【星空】
薄暗くなった公園に2人きり。
「あ……あれ、一番星じゃない? 確か『宵の明星』って言うんだよね」
何度目かのキスの後、彼女は照れ臭くなったのか急に空を見上げ脈絡のない話を始めた。つられて見上げてみると、日が沈んだばかりの西の空に、やけに明るい星がひとつ輝いている。
「宵の明星?」
「うん。昔、プラネタリウムで観て……日没後に出る金星を、そう呼ぶんだって」
穏やかな眼差しと口調で、彼女は僕の疑問に答えた。
思えば、星なんて見上げたのは久し振りだ。
彼女に出会うまで、普段僕の眼に映るものといったらアスファルトにブロック塀、殺風景な職場に、ほぼ寝る為だけのワンルームマンション……果てしなくモノトーンの世界だったから。
「星だの花だのそういう細かい所によく気付くよね」
「そうかな? 特別意識している訳じゃないけど」
時々思っていた。同じ場所、同じものを見ていながら、僕達は別世界の住人なのではないかと――
「僕そういうの、全然気付かない方だからさ」
彼女と居ると一つ一つは何気ない事だけれど、日々新しい発見がある。
例えば雨の匂いや空の青さ。優しい花の香り。緩やかな川の流れに鳥のさえずり。そんな、他の奴に言われたら『だから何?』で済ませてしまうような事。
それが彼女の眼に映る世界なのだと、理解は出来るけれど。
深く暗い地の底に沈む僕にはまだその世界は眩し過ぎて、綺麗過ぎて苦しい。
なのにこうして今彼女と共に在る事に、この上ない幸福を感じる心も……あの強く儚い金星の様な光となって、僕の中で確かに存在していた。
彼女との日常には、こんなにも光や色が溢れていて優しい事を、僕は知ってしまったから。
無かった頃になんて、もう戻れない。
(だから僕の側に居てよ、ずっと)
そうしたら僕達は同じものを見て、感じて―――いつかそんな風に世界を共有出来る日が来るかも知れない。
僕の世界も、優しいものに変わるだろうか?
それとも僕が彼女を汚してしまうのだろうか?
見上げた空に問い掛けてみても、星は静かに輝くだけだった。
【夏】
「ゴメンなさい、遅くなって」
人混みに紛れて、聞き慣れた声がした。それでも僕は目聡く待ち合わせの相手を見付ける。
「ううん。僕もさっき着いたとこ」
「私、ここの七夕祭り来るの初めてだから、何だか嬉しくて」
待ち合わせの相手―――付き合い始めてまだ間もない恋人は顔を上げて、ふわりと笑った。藤色の地に菖蒲の花模様の浴衣に抹茶色の帯を締め、髪には同色のピン。優しい色合いが涼しげで、彼女の雰囲気にも合っている。
「僕も祭りなんて久し振りだし、浴衣姿のキミも可愛いし、テンション上がるよ」
「……有難う。折角だし、浴衣の方がお祭りらしい雰囲気出るかなって」
夏休みどころか盆休みもない職業柄、僕は二人で過ごす初めての夏だというのに彼女を何処にも連れて行ってあげられそうになかった。
休み前ではあるけれど、せめて何か夏らしい事を……と思っていた矢先、隣町で七夕祭りがある事を知り、奇しくも休みだった僕は彼女を誘ったのだ。
正直人混みは苦手だが、こんなに喜んでくれるなら、誘って良かったと胸を撫で下ろす。
「人出、多くなってきたね」
「この混雑だと、はぐれたらもう会えなくなりそうだなぁ」
スマホがあればどうとでもなるけど敢えてそう言って、彼女の手を握る。彼女も黙って従っていた。
暗がりでお互いの顔はよく見えない。熱くなってくる掌と、脈打つ心臓の音が耳にうるさくて、汗が噴出してくる。
少しして、彼女がそっとハンカチを差し出してきた。
「ずっと外で待たせちゃったから……暑いよね。何か飲む? ラムネ持ってる子が居たから、近くで売ってるのかも」
「あー、そうだね。ちょっと喉渇いたかな」
汗が繋いだ手のせいだとは微塵も思っていないのか、彼女は真面目な顔でそんな事を呟いた。
喉を潤して、食欲を満たした頃にはだいぶ自然に手を繋げるようになったかなと思う。時折手に力を入れると、彼女もそっと握り返してきた。
