いつか好きなことだけで稼ぐまで
流るくらいかわの向こう岸にかろうじて見える人影は何かを持っていた
暗さになにかはわからない
ただ寂しさだけがその空間を埋め尽くしていた
4:30
アラームの音で目が覚める
夢を見ていた
どんな夢だったのだか、思い出すために、また夢の中へ戻るために閉じたくなる目を痛くなるほどに擦り付ける
このまま眼球が取れてしまえば夢は見れなくなるのだろうか
何も関係はないのだろうか
しんとした部屋
私が動かなければ音のない部屋で
なるべく音を立てずに身支度をする
顔を洗い、歯を磨き、制服へと着替えて髪を結い上げる
4:55
あと10分
タバコを吸うのには十分すぎる猶予である
ジッポを回し、石が打たれ、火が灯るとそこにはオイルの匂いが充満した。
すぐに苦い匂いにかき消されてしまうその匂いを腹一杯に吸い込んでから、口元を近付けた
5:03
この八分間の記憶はない
ただ、燃えて短くなったタバコと、目覚めたときよりもコントラストのはっきりとしてきた室内が時間の経過を表すのだ
最後の一吸いは味わうこともなく、灰皿に押し付けた
5:04
鍵を手に取り、カバンを肩にかけ、つま先を靴にすべりこませた
5:05
分厚い金属の向こうには、まだ静まり返る冷たい世界が待っていた。カギをしめて、階段を降りる
耳にイヤホンを詰め込み、ちょうど駆け込んできたバスの中へと飛び降りた
夏、海、死
これらは合わさることで何にも代えがたい世界で最も美しいモノへと変化した
咲き誇る花
その音で、波の音はかき消されて
惨めなままで生きていきたいと願った
誰かのためになるならば
「はいこれ。保険証ね。無くさないように気をつけて」
3度目の転職先は大手製造会社の子会社で、主に販売を行っている店の販売員だった
1度目は高卒で入社した事務職
いわゆる社会の荒波にまだ18だった私は耐えることが出来ず、半年で退職
その後1年かけて資格を取り医療の仕事に携わり約4年勤めたが、3年目の時に上司が代わり、馬が合わずやけくそになって退職した
今年26になる私は未だに恋人はおらず、友人と呼べる相手も思いつくことはない。
高校の同級生とはほとんど連絡を取っていないし、SNSも随分前に辞めてしまったので必然的に関わりがなくなっていった
その日も8時間の労働を経てワンルームの部屋に滑り込む
渡された保険証を眺めながら、タバコに火をつける
どの保険証にも変わることなく書かれている私の名前、生年月日
住所、そしてウラ面の臓器提供の意思表示
タバコはまだ半分ほどもなくなっていない。火が消えないよう灰皿におき、ペン立てからサインペンを取り出した
1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。
3.私は、臓器を提供しません。
躊躇うことなく1に丸をつけた。
タバコの火はまだ燃えている。
〈1又は2を選んだ方で、提供したくない臓器があれば✕をつけてください〉
【心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球】
一口だけ煙を深く吸い込み、既にフィルター近くまで燃えていた火種を灰皿へとこすり付けた。
肺のみにバツをつける。
喫煙者の肺など、誰も求めてはいないだろう。
生年月日を書き、署名欄に名前を書き並べた
私はおそらく社会のなんの役にもたっていない。
税金は納めているし、仕事もしている
コンビニで買い物したお釣りの100円以下はいつも募金箱に入れているし、この間は具合の悪そうにしている人に声をかけてスポーツドリンクを買って渡した
だが、私はたまにこの世が滅べばいいと思うし、嫌いな人には消えてしまえとも思う
生きることに難しさを覚えるし、価値を見出せない
そんな人間でも、もし誰かのためになるならば、
社会の役に、誰かの役に立てるならば、
それが例え自分の死後だとしても。
そんなことを考えて、保険証を財布にしまいこむ
今日はもう休んでしまおう。
明日もまた働かなければならない
まだ生きねばならないのだ
いつか役に立てるその時まで。
私だけ
「ハッピーかい?」
久しぶりにあった君はそんなことを聞いてくる
急に何かと黙り込んでしまった私に笑いかけるその顔は何も変わっていない
「最近ワンピースにハマってて。知ってる?」
「見たことない」
「えー絶対見たほうがいいよ」
一緒に買い物をして、ご飯を食べて
数ヶ月分の会話をした君はさり際にもう一度
「ハッピーかい?」と笑って夜と混ざり込んでいった
君が死んだ
最後にあってから、それほど時間が経たない頃だった
律儀な君はちゃんと遺書を残していたらしい
きっと私にではなく、自分に問うていたのだろう
答えが出た君はここにいる理由をなくしてしまった
そんな世界で私は幸せに生きていくのだろう
君の言葉を思い出しながら
【私だけが幸せになれない世界に見切りをつけて】