほどな。でも、それなら夜の闇の方が都合良い気がするんだが」
「涙って、街灯や車のライトで結構光るんですよ。だから、灯りが点く前の暗さが良いんです」
俯いたまま、彼女はこちらを見ようとしない。
今まさに彼女が泣いているのではないか? そんな気がして俺が恐る恐る声を掛けようとした時―――
「済みません、変な事言って」
努めて明るい声で言うと、彼女は顔を上げた。
俺の心配は幸い杞憂だったが、薄闇のせいか彼女の表情が無理した泣き笑いの様で、痛々しく見えてしまう。
「別にいい、気にするな。そろそろデスクに戻ろう、霧が出てきた」
「霧……」
何かに気付いたように、彼女が瞠目する。
「ん? 俺何か変な事言ったか?」
「あ、いえ! ただ―――」
霧なら涙だけじゃなくて色々なものが隠れますよね。
消え入る様な声で、だが確かに彼女はそう呟いたのだ。
「そうだなあ……確かに」
同意はしたものの、普段朗らかで基本的にはポジティブ思考の彼女らしくない発言に、俺は驚いていた。
「けどそれじゃ、見たいものも隠れちゃうから駄目ですね」
彼女に何があったのか、俺には判らない。
力なく、でも懸命に堪えて強がる彼女を見ると、俺は何とも言えない切ない気持ちに苛まれた。
泣いてどうなるものではなくとも、気持ちを切り替える意味で泣く事が有効な場合もあるだろうに。
こんな時、わっと泣いて誰かに甘える事の出来ない彼女が焦れったい。
側に居るのに甘え先になれない自分も。
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※俺=2023/7/9 お題【街の明かり】の『課長』
【静寂に包まれた部屋】
昨晩もろくに眠れないまま東の空が徐々に白んで、夜が明けてしまった。
何度目かの溜め息を吐き、電気ケトルに水を汲みスイッチを入れる。
―――こんな朝を迎えるのも、もう三日目だ。
半月程前から、恋人と連絡が取れなくなっている。
携帯に掛けてみても留守電で、メッセージを残してもリターンがない。LINEも無視。一昨日の夜からはとうとう繋がらなくなってしまった。
仕事が忙しいのかも知れないという一種の諦めにも似た理解と、別れ話を切り出せず自然消滅でも狙われているのだろうかという不安が今、私の中でごちゃ混ぜになって渦巻いているのだ。
どちらかと言えば普段は彼の方がマメに連絡を取りたがるのに、こんなに音沙汰がないのは初めてだったから。
だからと言って、家族でもない自分が騒いで捜索願なんておかしな話で。
心当たりは毎日探しているのだが、正直共通の友人知人がおらず彼の現況が全くと言っていい程判らない。
心配だが彼も大人だし……そう自分に言い聞かせて、彼からの連絡を待っていた。
だが、そんな強がりもそろそろ限界にきている。
一体、どこで何をしているの?
忙しいなら忙しいでいい。もし他に好きな人でも出来て別れたいのならせめて言って欲しい。
極端な話、無事を確認したいだけなのだ。
コーヒーを淹れる前にひとまず顔を洗おうと、ユニットバスへ向かう。
「―――酷い顔」
独り言が静寂に溶ける。
鏡に映る自分の顔を見て、自嘲気味に頬を歪めた。
肌はボロボロにくすんでいたし、眼の下の隈などはもうメイクで隠せるレベルではない。
溜め息を吐いた時、ふと眼に入った二人分の歯ブラシ。
これだけじゃない。二人分のタオルや着替え、食器。彼が手ぶらで訪ねて来ても、数日は不自由無く生活出来るくらいのものは揃えていた。
どこを見回しても、この部屋には彼の気配がする。
会いたい。声が聞きたい。
彼に出会う前までずっと独りで暮らしてきたはずなのに、今はここに独りで居るのが辛い。この部屋の静寂が怖い。
自分で想像していた以上に、心の中に彼が居るのを自覚してしまって、泣きたくなって困る。
だから用が無くても外で過ごす事が多くなった。極力この部屋に居たくない。
そして今日もまた、何だかんだ理由を付けては出掛ける事になるのだろう。彼の声、匂い、面影を求めて。
【些細なことでも】
前回はハンカチ。
その前は確か、折りたたみ傘。
今回は―――腕時計。
それらは全て、私の部屋に恋人が置き忘れていった物たちだ。
いつも何かしら忘れて帰る彼を、初めこそ「忘れ物の多い人だな」ぐらいにしか思っていなかったけれど。こうも続くと幾ら私でも疑惑の念を抱く。
彼は『忘れる』のではなく、わざと『置いて』帰っているのではないか。
もしかしたら、しばらく会えない自分の代わりに置いていっているのかも知れないと。
彼は仕事柄、普段あまり約束事をしたがらない。それこそ次に会う約束でさえも。
学生である私と休日を合わせるのもままならない状況なのだから、仕方ない。
それは判っている。だけど……
ポツンと残された腕時計を手に取り、つい数時間前までこの部屋に居た持ち主を思うと胸がチクリと痛んだ。
忘れ物が眼に入る度、私はいつも彼を思い出し胸が一杯になる。
すぐに会いたくなる。
こんな些細なことでも、何も手に付かなくなってしまう。
もし彼がそれを狙っているのだとしたら―――
「酷い人」
忘れ物たった一つでこんな風に、私の心を支配するなんて。