そんな事を何度か繰り返していたら、頬を染めた彼女が僕を見上げ幸せそうに微笑み掛けてくれるのが可愛い。
手から伝わる体温だけが、僕の意識の中心を占めていた。街に戻って二人きりになったりしたら、抑えが利かなくなりそうで、少し怖くなった。
そんな僕の心配をよそに、彼女はもう眼をキラキラさせて露店を見回している。特定の店を探しているようにも見えた僕は、彼女に尋ねてみた。
「さっきから何か探してる?」
「うん、やってみたいのがあるんだけど……出てないのかな。――あ、あった! 私、あれやりたかったの」
彼女が小走りで駆けて行った先を見ると、それは意外な出店だった。
「え、射的!?」
穏やかな彼女と射的が結び付かない。
しばらく呆然と見守っていたけれど、彼女の弾は景品にかすりもしない。いくら初めてとは言え――絶望的に下手クソだ。
「ぷ……っ!」
抑えたつもりだったが、少しだけ僕は笑ってしまった。しかし彼女はその表情を見逃さなかった。
「笑う事ないじゃん、初めてなんだからさ……」
拗ねた様に、僕を睨む。
「だって、いくらなんでも下手過ぎ。……ホラ、貸してごらん」
多分、次で弾は最後のはずだ。
「え?」
「一発で仕留めてあげる。何が良い? こういうのはさ、始めから狙いを定めた方が――」
「え、私……始めからずっとドロップ缶狙ってたんだけど」
「そうなの!? 手当たり次第に撃ってたのかと思ったよ。当たればラッキー、みたいなさ」
「うぅ……」
「オッケー、一番上のドロップ缶ね」
(これでも僕、射的はガチで得意だったしチョロいチョロい!)
「あっ、本当に当たった! 有難う!!」
「どう致しまして」
僕としてもちょっと良い所見せられたし、子供の様にはしゃぐ彼女の姿を見ると、素直に連れて来て良かったと思う。
一通り露店を回り終え、僕は彼女を促した。
「そろそろ戻り始めた方が良いね。下りの電車も混んでくるだろうし」
「うん」
駅に着いてからも彼女をアパートまで送る道中、手は繋いだままだった。少しして、不意に彼女が僕に呟いた。
「あのさ、腕……組んでも良い?」
「ん、良いよ」
すると彼女は甘えるように腕を組んできた。瞬間、感じた柔らかい感触……完全に胸が当たっている。
偶然? わざと? そんな考えが頭の中を駆け巡る。けれど彼女は僕の知る限り、恋愛事における計算とか駆け引きとか、そういう事が出来るタイプじゃない。やはり偶々だろう。
(最後の最後にこの接触って……我慢出来なくなりそう、もう)
無自覚で、隙だらけな彼女に、僕はこれまで何度手を出そうとしたか知れない。
けれど、どう考えてもそういった事に免疫の無い彼女に、欲望に任せて勢いのまま触れ合ってはいけないと我慢してきたつもりだ。
とは言え、具体的な欲求がないかと言えば嘘になる。
しかし焦らず、自然の流れでそうなるように安易に手出しはしない、傷付けたりしない。
腕に当たる柔らかい感触が気になりつつも、僕は頭の中で繰り返し自分に言い聞かせた。
「ハイ、無事到着~」
何とか持ち堪えてアパートに着くと、嬉しそうに彼女から礼を言われた。
「今日は一緒にお祭り行けて楽しかった! 誘ってくれて有難うね。あと……これも」
そう言って、ふふふと笑うと、彼女は僕が射的で取ったドロップ缶をカラカラと軽く振る。
「はは、どう致しまして」
この雰囲気のままなら、じゃあまたねとスマートに帰れると思ったのに、彼女は僕に更なる一撃を仕掛けてくるのだから酷い。
引き止める様に僕のシャツの裾をくいくいと引っ張ったかと思うと、彼女は爽やかに誘ってきた。
「部屋でちょっと飲んでいく? ビール冷えてるし……」
「え? でも」
「帰りの電車も座れなかったし、少し休んでいって」
「そ、そう? じゃあ折角だし」
(ああ……何て意志弱いんだ、僕は)
ずっと我慢してたのに。結局彼女には適わない。
部屋に上がり込んで酒まで入ったら、僕のなけなしの理性なんて簡単に吹き飛んでしまうんだよ。
まさか、判ってて挑発してないよね……?
