紅茶の香り (10.28)
「ダサっ」
持っていたケーキの箱を危うく落としそうになる。
「え、チーズケーキには牛乳だろ」
「どこの英国紳士が乳製品に乳製品合わせんのよ」
「いや僕ら日本人だし」
絶対紅茶でしょぉ、と大げさにため息をつきながら、ちょっぴりくすぐったくなる。清涼剤と砂っぽい彼の匂いにすんと目を細めた。
「で、いいのか?中三の夏に僕に付き合ってて」
「まぁ。教える方が力になっていいもん」
ふーん、と片付ける彼のノートは書き込みで真っ黒になっていて。早く追いついて、とジリジリする。
同じ高校にいきたい。でも私の成績が伸びたから、もう一つ上に行くべきだともわかっている。
「じゃあ、いただきます」
「召し上がれ。お店のだけど」
しょっぱい寂しさを飲み込むと、ねっとりしたチーズの香りがほんのり甘い牛乳と溶けていく。おいしい、牛乳すごい、とピョンピョンしていると
「紅茶とか、大人ぶってちゃダメってことよ」
ニヤリとされて、急に頭の芯がひんやり冷静になった。蘇るのは、あのやけに良い志望校判定。
「私たちは、いつまでも牛乳を選んでられないんだよ」
どーいうことだよ、と呆れたように笑う彼を泣きそうに見つめた私は、ざらりと渋い紅茶の香りを思い出した。
愛言葉 (10.27)
俺は今、人生で最も幸せにして最高に焦っていた。
「新婦さんのことをよく知ってる貴方なら答えられるそうですよ!」
『彼女と俺の思い出の場所』
どうもそれを言うと扉があき、お色直しした新婦が出てくる設定らしい。サプライズが好きな彼女らしい演出だ。だが新郎が答えられない可能性を是非とも考慮して欲しかった。切実に。
「そんなんで新婚生活大丈夫かー?」
「ありすぎて困ってんだよ!」
真っ白な頭で叫ぶ。落ち着けよ、と笑う友人の声に彼女の声が重なる。
——落ち着いて拾うだけよ。カギはそこらじゅうに落ちてるんだから。
リアル脱出ゲームに連れられ、ミステリファンの彼女がほぼすべて解決したあの時。格好つかなかった俺にそうやってニヒルな笑みを浮かべたのだ。
考えろ。今日のアイツを思い出すんだ。
初めは挨拶…目立ちたがり屋の彼女はマイクも使わず情趣たっぷりに演説。そういえば食事のとき、縁起でもなく「銃で撃たれる夢を見た」と言っていた。この後着るドレスも急に山吹色に変更していた。
……そうか。
俺はあの時の彼女のようにニヒルな、いや、ドヤ顔で声を張り上げた。
「俺らが初めて喋った時。学祭のごんぎつねの舞台だ!」
「正解!!」
ガバリと後ろから飛びつかれた俺は、驚きと安堵で笑いが止まらなかった。
友達 (10.26)
モブAとの距離約5センチ。
吹きこぼれるイライラのままにLINEを開く。
『最近ちょっとAと距離近すぎじゃない?』
送ってから数秒、すんと鼻の奥から背筋が冷たくなる。言いすぎた。慌てて送信削除を試みて、既読の2文字に固まった。
『別にいいじゃん、好きなんだもん』
それが良くないのに。
きゅうと縮まる心を抱えて、続いて送られた言葉に唇を噛み締める。
『応援してよ。友達でしょ?』
ちがう。貴女はそうでも、私は。
その時は訪れる。
『Aくんと付き合うことになった‼︎』
飛び跳ねるスタンプを睨んで滲んだ視界を恨む。おめでとう、と返してから数刻。血の気のない指先を必死に動して送信する。
『私たち、友達だよね?』
私は女だから。決定的な言葉で、この気持ちをはぎ取ってもらえるように。
『違うよ』
息が止まる。
いやだ、あいたい、すてないで。
吐きそうなほど突き上げる感情に声にならない悲鳴をあげる。
『親友でしょ?』
そう、彼女がはにかんだのが見えて。堪えきれず嗚咽した私はスマホを捨てた。
『ずっと大好きだよ!』
行かないで (10.25)
ダンッ
興奮した先生の足音に飛び起きる。足利義…わからない。眠気に負けた赤い字が見事に踊っている。修正テープをカチリと開けて、またすぅと意識を持っていかれそうになったその時。
「えへへ、おやすみなさーい♪」
きゃらきゃらと高い声。ぶうんという羽音も相まって反射的に手ではたき落としたその先には、透明な翅をきらきらとさせた妖精がいた。
「な、何するのよ!眠りなさいっ」
オニは外、と言わんばかりに金色の粉を投げつけてくる。しかし空いた左手でしっかりガードしたので効果なし。
「眠ったら授業なんて一瞬よ!願いを叶えてあげてるんじゃないの。離してっ」
これは夢かな、と思いながらジタバタする小人をつまみ上げる。思いっきりあっかんべーをする姿はなかなか愉快だし、このまま見ていたいのだが。
「君さ、僕の専属にならない?」
「…はあ?」
「夜全然寝れないんだよ。昼夜逆転ってやつ。薬とか、親が心配して飲めないし」
そう言うと急に黙り込んで、じいっと目を見てくる。
「猫飼ってない?犯罪に興味は?まさかロリコンの趣味ないでしょうね?」
「…全部ないから」
「よし合格」
「そんで、わしは今まで元気に生きとるんじゃ」
今年で100になるじいちゃんの、最近の口ぐせである。
どこまでも続く青い空 (10.24)
「上手ですね」
テンプレの台詞にため息をつく。ひとつ深呼吸して
「彼女の『英雄』はどうですか?」
と尋ねた。先生の顔はちょっと困った風に歪んで、しかし嬉しそうに答えた。
「表現はいい。勇ましさが目に見えるようだ。だが鍵盤のタッチが粗い——-あぁ、君の機械的繊細さが欲しいですね」
機械的、ね。
ピアノも無理か、とさして悔しがるでもなく思う。
「上手」「すごい」「賢い」「天才」
聞き飽きたうすっぺらい感想。
理由は明白、自分はいつも成長しないから。何をするにもどんよりと厚い雲が心を押しつぶして、夢中になれる光を見つけられないから。
ありがとうございました、と一礼して出た教室の外には、いつもの少女がいた。
「タッチが粗いってさ」
「もちろん練習してきたよ!指先がちょっと裂けちゃったけど」
絆創膏だらけの指先を見て震えた。あぁ、狂ってる。
だが彼女の空はきっと、どこまでも青く希望で満ちているのだろう。
なんて羨ましい。なんて清々しい笑顔。
ふと、彼女に恋したら夢中になれるかな。と血迷った事を考えて嘲った。