ふたり
「親密さが増すたび、息を殺してしまうから、ふたりでいることが怖い」
なんて孤独を気取っていたあなた。
今ではもう、放屁さえ隠さなくなったあなた♡
心の中の風景は
心の中の風景が魂のあり様を映し出すのものならば、彼の心の中に広がっているのはいつもモノクロの世界だった。
彼は幾多の美しい光景を目にしてきたし、心を震わす物語にも出会ってきた。平凡な彼には思いもつかない考え方で導いてくれる人にも会ったし、愛する人もいた。
だが愛する人とシーツを乱し合った夜でさえ、彼の中の風景が色づくことはなかった。彼が胸に留めておきたい風景は、波音さえも聞こえない夜の岸辺であり、霧に包まれた石畳の廃墟の街であり、動物たちが去った影のような森だった。全てが色彩を欠いたまま、ひたすらに静まり返っている。見捨てられ置き去りにされて、生命の活動が感じられない場所。そこでなら彼はようやくーー心からの安堵を得て眠りにつくことが出来る。
夏草
炎天下の中、虫取り網を持って空き地へと出かけた僕は、生い茂った夏草の中に何か蠢いているものを発見しました。
近づいてよく見てみると、それはツワモノでした。こんな暑さだというのに、黒光りした甲冑を着込んでいます。
逞しい体つきで、いかにも強そうなツワモノです。ツワモノは必死に夏草をかき分けて動いていました。何かを探しているようにも見えました。
僕は虫取り網でツワモノを捕まえて、家に連れて帰りました。
ちょうど夏休みで遊びに来ていた従兄弟が歴史好きだったので聞いてみました。
「これ、夏草の中で捕まえたツワモノ」
「おおーすごいじゃん!」と従兄弟は目を輝かせました。やっぱ甲冑はかっけえなあ……と。
従兄弟が一番好きなのは幕末のサカモトリョーマで、ツワモノはあまり得意分野じゃないらしいのですが、それでも調べてくれました。
従兄弟が言うには、夏草の中で動き回るツワモノは、自分のお墓を探しているらしいのです。
こうしたツワモノは夏の間だけに現れて、夏が終わる頃にはいなくなってしまうんだとか。まさに「夢の跡」というやつです。
僕はせめて、夏の間だけは一生懸命ツワモノのお世話をすることにしました。
小さな石を置いてお墓を作ってあげると、ツワモノはとても喜んでいるようでした。
先日、僕の育てていたツワモノが消えました。
消える前、ツワモノは僕に言いました。
「殿…!この墓標、生涯の恩義にござる。どうか、某がそなたを殿と呼び、忠義を尽くすことをお許しいただきたく候。某、この身が滅びるとも、魂となりて、殿の御身を必ずや最期まで守護せんことをお誓い申し上げる!」
それきりツワモノの姿は見えなくなりました。
でも僕は、あの日からなんとなく独りじゃないような気がしています。
空き地では夏草がまだまだ生い茂り、背丈を伸ばしています。
【夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉】
ここにある
そこにあるものに触れようとして彼女は、違和感を覚えた。
例えば学生の頃からずっと使い続けているマグカップ、買ってみたもののまるで使わない万年筆、旅先で買った革製の工芸品、ガラス製の爪やすり、目の前にあるもの全てよく見知ったものなのに、彼女は何かしら隔たりというものを感じた。触れることが出来ないのだ。
彼女は触れようとして手を伸ばす。しかし触れる直前、そこにあるものは淡い光の中に霧散して消えてしまった。彼女が手を遠ざけると、光の粒子を集めながらそれは再生する。ホログラムみたいだと彼女は思う。あるいは自分自身が薄い光の膜を纏っているみたいだとも。
光の中に消えて、再び現れるその現象は美しかった。しばし彼女は、触れられないと分かっていながら霧散する光を追い、漂わせて遊んだ。だが彼女はすぐに気づく──また別の隔たりがあることに。
それは時間だった。ほんの少し目を離している間に、そこにあったものたちは錆びて古びてしまう。
光の中で戯れているほんの数秒のうちに、数年は経ってしまったようだ。壁紙は剥がれ、窓の外の景色は一変した。
彼女と世界の間で隔たりが生じてしまった原因は明白だった。彼女が幽霊になったからだ。
そのことに彼女自身が気づいたのは、この部屋に新しい入居者がやってきた時だった。
長い間、事故物件として借り手がいなかったこの部屋をようやく契約できることになった不動産会社の担当者は、入居者に何度も確認していた。
──お客様、契約なさった場合、三ヶ月分の家賃は必ずお支払いいただくことになります。例えお客様が真夜中に何かを見たり何かを聞いたりしても……お返しできませんがよろしいですか?