「すぐ枝豆茹でるねー」
そう言って先に階段をカツカツと上がる彼女の後ろ姿を見詰めながら、僕は小さく溜め息を吐く。
(多分、全然休まないと思うよ……)
【日常】
私と彼の共通の休日である土曜日。
背を向けソファに寝転がっている恋人に声を掛けるが、返事はない。
もう一度同じように呼び、ぴくりとも反応しない彼の傍らに膝をつく。
そこでようやく面倒臭そうに彼は振り返り、私に視線を向けたが、またすぐに眼を逸らした。
「起きてるんなら、返事くらいしてよね」
私が言うと、彼は不機嫌そうに眉をひそめて溜め息混じりに口を開く。
「……今返事するとこだったのに」
「ふぅん、そう?」
「そうだよ。二度も三度も呼ばなくたって部屋には僕達だけなんだし、休みの日くらいのんびりさせてくれたっていいじゃない。別に大した用でもないんでしょ」
折角の休みが雨で虫の居所が悪いのか、やけに意地の悪い言い方だ。
「確かに大した用じゃないけど」
「ほら」
「ならコーヒーもお菓子も要らないか。お茶にしようって言いに来たんだけど、お邪魔してゴメンなさーい」
「えっ!? いやいや僕、そんな事言ってないじゃん!」
お茶が入ったと聞いた途端、ゲンキンな恋人は飛び起きた。
だが意地悪の仕返しとばかりに、私も意地悪く答える。
「別に構わないよ、要らないなら私がキミの分も頂くだけだし?」
「わ、悪かったよ……ゴメン!」
どれ程私に強く出たところで、言い返されればこうしてすぐに彼は降参してしまうから、2人は今まで喧嘩らしい喧嘩を一度もした事がなかった。
そもそも喧嘩にならないのだ。
(そりゃ私だって、わざわざ喧嘩したい訳じゃないけど)
こんな下らない些細な事でさえ今一つ互いにぶつかり合えない、踏み込めない。未だ微妙な距離感を持て余している自分達がもどかしい。
多分、彼には自分に言えない何かがあるのだろう。そう私は踏んでいる。
こうした何気ない日常のやり取りの中でそれを思い知らされて、寂しく感じてしまう事もあるけれど―――少なくとも私はそういう彼も含めて受け入れ、彼を愛し、側に居る。そしていつか、彼が話してくれるだろうと信じている。
だから今は、彼とのぬるま湯のような日常を存分に楽しもうと思う。
「ねぇってば~」
彼は頭を掻きながら、弱り切った情けない表情で私の顔を覗き込む。
「ご心配なく。要らないものを無理に勧めるなんて意地悪しないから、私」
そう畳み掛けながらクスクスと笑う私に、彼は拗ねた子供のように唇を尖らせている。
「悪かったって……」
(……さて、そろそろ意地悪も終わりにしないとね)
「だったらテーブルに広げっ放しの新聞やら、置きっぱの腕時計や煙草片しておく事!今、美味しいカステラとコーヒー持って来るからさ」
【未来】
選んだのは、私。
多分、貴方は私じゃなくても良かったの。
淋しさ、或いは己の欠落を埋める事の出来る人間ならば、誰でも。
そして私もまた、何かが欠落していて。
私達はたまたま互いのそれを補い合える、たったそれだけの不安定な関係。
利用されているのだと判ってる、きっと最後の最後に貴方は私を切り捨てる。
でも私はもう手離す事が出来ないの、哀れな執着に成り下がっても。
ただ少しでも長く貴方の側に居る事を、貴方と共に破滅する未来を――
選んだのは、私。
【好きな本】
高校へ入学してから、いつも何となく眼を止めてしまう男子生徒が居る。
けれど1年間は、その人と話をする機会もなく過ぎていった。
今思えば、気になる割にはそれ程熱心に名前やクラスを調べてみようともしていなかった気がする。名前もクラスも知らない人……上履きの色で1級上だという事だけは後で知った。
全学年に名の知れているような、例えば生徒会役員であるとか、部活動などで良い成績を残しているような、目立つタイプの人ではない。1年経っても名前を知らなかった事から考えても明らかだ。
そして有名か否かという意味において、所謂イケメンでもない。
なのに……何故か私は大勢の生徒の中からすぐに彼を探しあてる事が出来た。
移動教室で、数人のクラスメイトと何処となくダルそうに廊下を歩く姿や、単語帳片手に下校する姿。
私の事など眼に入ってもいない様子に、安堵のような少し寂しいような、不思議な感情が私の中で渦巻いていた。
ただ擦れ違うだけの私と先輩が、初めて言葉を交わしたのは図書室。
2年生に進級した私は、図書委員になった。正直な所押し付けられた形なのだが、特に部活動に所属していないのもあって、それなりに委員の仕事をこなしている。
