【遠い日の記憶】
ふと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの恋人の姿が無かった。一人分のぬくもりが消えた寝床というのは、それだけで寒々しい。
携帯で時刻を確認すると、まだ午前四時。
ぼんやりした意識の中、彼女の姿を探した手は虚しく宙を舞い、枕の上に落ちた。
何度か彼女の名をモゴモゴ呼んでみるが、呼び掛けに答える声は無く闇に溶ける。
ゆっくりと泳がせた視線は、自然とキッチンへと行き着いた。
**********
高校時代の元彼の夢を見た。
正直二度と思い出したくない類のトラウマ、遥か遠い日の記憶。
夢の中の私はまだ元彼と上手くいっていた頃の、変わり栄えもしないごく普通の女子高生の日常を過ごしていた。別段刺激的な内容でもなかったし、まして本人に未練などないけれど、恋人と寝た夜に見るものとしては、充分に鬱陶しく、後味も悪かった。
そして目が覚めた時、視界に飛び込んできた彼の寝顔があまりにも無防備で……何とも言えぬ後ろめたさに、胸が軋んだ。
眼を閉じていると、いつもの冷めた眼差しが隠されて、彼の童顔が際立つ気がする。
彼のなだらかなカーブを描く頬が好き。鼻の形が好き。ちょっと半開きの薄い唇が好き。例えそれが、開かれた瞬間デリカシーのない毒を吐くのだとしても。
「好き」
そっと呟いて、その唇に自分のそれをほんの一瞬重ねた後、急に照れ臭くなって私はベッドから降りた。
もう眠れそうにないと思いヤカンに水を入れコンロにかけて、ガスの青い火を見つめた。
青い炎は、赤色のそれよりも高温なのだという。
熱さなんて全く感じさせないくせに、その内側は酷く激しい。まるで彼そのものだと思った。
そして私は……そんな激しさを秘めた彼が好きなのだ、とても。
初め、その気持ちをわざわざ彼に伝えるつもりは無かった。
それまでの『ちょっと親しく話をする職場の先輩後輩』という微妙で曖昧な関係でも充分満足していたし、変化など求めるより、現在の関係を保っていたい。
高校時代のトラウマもあって、恋愛には臆病になっていた。
だがそう願っていたのはこちらだけだったようで、出逢って半年後、私は彼に交際を申し込まれた。
その時は断った。
でも彼は、意外な程根気強く私に寄り添い、トラウマを払拭してくれたのだ。その後改めて交際を申し込まれ、私ももう断る理由はなかった。
「だーれだ?」
「ひっ……!」
突然背後から伸びた手に視界を遮られ、私は飛び上がる程驚いた。
慌てて振り返ると、不機嫌そうな顔をした恋人がこちらを見詰めている。
「もう、びっくりさせないで……」
「そりゃこっちの台詞だ、起きたら居ねえし。で、何してんだ? こんな明け方に」
「……嫌な夢見た。何か寝れないし、お茶でも淹れようかなって」
「ふーん」
抑揚の乏しい声音で呟きながら、彼はカチ、とコンロの火を消した。
「あ!」
「そんなのいいから、さっさと寝るぞ」
「でも」
「……寒いんだよ。寝れないなら俺の湯たんぽになれ」
ぐいと強く手を引かれ、無言のままベッドへ誘導する彼に、あっという間に中へ引きずり込まれた。
すっかり冷えてしまった身体を背中からぎゅっと抱きしめられて、思わず鼓動が速くなる。彼にもそれは伝わってしまったようで、ふっと笑う気配と吐息を耳元に感じた。
「何だ、今更恥ずかしいのかよ」
「ち、違う」
「……あまり心配させんな」
「?」
ちょっとベッドから離れたくらいで、一体何を心配したと言うのだろうか。肩越しに振り返り尋ねようとしたが、やめた。
彼が今どんな顔をしているのか、私をどんな眼で見ているのか、それを確かめるのが、何故か怖かった。
「……お休みなさい」
お休み、と短く返された後、うなじに穏やかな寝息。背後に温かな体温を感じて、私はほっと息を吐く。
そしてようやく訪れた眠りの波に身を任せながら、眼を閉じた。
―――きっともうあんな夢は、見ない。
【終わりにしよう】
「本当に行くの……もう会えないの?」
歩き出した背後から届いた小さく震える涙声に、つい立ち止まってしまった。
俺は馬鹿だ。
どう考えても、このまま立ち止まらずに去るべきだった。
自分の手では幸せに出来ない女と判ってるから、いい加減身を引くと決めたのに。やっと『終わりにしよう』と告げたのに、結局絆されて。
惚れた弱みってやつはどうにも厄介だ。
態々戻って、頬に滑り落ちる雫を唇で吸い取る。
「一々泣くな」