新しい入居者は肩をすくめただけだった
──大丈夫っす。俺ってそういうホラーな現象全然気にしない人なんで。
若者らしく、クールに平然と笑っていた。
こうして彼は、かつて彼女が住んでいた部屋で暮らし始めた。みるみるうちに彼は年老いた。朝には黒かった彼の頭髪は、昼にはグレーが混じり始め、夜には白髪となった。刻まれた皺が一段と深くなり、動きさえままならない。彼がそうして老いていくのを彼女は見ていた。
彼女にとっては一週間の出来事。彼にとっては数十年の歳月。
光の中で遊ぶのは、彼が寝ている間だけにした。それが彼女なりの配慮だった。とはいえ彼にとって、彼女のことは、感じようが感じまいが、せいぜい「気のせい」だった。夜中に少し音がしたかもしれない、その程度。若い頃の宣言通り、彼は多少の現象など気にも留めなかった。
そう、彼女はもはや現象に過ぎなかった。幽霊ならば、この悲劇的状況を受け入れなければならない。
訪問介護をへて、彼は老人ホームへと転居していった。彼女にとっては一週間、彼にとっては数十年の同居だったが、互いに干渉したことは一度もない。
部屋にはいくつか、彼の所持品が残された。その中に一台の古びたノートパソコンがあった。この時すでに、外の社会ではあらゆる場面で量子コンピューターが実装されていたが、彼は最後まで古典的なノートパソコンを愛用していた。
彼が去り静まり返った部屋で、彼女はノートパソコンを起動しようと試みた。確かめたいことがあった。
だがもちろん、起動ボタンを押すことが出来ない、実体を伴わない彼女には。
触れることが出来ないと分かっていながら、彼女は何度も試みた。出来ることなら……いや、どうしても知りたかったのだ。
彼女がまだ実体を持っていた頃、彼女は一つの物語を書いてネットに投稿した。プロの作家ではないし完全なる趣味だったが、彼女にとって書くということは、ほとんど本質を曝け出すことだった。だからあの話は彼女自身、彼女の一部だった。例えどんなに時間が経とうとも。
投稿した時は、書いたことだけが彼女を満足させたはずだった。なのに今更になって、気になって仕方がない。あの話は誰かに届いただろうか。もう数十年も昔のことだ。ひょっとしたら百年ほどの年月が経って、投稿サイトごと消えているのかもしれない……でもどこかにアーカイブされていたら? 今もアクセス可能な状態で、誰かがあの話を見つけ出して共感めいたものを感じてくれていたら? そんな淡い期待を、捨てきれなかった。
今日も部屋の片隅で、薄くぼんやりとした光をまとわせて彼女は佇んでいる。
かつて自分が書いた小説の痕跡を探したいが、それも叶わない。ノートパソコンの画面は暗いままだ。
彼女はそうして、ここにあり続ける。どこの世界にも存在を知られぬまま、生きていた時と変わらない孤独の中で。
素足のままで
靴
「奥様……いけません。無茶です。素足のままだなんて。フットカバーをお履きくださいませ」
奥様
「平気よ。素足がいいの。だって、あなたの形と滑らかな革の感触を直接肌で感じたいもの。あなただってそうでしょ?……ほら、インソールがしっかり足裏を包んで……吸い付いてるみたい」
靴
「だ、だめです……だめですって。ご勘弁を! 旦那様が見てますから……あっそんなに奥まで突っ込まないでくださいっ……」
旦那
「……」
奥様
「うん……ぴったり。いい履き心地」
靴
「奥様っ……こんな事、いけません、ひ、ひもが解けちゃいます…奥様、どうか」
奥様
「ひもなんかもう、要らないわね」
靴
「あっ!? そんな急にひもを抜かないでください……だ、旦那様、ちがうんです、これはそのっ……」
旦那
「……」
奥様
「優しく履く方が好き?」
靴
「うぅ……奥様の足裏、柔らかすぎてもう……」
奥様
「本当にあなたの中ってぴったりフィットするね。今日も歩きやすいわ。しっかり包んでいてね。さあ、行きましょう」
旦那
「靴の野郎……覚えてろよー!」
靴
「旦那様ぁ、誤解ですぅ……奥様、どうか素足のままはもう、ご勘弁を」