その日も貸し出し当番で私は図書室に居たが、たまたま自分1人しか居なかった。
返却された本を棚へ戻す作業を始めると、しばらくしてカウンターの方から声がした気がして私は手を止め耳を澄ます。
「図書委員ー! ……チッ、誰も居ねぇのかよ」
溜め息混じりの、かなり不機嫌そうな声が響いた。
「あっ、ハイ! 今行きます」
いつの間に人が来ていたのだろう。慌てて戻ってみると――
「お待たせしまし……た」
左手に4冊本を抱えた男子生徒を見た瞬間、私は身動きを取る事が出来なかった。
あの先輩だ。
固まっていた私を訝し気に見詰めた先輩は、微かに眉を寄せる。
「何だよ? 俺急いでんだけど」
「あ、いえ! ……カードへ記入をお願いします。袋は使いますか?」
「要らない」
記入しながら、先輩はこちらに眼も向けずに答える。
待つ間、私は一番上に乗っていた深緑色の革表紙の本を見ていた。タイトルは――
(あ、この本……)
「返却は、来週の木曜日です」
「何で? 今日水曜だろ」
「来週は祝日なので」
「あー、そうだったか」
どうも。
そう言って、先輩は図書室を後にした。
ただ、それだけの会話だった。そして私はその時初めて、貸し出しカードで先輩の名前を知った。
先輩が去った後、私は再び返却本を棚へ戻す作業を開始する。
そしてついでに先輩が借りて行った本の著者の他作品も調べてみた。図書カードをチェックすると、やはり先輩は他の作品も全て読破している。
ほとんど無名の作家だけれど、実はずっと好きだった。
自分の好きな本を先輩も読んでいたという事実は、自分だけが知っている秘密のようで少し嬉しい気がした。
けれど何故、私はこんなにも先輩が気になるのだろう。
恋……いわゆる一目惚れの類だろうかと、何度か自分の心に問い掛けてみた事もあった。でも今まで私が経験してきた、例えば相手と言葉や視線を交わしただけで一喜一憂してしまう、あの特有の浮き足立つような気持ちを先輩に対して感じた事はなく、少なくとも私の知り得る恋愛感情――そのどれにも当て嵌まらない気がする。
だから自分でも良く判らない先輩へのこの感情を、今のところ私の中では恋と定義付けしていない。
(恋だと思えた方が取るべき行動が見える分、余程判り易くて気が楽なのに)
あれから8日経った。
私は自分の当番でない日も放課後の図書室を訪れては、先輩の姿を探した。
ここに居ればまた話せるかも知れない――そんな期待と焦燥を繰り返し、結局私はあの本を久々に読み返してしまった。
けれど何故か、以前に読んだ時よりも一語一語に心が騒めく。文章の中に先輩の気配さえ感じるような気がした。
その時、開けていた窓から急に強い風が吹き込んできた。机に広げたまま、半分以上手付かずだった課題のプリントが3枚、ドアの方まで飛ばされてしまった。
取りに行こうと立ち上がった私は、ドアの方に人の気配を感じて、視線を向ける。
――先輩。
「プリント、アンタの?」
先輩はゆっくりとしゃがんで、自分の方へ落ちてきたプリントを2枚、拾い上げる。私は残りの1枚を拾ってから、先輩に礼を言ってプリントを受け取った。
「有難うございます」
「別に。邪魔だっただけだ」
ふい、と視線を外しそう短く答えると、先輩は開いている窓を閉める為に私の座っていた席の方へ歩み寄る。そして机の上の本に気付いた。
「この表紙――ああ、やっぱり」
見掛ける度に不機嫌そうな表情ばかり、いざ会話をしてみれば何処となくぶっきらぼうで幼い印象。
そんな先輩が穏やかに口許だけの笑みを浮かべ、それでいてどこか虚ろで寂しげな眼差しで本の表紙を軽く撫でた。
それを見た途端、何故か酷く胸が痛くなった。
「……好きなんです」
「あ?」
思わず零れ出た私の言葉に驚いた先輩は、我に返ったように顔を上げた。
「好きなんです。その本」
どうしてそんな事を言ってしまったのか、私自身よく判らない。
案の定、先輩は眼を見開いてきょとんとしていた。
「……あー、本な。それは同感だけどよ。紛らわしい言い方するな」
「紛らわしい?」
「人との会話において、主語は大事だって話だ」
勘違いするとこだったじゃねぇか、と先輩はまた普段の不機嫌そうな表情に戻っている。
「あの、急に変な事言って済みません」
「別に変だとか思ってねえよ。謝られると逆に恥ずかしいだろうが」
では一体何と答えれば良かったのか。
(結構面倒臭い人……?)
