【遠い日の記憶】
ふと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの恋人の姿が無かった。一人分のぬくもりが消えた寝床というのは、それだけで寒々しい。
携帯で時刻を確認すると、まだ午前四時。
ぼんやりした意識の中、彼女の姿を探した手は虚しく宙を舞い、枕の上に落ちた。
何度か彼女の名をモゴモゴ呼んでみるが、呼び掛けに答える声は無く闇に溶ける。
ゆっくりと泳がせた視線は、自然とキッチンへと行き着いた。
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高校時代の元彼の夢を見た。
正直二度と思い出したくない類のトラウマ、遥か遠い日の記憶。
夢の中の私はまだ元彼と上手くいっていた頃の、変わり栄えもしないごく普通の女子高生の日常を過ごしていた。別段刺激的な内容でもなかったし、まして本人に未練などないけれど、恋人と寝た夜に見るものとしては、充分に鬱陶しく、後味も悪かった。
そして目が覚めた時、視界に飛び込んできた彼の寝顔があまりにも無防備で……何とも言えぬ後ろめたさに、胸が軋んだ。
眼を閉じていると、いつもの冷めた眼差しが隠されて、彼の童顔が際立つ気がする。
彼のなだらかなカーブを描く頬が好き。鼻の形が好き。ちょっと半開きの薄い唇が好き。例えそれが、開かれた瞬間デリカシーのない毒を吐くのだとしても。
「好き」
そっと呟いて、その唇に自分のそれをほんの一瞬重ねた後、急に照れ臭くなって私はベッドから降りた。
もう眠れそうにないと思いヤカンに水を入れコンロにかけて、ガスの青い火を見つめた。
青い炎は、赤色のそれよりも高温なのだという。
熱さなんて全く感じさせないくせに、その内側は酷く激しい。まるで彼そのものだと思った。
そして私は……そんな激しさを秘めた彼が好きなのだ、とても。
初め、その気持ちをわざわざ彼に伝えるつもりは無かった。
それまでの『ちょっと親しく話をする職場の先輩後輩』という微妙で曖昧な関係でも充分満足していたし、変化など求めるより、現在の関係を保っていたい。
高校時代のトラウマもあって、恋愛には臆病になっていた。
だがそう願っていたのはこちらだけだったようで、出逢って半年後、私は彼に交際を申し込まれた。
その時は断った。
でも彼は、意外な程根気強く私に寄り添い、トラウマを払拭してくれたのだ。その後改めて交際を申し込まれ、私ももう断る理由はなかった。
「だーれだ?」
「ひっ……!」
突然背後から伸びた手に視界を遮られ、私は飛び上がる程驚いた。
慌てて振り返ると、不機嫌そうな顔をした恋人がこちらを見詰めている。
「もう、びっくりさせないで……」
「そりゃこっちの台詞だ、起きたら居ねえし。で、何してんだ? こんな明け方に」
「……嫌な夢見た。何か寝れないし、お茶でも淹れようかなって」
「ふーん」
抑揚の乏しい声音で呟きながら、彼はカチ、とコンロの火を消した。
「あ!」
「そんなのいいから、さっさと寝るぞ」
「でも」
「……寒いんだよ。寝れないなら俺の湯たんぽになれ」
ぐいと強く手を引かれ、無言のままベッドへ誘導する彼に、あっという間に中へ引きずり込まれた。
すっかり冷えてしまった身体を背中からぎゅっと抱きしめられて、思わず鼓動が速くなる。彼にもそれは伝わってしまったようで、ふっと笑う気配と吐息を耳元に感じた。
「何だ、今更恥ずかしいのかよ」
「ち、違う」
「……あまり心配させんな」
「?」
ちょっとベッドから離れたくらいで、一体何を心配したと言うのだろうか。肩越しに振り返り尋ねようとしたが、やめた。
彼が今どんな顔をしているのか、私をどんな眼で見ているのか、それを確かめるのが、何故か怖かった。
「……お休みなさい」
お休み、と短く返された後、うなじに穏やかな寝息。背後に温かな体温を感じて、私はほっと息を吐く。
そしてようやく訪れた眠りの波に身を任せながら、眼を閉じた。
―――きっともうあんな夢は、見ない。
7/17/2023, 11:34:05 AM