【好きな本】
高校へ入学してから、いつも何となく眼を止めてしまう男子生徒が居る。
けれど1年間は、その人と話をする機会もなく過ぎていった。
今思えば、気になる割にはそれ程熱心に名前やクラスを調べてみようともしていなかった気がする。名前もクラスも知らない人……上履きの色で1級上だという事だけは後で知った。
全学年に名の知れているような、例えば生徒会役員であるとか、部活動などで良い成績を残しているような、目立つタイプの人ではない。1年経っても名前を知らなかった事から考えても明らかだ。
そして有名か否かという意味において、所謂イケメンでもない。
なのに……何故か私は大勢の生徒の中からすぐに彼を探しあてる事が出来た。
移動教室で、数人のクラスメイトと何処となくダルそうに廊下を歩く姿や、単語帳片手に下校する姿。
私の事など眼に入ってもいない様子に、安堵のような少し寂しいような、不思議な感情が私の中で渦巻いていた。
ただ擦れ違うだけの私と先輩が、初めて言葉を交わしたのは図書室。
2年生に進級した私は、図書委員になった。正直な所押し付けられた形なのだが、特に部活動に所属していないのもあって、それなりに委員の仕事をこなしている。
その日も貸し出し当番で私は図書室に居たが、たまたま自分1人しか居なかった。
返却された本を棚へ戻す作業を始めると、しばらくしてカウンターの方から声がした気がして私は手を止め耳を澄ます。
「図書委員ー! ……チッ、誰も居ねぇのかよ」
溜め息混じりの、かなり不機嫌そうな声が響いた。
「あっ、ハイ! 今行きます」
いつの間に人が来ていたのだろう。慌てて戻ってみると――
「お待たせしまし……た」
左手に4冊本を抱えた男子生徒を見た瞬間、私は身動きを取る事が出来なかった。
あの先輩だ。
固まっていた私を訝し気に見詰めた先輩は、微かに眉を寄せる。
「何だよ? 俺急いでんだけど」
「あ、いえ! ……カードへ記入をお願いします。袋は使いますか?」
「要らない」
記入しながら、先輩はこちらに眼も向けずに答える。
待つ間、私は一番上に乗っていた深緑色の革表紙の本を見ていた。タイトルは――
(あ、この本……)
「返却は、来週の木曜日です」
「何で? 今日水曜だろ」
「来週は祝日なので」
「あー、そうだったか」
どうも。
そう言って、先輩は図書室を後にした。
ただ、それだけの会話だった。そして私はその時初めて、貸し出しカードで先輩の名前を知った。
先輩が去った後、私は再び返却本を棚へ戻す作業を開始する。
そしてついでに先輩が借りて行った本の著者の他作品も調べてみた。図書カードをチェックすると、やはり先輩は他の作品も全て読破している。
ほとんど無名の作家だけれど、実はずっと好きだった。
自分の好きな本を先輩も読んでいたという事実は、自分だけが知っている秘密のようで少し嬉しい気がした。
けれど何故、私はこんなにも先輩が気になるのだろう。
恋……いわゆる一目惚れの類だろうかと、何度か自分の心に問い掛けてみた事もあった。でも今まで私が経験してきた、例えば相手と言葉や視線を交わしただけで一喜一憂してしまう、あの特有の浮き足立つような気持ちを先輩に対して感じた事はなく、少なくとも私の知り得る恋愛感情――そのどれにも当て嵌まらない気がする。
だから自分でも良く判らない先輩へのこの感情を、今のところ私の中では恋と定義付けしていない。
(恋だと思えた方が取るべき行動が見える分、余程判り易くて気が楽なのに)
あれから8日経った。
私は自分の当番でない日も放課後の図書室を訪れては、先輩の姿を探した。
ここに居ればまた話せるかも知れない――そんな期待と焦燥を繰り返し、結局私はあの本を久々に読み返してしまった。
けれど何故か、以前に読んだ時よりも一語一語に心が騒めく。文章の中に先輩の気配さえ感じるような気がした。
その時、開けていた窓から急に強い風が吹き込んできた。机に広げたまま、半分以上手付かずだった課題のプリントが3枚、ドアの方まで飛ばされてしまった。
取りに行こうと立ち上がった私は、ドアの方に人の気配を感じて、視線を向ける。
――先輩。
「プリント、アンタの?」
先輩はゆっくりとしゃがんで、自分の方へ落ちてきたプリントを2枚、拾い上げる。私は残りの1枚を拾ってから、先輩に礼を言ってプリントを受け取った。
「有難うございます」
「別に。邪魔だっただけだ」
ふい、と視線を外しそう短く答えると、先輩は開いている窓を閉める為に私の座っていた席の方へ歩み寄る。そして机の上の本に気付いた。
「この表紙――ああ、やっぱり」
見掛ける度に不機嫌そうな表情ばかり、いざ会話をしてみれば何処となくぶっきらぼうで幼い印象。
そんな先輩が穏やかに口許だけの笑みを浮かべ、それでいてどこか虚ろで寂しげな眼差しで本の表紙を軽く撫でた。
それを見た途端、何故か酷く胸が痛くなった。
「……好きなんです」
「あ?」
思わず零れ出た私の言葉に驚いた先輩は、我に返ったように顔を上げた。
「好きなんです。その本」
どうしてそんな事を言ってしまったのか、私自身よく判らない。
案の定、先輩は眼を見開いてきょとんとしていた。
「……あー、本な。それは同感だけどよ。紛らわしい言い方するな」
「紛らわしい?」
「人との会話において、主語は大事だって話だ」
勘違いするとこだったじゃねぇか、と先輩はまた普段の不機嫌そうな表情に戻っている。
「あの、急に変な事言って済みません」
「別に変だとか思ってねえよ。謝られると逆に恥ずかしいだろうが」
では一体何と答えれば良かったのか。
(結構面倒臭い人……?)