先輩は、相手の話を1度は反論してみるタイプなのかも知れない。
良くも悪くも、想像していた先輩像とはずいぶん印象が違うなと、勝手にも思ってしまった。
「ところで、今チラッと見えたがそのプリント、問4の答え間違ってるぜ……アンタ、本なんて読んでる場合じゃねえな?」
ごもっとも過ぎる発言にこちらが顔を引きつらせると、先輩は指でコツコツと机の上の課題プリントを叩いて意地悪くニヤリと笑う。
「まあ、余計なお世話ってやつか」
「いえ。集中してなかったのは確かですから」
「……アンタ、『真面目過ぎ』って人から言われるだろ」
呆れと苛立ちの混在した、微妙な表情と口調。
私はどうもさっきから、先輩の予想する答えとは少しズレた反応を示すらしい。
「『冗談通じなそう』とか『下ネタ駄目そう』とは言われた事あります。きっと同じような意味合いじゃないでしょうか」
「なるほどな。で、どうなんだよ実際」
「は?」
「下ネタ関連、イケる訳?」
「別に平気です。でも自分から話を振る事はないです」
普通に、質問の内容だけを答えたつもりだった。だが先輩は私の解答に声を噛み殺し、肩を震わせながら笑い出した。
「確かに冗談通じねえな。何馬鹿正直に答えてんだ、流すとこだろ」
そう言ってひとしきり笑った後。
初めてその眼が私を捉え、見詰めた。
「アンタ、この間の図書委員だよな?」
先輩が私の顔を覚えていた事に、まず驚いた。そして今、何故か私に興味を抱いたのだ。
「はい」
「当番、水曜だったな? 気が向いたらまた来る。良い退屈凌ぎ見付けた」
流れからすると『良い退屈凌ぎ』とは、私の事なのだろう。
(そうか。不機嫌じゃなくて、あれは退屈の表情だったのか)
「先輩は……退屈なんですか?」
独り言のような私の呟きに、先輩は僅かに眉をひそめたけれど、すぐにまたあの意地悪な笑みを浮かべる。
「さあ、どうだろうな」
それ以上踏み込むな、そう言われたような気がした。
先輩と初めて話をしたあの日から約半年。
『気が向いたら』なんて言っていた先輩は、何だかんだほぼ毎週水曜日の放課後に図書室に来て、カウンター越しに私とぽつぽつ他愛ない話をしていく――そんな関係が続いていた。
かと言って、私と先輩の仲が進展する事もなかった。お互いそんな展開は望んでいなかったし、意識するには互いの事を知らな過ぎたのだ。
図書室以外では校内で会っても全く会話のない、先輩後輩のままだった。
そしてあっという間に秋は終わり冬が来て、受験が大詰めの先輩と会わない水曜日が続き春が来て――
先輩と話をするのは、今日で最後。
だけど先輩にとって水曜日の図書室は、元々『退屈凌ぎ』だ。自由登校に入った3年生が、わざわざ雑談をしに登校するなんて事はないだろう。
挨拶くらい出来れば、とは思うものの、来ないなら来ないでそれは仕方ない。
諦め半分で私は図書室のドアを開いた。
「――遅い。授業、とっくに終わってる時間だろうが」
「先輩!?」
不貞腐れた声音とは裏腹に、先輩は何処かか懐かしいものを見るように私を見詰めた。
「俺の退屈凌ぎに半年近くも付き合った物好きな奴に、ご褒美だ」
先輩はスクールバッグの中から、本を取り出した。見覚えのある、深緑色の革の表紙。
「持ってんだろうけど、まぁ記念みたいなモンだから取っとけ」
そう言って、私達がこうして話をする切っ掛けになったその本を、私に手渡した。
「有難うございます」
「もう会う事もないだろうしな」
「そうですか? 私、きっとまた何処かで会える気がします」
「へえ。もしそんな日が来たとしても、俺はアンタの事なんて忘れてるだろうな。……じゃあ」
「お元気で」
「アンタも」
私が図書室に来てから先輩が出て行くまで、時間にしてほんの2、3分だっただろう。
1人残された私は、先輩に貰った本に視線を落とし溜め息を吐く。
「呆気ないな」
(あれ……?)
本の表紙が滲む。
急激に胸の奥から膨れ上がってきた寂しさに突き動かされて……いつの間にか涙が頬を伝い落ちていた。