「戻って来るよね?」
「さあな」
「いつでもいいから……」
アンタへの思いを切り捨てねばならないと思えば思う程、同じ分だけ何もかも捨てて拐ってしまいたいという本音が込み上げる。
その癖そんな柄にもない思いを悟られるのも嫌で、つい心とは裏腹な言葉が出てしまう。
「清々するぜ。その鬱陶しい泣き顔見なくて済む」
「……泣かせてきた張本人がそれ言う?」
「はは、違いねえ」
確かにアンタの言う通り、涙の原因は大概俺だったな。
身の程知らずの懸想だと判っていたから素直になれなかっただけで、これでもアンタの事愛していたんだ。今までセフレみたいな扱いしておいて、何言ってるんだって思うのかも知れないが。
まあ聡いアンタには何もかもバレてるんだろう。
「……じゃあな」
―――どうか、幸せに。
最後まで本心を告げないまま、今度こそ振り返らずに背を向け歩き出す。
明かりが要らない程光る青白い月を見上げると、月がみるみる滲んで崩れた。
【目が覚めると】
折角の休みだというのに、目が覚めるとまだ午前六時半だった。
俺の普段の休日の起床時間からすると、とんでもなく早い時間。
やっぱり自分の部屋と枕でないと眠りが浅いのか、アラームなしで自然と目が開いた。
(あー……昨日はそのまま泊まったんだったか)
昨夜は珍しく飲み過ぎて、恋人のアパートに泊めてもらった事を思い出した。
改めて周りを見回せば、そこはシーツやカーテンこそ女性が好みそうな小花柄だが、部屋の主である彼女のイメージにはあまりそぐわないサッパリとした、やけにがらんとした部屋だ。普通三年以上同じ部屋に住んでいればもう少し物が増えていても良さそうなものだが、ミニテーブルにもドレッサーにもチェストの上にも何も無い。
ある物といえばドアフックに掛けてある、ハンガーに吊るされ整えられた俺のスーツくらいのものだった。
(まぁ汚ねえよりは断然良いが)
己の部屋の汚さを思い出しつつ棚上げし、俺はベッドから降りた。
部屋の主はとうに起きているらしく、ドアの向こうから物音が聞こえ、香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
欠伸をしながらダイニングに出て来た俺を、彼女の明るい声が迎えた。
「あ、おはよう。起きてくれて丁度良かった」
「……はよ。早いな」
「お腹減ってる? 大したものないけど」
(ちょっと何言ってるか分からない)
某芸人のネタ台詞が過る。
俺の普段の食生活と比べたら、眼前に広がる光景はさながら楽園だというのに。
「これ、みんな今作ったのか?」
「作ったって程のものじゃないよ。中途半端に残ってた野菜をトマトの水煮と一緒に煮込んで、あとは卵焼いただけ。惣菜だって使ってるし」
既にテーブルの上にはミネストローネの入った深皿、ソーセージとポテトサラダを添えてスクランブルエッグを乗せた皿が並び、少々年季の入ったオーブントースターの中ではトーストがこんがり焼き上がろうとしている。
それを見た途端、俺の腹はぐうっと鳴った。
「アンタ、いつもこんな朝飯食ってんだ?」
俺はほとんど自炊しないから、凄ぇな、と素直に思ったのだが。当の彼女は笑みを浮かべながら、小さく首を振った。
「ううん、1人の時なんて適当だよ。でも抜く事はないかな、朝はしっかり食べた方がいいし。それに今日は二人だから」
その言葉に俺は驚き、エプロンを外している彼女をまじまじと見詰めてしまった。
(それ、要は俺の為って事じゃねえか……)
そして、ふと俺は数年後の彼女を妄想する。
元々料理スキルは合格点―――なんて言うと偉そうだが、彼女が今まで振る舞ってくれた料理で俺の口に合わなかったものは一つもなかったのは事実だ。
ベタだが、真っ白いエプロンを着けて朝からまな板トントントン、とか。で、味噌汁の匂いが漂ってたりして……そうなると、いっそ割烹着姿なんかも良いかもな。楚々とした彼女には、和のテイストもなかなか似合いそうだ。妄想が止まらない。
「ねえ、どうかした?」
訝し気な彼女の声で我に返った。
「ん?」
「あ……ちょっと作り過ぎちゃったかな。もしかして量、多かった? 昨日のお酒抜けてないとか」
「大丈夫」
「そう、良かった。ぼんやりしてたし、何となく朝弱そうな感じに見えて」
「本当に大丈夫。まあ何だ、新婚家庭の朝ってこんな感じかもなって」
「え……?」
(あ、まだ付き合ってそんなに経ってねえのにこんな話、引かれたか?)