先輩は、相手の話を1度は反論してみるタイプなのかも知れない。
良くも悪くも、想像していた先輩像とはずいぶん印象が違うなと、勝手にも思ってしまった。
「ところで、今チラッと見えたがそのプリント、問4の答え間違ってるぜ……アンタ、本なんて読んでる場合じゃねえな?」
ごもっとも過ぎる発言にこちらが顔を引きつらせると、先輩は指でコツコツと机の上の課題プリントを叩いて意地悪くニヤリと笑う。
「まあ、余計なお世話ってやつか」
「いえ。集中してなかったのは確かですから」
「……アンタ、『真面目過ぎ』って人から言われるだろ」
呆れと苛立ちの混在した、微妙な表情と口調。
私はどうもさっきから、先輩の予想する答えとは少しズレた反応を示すらしい。
「『冗談通じなそう』とか『下ネタ駄目そう』とは言われた事あります。きっと同じような意味合いじゃないでしょうか」
「なるほどな。で、どうなんだよ実際」
「は?」
「下ネタ関連、イケる訳?」
「別に平気です。でも自分から話を振る事はないです」
普通に、質問の内容だけを答えたつもりだった。だが先輩は私の解答に声を噛み殺し、肩を震わせながら笑い出した。
「確かに冗談通じねえな。何馬鹿正直に答えてんだ、流すとこだろ」
そう言ってひとしきり笑った後。
初めてその眼が私を捉え、見詰めた。
「アンタ、この間の図書委員だよな?」
先輩が私の顔を覚えていた事に、まず驚いた。そして今、何故か私に興味を抱いたのだ。
「はい」
「当番、水曜だったな? 気が向いたらまた来る。良い退屈凌ぎ見付けた」
流れからすると『良い退屈凌ぎ』とは、私の事なのだろう。
(そうか。不機嫌じゃなくて、あれは退屈の表情だったのか)
「先輩は……退屈なんですか?」
独り言のような私の呟きに、先輩は僅かに眉をひそめたけれど、すぐにまたあの意地悪な笑みを浮かべる。
「さあ、どうだろうな」
それ以上踏み込むな、そう言われたような気がした。
先輩と初めて話をしたあの日から約半年。
『気が向いたら』なんて言っていた先輩は、何だかんだほぼ毎週水曜日の放課後に図書室に来て、カウンター越しに私とぽつぽつ他愛ない話をしていく――そんな関係が続いていた。
かと言って、私と先輩の仲が進展する事もなかった。お互いそんな展開は望んでいなかったし、意識するには互いの事を知らな過ぎたのだ。
図書室以外では校内で会っても全く会話のない、先輩後輩のままだった。
そしてあっという間に秋は終わり冬が来て、受験が大詰めの先輩と会わない水曜日が続き春が来て――
先輩と話をするのは、今日で最後。
だけど先輩にとって水曜日の図書室は、元々『退屈凌ぎ』だ。自由登校に入った3年生が、わざわざ雑談をしに登校するなんて事はないだろう。
挨拶くらい出来れば、とは思うものの、来ないなら来ないでそれは仕方ない。
諦め半分で私は図書室のドアを開いた。
「――遅い。授業、とっくに終わってる時間だろうが」
「先輩!?」
不貞腐れた声音とは裏腹に、先輩は何処かか懐かしいものを見るように私を見詰めた。
「俺の退屈凌ぎに半年近くも付き合った物好きな奴に、ご褒美だ」
先輩はスクールバッグの中から、本を取り出した。見覚えのある、深緑色の革の表紙。
「持ってんだろうけど、まぁ記念みたいなモンだから取っとけ」
そう言って、私達がこうして話をする切っ掛けになったその本を、私に手渡した。
「有難うございます」
「もう会う事もないだろうしな」
「そうですか? 私、きっとまた何処かで会える気がします」
「へえ。もしそんな日が来たとしても、俺はアンタの事なんて忘れてるだろうな。……じゃあ」
「お元気で」
「アンタも」
私が図書室に来てから先輩が出て行くまで、時間にしてほんの2、3分だっただろう。
1人残された私は、先輩に貰った本に視線を落とし溜め息を吐く。
「呆気ないな」
(あれ……?)
本の表紙が滲む。
急激に胸の奥から膨れ上がってきた寂しさに突き動かされて……いつの間にか涙が頬を伝い落ちていた。
6/15/2023, 12:32:21 PM