遠い足音
物陰に隠れて息を潜めていた。
遠くの方でパタパタと響く足音と、見つけた!という弾む声。
まだこの物陰には気づいていないみたい。
私は膝を抱えて足音を待った。
隠れるのってドキドキする。
あの鬼の子は、もう何人も見つけたんだろう。
ここはきっとすぐには見つからない。
鬼の子は私をあちこち探すだろう、どこに行ったの?って。
やっと探し当てた鬼の子は、私を見つけて驚く
──そこにいたの?全然分からなかったよ。
それから満面の笑顔で言ってくれる、見つけたよ!って。
だけど足音は、なかなかこの物陰の方には近づいて来ない。
遠くの方で行き来するのが聞こえてくるばかり。
そのうち胸の中が心細さにひんやりとしてくる。
──見つけてくれるよね?
芽生えた不安はどんどん膨れ上がる。
やがてそれは、とてつもなく大きく育って私をいても立ってもいられなくする。
どうしよう……見つけてくれるよね?
あんなに弾んでいた胸は、冷たい風が吹き荒れてるみたい。
ようやく、ここにも足音が近づく音が聞こえて、私はホッとする。
ホントは物陰から飛び出して行きたかったけど、じっとこらえて声をかけられるのを待った。
見つかるまで隠れているのが、ルールだから。
早く、早く言ってほしい、見つけた!って。
だから私はわざと身体をずらして物音をたてた。
見つけてもらえるように膝から下をそっと物陰の外に出す。早く見つけて。ここだよ私は。
足音は私の前で止まった。
鬼の子の足元が見える。あの子の赤いスニーカー。
言って、見つけたって。
気づいてるよね、私がここにいるって。
お願い。言ってよ。見つけたよって。
私は祈るような気持ちだった。
目を固くとじてお願いお願いお願い……と鬼の子の声を待つ。待っている間って、何で永遠みたいな長い時間なんだろう。
どれくらい時間が経ったか分からない。
たまらなくなって私は物陰から出る。
そこには誰もいなかった。
もう誰の声も遠くの足音も聞こえない。
しん、と静まり返っている。
湧き上がった涙を、喉元でぐっと抑えつけて私はその場にうずくまった。
見つけてもらえなかった。
遊びは終わって、皆いなくなってしまった。
私が見つからないことに誰も気づきもしなかった。
私はここにいるよ、と大きな声で出ていくのは惨めな自分をさらに無様にするみたいで、どうしても出来なかった。
ただ悲しくて情けなくて私は膝を抱えたまま、動けずにいた。
あの鬼の子、本当は気づいてたはずだ。
私がここにいるのに気づいてたのに、何もなかったふりをした。
私を置き去りにしたんだ。
何で……あの子は私のこと嫌いだったの?
私はあの子に見つけて欲しくてたまらなかったのに。
私はそういう子供。
いっそ消えてしまえばいいのに。
誰にも見つけてもらえない子なんて。
探そうとも思われないどころか、存在を無視される子なんて。
いや……膝を抱えた私の頭に、もう一つ違う考えがよぎっていた。
恐ろしい考えだ。
そんなの信じたくない、それだけはいや。
私は最初から存在してない影のようなものだなんて、そんなの嘘だ。
ただ私は誰かが見つけてくれるのを待ってるだけ、この物陰で独り、息を殺して。
何十年も何百年も、果てしない時間が過ぎたけれど、私はここにいる。きっと永遠に待ち続ける。
遠くの足音に耳を澄ませる。その足音が近づくその時を、私はここで待っている。
秋の訪れ
訪れた秋の気配に、妻は早々に夏の気配を消していった。
ソファのクッションカバーを白とくすんだ水色のリネン生地から、栗色や深みのある赤のフランネル生地に、ラグは波を思わせる幾何学から、紅葉のようなグラデーションのものに変えた。玄関のニッチや本棚の片隅には、秋をモチーフにした雑貨がいつの間にか飾られている。
妻に限らず女の人はそうだと思うけど、まだ気温が高くなるような日でも、すっかり秋のファッションだ。ジャケットを羽織り足元はサンダルやバックストラップのパンプスから足全体をしっかり覆うものになった。ネイルもリップも秋色ってやつに変わる。色づく前の木々よりも一足先に、華麗に秋を身にまとう。
確かに朝晩の空気はひんやりと心地良くなったし、夕暮れが早い。寝る時にはブランケットがもう一枚必要だし、エアコンだって、オフすることも多くなった。キッチンには昨日妻が買ってきた柿。
十月。暑い日もまだあるが、しかし確実に季節は進んでいる。
だが一つだけ、夏を残しているものがあった。我先にと秋仕様になった妻が片づけなかった夏。それは深く青い海を思わせるものだった。
夕食後、妻が柿を出してくれた。
切り分けられた柿は、群青色のガラスの平皿に丁寧に並べられていた。
一見ガラス皿と気づかないほど濃い群青色だ。皿のふちがうっすらと透明になっているのに気付けばガラスだとわかるくらいの濃い青。
澄み切っていながら深く濃い青は、夏の海を思わせる──これは妻のお気に入りの器だった。
「柿が出たらこのお皿で出そうと思ってさ」
妻が言った通りこの群青色は柿のオレンジ色を際立たせている。
「なんでも合うから便利なんだよね、このお皿」と満足げな妻。
昔、友人と沖縄旅行に行った時に一目見て気に入ってしまったのだそうだ。
明らかに夏の海を思わせるその皿は、妻が気に入ってるだけあって、よく使われていた。特に初物の果物を出す時はいつもこの皿だ。確かに群青色はフルーツの瑞々しさや、色鮮やかさを引き立てている。刺身とかも合いそうだ。
だけど僕は知ってるんだ。その、一緒に旅行に行った友人っていうのは元カレだっていうことを。
ここぞとばかりに登場する群青色の皿。お気に入りなのは、大事な思い出が詰まっているからだからだろう?