しまった、と思いつつ彼女がどういうリアクションを返してくるかと、俺はこっそり身構えた。
「私……新婚家庭ってよく知らないんだけど、こういうものなの?」
(あ? そこに反応すんのか)
ドン引かれるよりは良いが身構えた分、脱力感が半端ない。
「俺も知らね。一般的なイメージとして?」
「イメージ……」
「俺だって独身だろうが」
「バツ付いてても、今結婚してなきゃ独身だもの」
彼女はほんの少しだけ疑わし気に、ふふ、と含みのある笑みを浮かべる。
「あ? そんな訳ねえだろ」
「冗談よ。動揺し過ぎ!」
今度は邪気なく笑った彼女にホッとしつつ、雲行きがまた怪しくならないように俺は話題を朝食に戻す。
「あ~、食おうぜ! 飯冷めちまうし、俺腹減った」
「そうだね、食べよう」
「美味そう。――頂きます」
料理を見ながら首をひねり、イメージか……とまだ引きずり気味の彼女の呟きを遮り、俺は無理矢理話を切り上げた。
(まだ気にしてたのか……つか献立の話じゃねえよ)
バツ付き云々は本当に冗談だったようだ。
その後しばらく俺は、バターを塗ったトーストにスクランブルエッグを乗せ朝食を平らげる事に集中していたが、途中で彼女が何かに気付いたのか「あっ……」と小さく息を呑んで、俺を見ながらくすぐったそうに笑った。
(今やっと、俺との将来想像してくれた……んだよな?)
【街の明かり】
屋上から眺める景色は緑が多く、疲れた眼や頭をスッキリさせてくれて丁度良い。
普段から俺は休憩する時、喫煙室や休憩室よりも屋上に行く事が多かった。
今日は残業で、とうに日が落ちているが気分転換に屋上に向かう。
社内の自販機で買った缶コーヒーを飲み、街の明かりを見下ろしながら一服していると、背後から部下の声が聞こえた。
「課長。お疲れ様です」
「おう、お疲れ」
まだまだ新人に毛が生えた程度と思っていた部下だが、来期には主任に昇格する事が内定していると人事部に居る俺の同期が教えてくれた。彼女の同期の中では一番手だそうだ。
「私も此処に居て構いませんか?」
「ああ」
「有難うございます」
同意はしたものの、仕事抜きでするような話題などこちらは持ち合わせていない。ただ沈黙が流れるだけだと思うのだが、彼女はさして気にする風でもなく俺の左隣に来ると、早速着ていたジャケットの内ポケットをごそごそ探って小さな箱を取り出した。
「これ、良かったらどうぞ」
差し出された手の上には、昔懐かしいキャラメルの包みが一粒。
「キャラメルか」
「はい。課長、今日ずいぶんお疲れの様子でしたので。あ、ひょっとして甘い物苦手でした?」
「いや、貰おう。―――済まんな」
受け取って口に放り込むと、ふんわりとした柔らかい甘さが広がる。何だかホッとして、怠い気分も和らいだ。
「何かホッとするんですよね。劇的に疲労回復する訳じゃないですけど、もうちょっと頑張れそうって位の元気は出ると言うか……」
「確かに」
「だからよく持ち歩いてるんです」
そう言って彼女が伸びをしながら俺に笑い掛けたその時―――
グキッ!!
鈍い音と共に、彼女が一瞬俺の視界から消えた。
「痛ッ! たたた……!! ―――聞こえちゃいましたよね、今の」
「……バッチリな」
「はは……今日ずっとデスクワークだったもので、凝り固まっちゃってて」
うずくまって腰を擦っている彼女は、バツが悪そうに力なく笑う。
「ったく、情けねぇな」
まだ若ェのに、と呆れつつも自然と笑みが浮かぶ。
その時不思議とまた、怠さが少し軽減されるような気がした。
「……ホレ」
「はい?」
差し延べた手に彼女は眼を見張り、間抜けた声を上げる。
「立てるか」
「あ……有難うございます」
「立てるなら、ぎっくり腰じゃないようだな」
「はい。大丈夫そうです」
ポカンとしたまま俺の手に掴まり立ち上がると、彼女はじっと俺を見ていた。
(う……まさか手貸した位でセクハラとか言うつもりじゃあるまい?)
内心の動揺を抑え、さり気なく尋ねる。
「何だ、さっきから」
「いえ! 何でもないです。ただ、優しくされるのって慣れてないので」
この程度で「優しく」されたと言われるとは想像していなかった。
そう言うと、慌てて彼女が弁明する。
「だって皆、私の事普段女扱いしないじゃないですか。あ、勿論それで良いんですけど、その……」
弁明する内に、彼女の顔がみるみる紅潮していく。
いつも朗らかだが、基本的に冷静且つサバサバしている彼女のそんな動揺する姿など、滅多に見られるものじゃない。
「なっ、何がおかしいんですか!?」
我知らず笑っていた様で、彼女はムッとした表情で俺を睨む。
顔を真っ赤にして睨んで来たところで、怖くも何ともないのだが。
「ん? ……何、珍しいモン見たと思ってな」
(―――可愛い、と思ったのは黙っとくか。それこそセクハラだ)
最近は特に繁忙期で社内が若干ピリついていて、人前でこんな風に笑う事などほとんどなかった気がする。
だが、今こうして休憩時間を彼女と過ごすこの空気は、少し気恥ずかしいが……悪くない。
そう思ってしまった自分に戸惑い、俺は街の明かりを眺める振りで表情を隠した。
【星空】
薄暗くなった公園に2人きり。
「あ……あれ、一番星じゃない? 確か『宵の明星』って言うんだよね」
何度目かのキスの後、彼女は照れ臭くなったのか急に空を見上げ脈絡のない話を始めた。つられて見上げてみると、日が沈んだばかりの西の空に、やけに明るい星がひとつ輝いている。
「宵の明星?」
「うん。昔、プラネタリウムで観て……日没後に出る金星を、そう呼ぶんだって」
穏やかな眼差しと口調で、彼女は僕の疑問に答えた。
思えば、星なんて見上げたのは久し振りだ。
彼女に出会うまで、普段僕の眼に映るものといったらアスファルトにブロック塀、殺風景な職場に、ほぼ寝る為だけのワンルームマンション……果てしなくモノトーンの世界だったから。
「星だの花だのそういう細かい所によく気付くよね」
「そうかな? 特別意識している訳じゃないけど」
時々思っていた。同じ場所、同じものを見ていながら、僕達は別世界の住人なのではないかと――
「僕そういうの、全然気付かない方だからさ」
彼女と居ると一つ一つは何気ない事だけれど、日々新しい発見がある。
例えば雨の匂いや空の青さ。優しい花の香り。緩やかな川の流れに鳥のさえずり。そんな、他の奴に言われたら『だから何?』で済ませてしまうような事。
それが彼女の眼に映る世界なのだと、理解は出来るけれど。
深く暗い地の底に沈む僕にはまだその世界は眩し過ぎて、綺麗過ぎて苦しい。
なのにこうして今彼女と共に在る事に、この上ない幸福を感じる心も……あの強く儚い金星の様な光となって、僕の中で確かに存在していた。
彼女との日常には、こんなにも光や色が溢れていて優しい事を、僕は知ってしまったから。
無かった頃になんて、もう戻れない。
(だから僕の側に居てよ、ずっと)
そうしたら僕達は同じものを見て、感じて―――いつかそんな風に世界を共有出来る日が来るかも知れない。
僕の世界も、優しいものに変わるだろうか?
それとも僕が彼女を汚してしまうのだろうか?
見上げた空に問い掛けてみても、星は静かに輝くだけだった。