妻が、光の当たり具合ではきらりと光る器をそっと撫でる時、あの男と南国で過ごした夏の思い出に浸っているようで僕は複雑だった。きっと妻は、沖縄の美しい海辺を奴と手を繋いで歩いたに違いない。奴は繋いでいた手を妻の腰に回し妻は奴の胸板にそっと頬を寄せる。愛の囁きは波にかき消されて、いつしか二人のシルエットは一つになり……
「君は本当にこの皿を大事にしているんだな。まあ、そんな濃密な夏の思い出があれば無理もないか……」と思わず口から出た僕の呟きに、妻は怪訝な顔をした。それから妻は少しの間考えたのち、はっと思い当たったようだが、すぐに呆れた表情でため息をついた。
「濃い青色はいろんな料理に合うし便利だから使ってるだけだよ……ていうか、あなたのそういうところ本当にめんどくさい。勝手に色々妄想して、物語作っちゃってんでしょ。夏だったら確実にイラっときてるけど、まあいいか秋だし。食べなよ柿」
ほら、と妻は柿を一つ楊枝に刺すと僕の口の前へと差し出した。
夏だったらイラっとさせてしまうような僕の面倒くさい性格、嫉妬のあまり妄想を広げてしまう悪癖は、何故か許されたらしい。秋の訪れは妻の心をも平穏にしてくれるのだろうか。ありがとう秋。柿も美味い。
この時以来、柿は秋らしさを感じるような黒に近い深緑の渋いお皿に盛り付けられるようになった。群青色の皿をいつの間にか見かけなくなったことに気づいたのは、それからしばらく経ってからのことだ。
旅は続く
あの駅を出てからしばらく車窓の外に流れる美しい風景を眺めていたのに、真っ暗なトンネルに入ってから随分時間が経っている。長いトンネルで出口の光はまだ見えそうにもない。
窓を見てもそこに映るのは自分の顔だけ。窓に映った自分の顔は、よく知っているはずなのに、知らない顔のようにも思えた。こんな顔だったろうか僕は。あまり見たくなくて、仕方なく前の座席の背面を眺めていた。
……しかし、あまりにも長いトンネルだ。真っ暗な中にずっといると、移動してるのかどうかさえ分からなくなる。
本当はもうこの車輌は停車しているんじゃないか?
いったんそんな風に考えてしまえば、この心地よい揺れもガタゴトという車輌特有の音も、幻想のような気がしてくる。長い旅路のリズムが身体の奥でまだ鳴り続いているだけなんだろうか。もし本当に止まってしまったのだとしたら?
この旅はたどり着く先ではなく、移動そのものに意味がある。そう言ったのは駅で送り出してくれた人だったか。あの駅を出たのは随分前だから、何もかも朧気だった。
少し怖くもあったが、僕は意を決して席を立った。この車輌は本当に止まってしまったのか、長いトンネルの先に出口の光が見えるのか、僕自身の目で確かめるために……続く
モノクロ
無彩色の世界は美しいと思わないか?
光と影が際立ち、沈黙が支配している静謐な世界だ。
友人の言葉に、それはどこか死を思わせる世界だと思ったが僕は口には出さなかった。
友人がモノクロ世界に取り憑かれたのは、カメラを趣味にしてからだった。カメラを始めたばかりの頃は色鮮やかな写真も撮っていたが、最近ずっと彼はモノクロ写真ばかり撮っている。
確かに、モノクロは美しい。
白と黒で構成された美しさは、現実から切り離されたストイックな魅力がある。
沈黙さえ映し出しているような余白、静かな濃淡だけの世界。かと思えば強いコントラストに縁取られ、何気ないショットでも決定的な一瞬を切り取ったかのようにドラマティックにする。
つまり、まさにそれがモノクロ写真は解釈的ということなんだ、と友人は続けた。カラー写真が記述的であるのに対し、モノクロ写真は解釈的──これは写真家の間では知られた言葉らしい。
色彩が削ぎ落とされているからこそ、光や影、構図や質感から写真に何が映し出されているか読み取ろうとする。モノクロ世界に向き合うとき、人は知らず知らずのうちに深い思考と想像力の中に降りていくんだ、そう友人は言った。
なるほど、思考と想像力か。と僕は思わず呟いた。
それに、と友人は言った。色は意味を持ちすぎるんだよ。無彩色の方が安心する。
……だから君はモノクロばかり撮るのかい?現実は色に溢れている。
僕の問いに友人は、しばらく考え込んで何も答えなかった。
あの時の会話をよく覚えている。今日は君の個展だ。すごいじゃないか、おめでとう、君の初個展の開催を祝わせてくれ。友人として誇らしいよ。たくさんの人が集まって君の撮ったモノクロの世界に魅了されている。君もいたらよかったのに。
人々は一つ一つの写真の前を長い時間をかけて、ゆっくりと鑑賞するんだ。きっとそれぞれ内的感性を集中させているんだろう、モノクロ写真は解釈的ってやつかな。
後悔していることがある。
あの時君に伝えたらよかった。
君が白と黒の明暗だけで映し撮った世界に、僕も不思議な安らぎを覚える一人なのだと。あの静かな世界に浸っていたかった。
君は本当に色を欠いた世界に行ってしまった、たった一人で。無彩色の余白に、僕を漂わせたままで。
永遠なんて、ないけれど
永遠はあるんやで〜ボクの愛がそうや、誰か受け取ってや! 神様より