愛と平和
3月11日水曜日
まず、私にとっての「愛」は、太陽。いつもあるけど、いたずらに見え隠れして、その原因は大抵自分にある。あまり注視していると、どこかが傷ついて、取り返しが付かなくなるんだ。そう思った。だけど君は、ここに生きていること、それこそが「愛」の存ずる証左だと、言い切った。考え方の系統が全然違う。
次に、私がいちご牛乳を飲む時、あなたはめっぽう濃い色をした麦茶を、好さそうに飲んでいた。借りて飲むと、それは信じられない渋さをしてる。舌のざらつきが、いちご牛乳じゃ治まらないほどだった。だから、味の好みはあまりに違う。
あと、借り物競争の練習で「長いもの」と聞いて身の長い君を選んだ私だけど、君は付き合いが長いからって私を運んだ。失格を喰らって、不服そうにしていたから、真面目にやってこうだったのかとやっと気付いた。言葉の受け取り方も結構違う。全然違うじゃんって声を掛けたら、しかめっ面が嘘みたいに口角が上がった。言動は似ない私達だけど、口角だけはいつも連動するんだった。平均身長に毛が生えた程度の私と、それより30cmは背の高い君、こうして並んで笑えている。
君はどうだろうかって言うけれど、これを平和と呼ぶんだ。
過ぎ去った日々
2026年3月10日火曜日
過去という奴は、時を考えずにあたしの足を引っ張ってくる。未来という奴は、感慨なくあたしを置き去りにしようとする。足を引かれるたび蹴り払い、去りゆく背中をその都度踏み越えるようにして、あたしは今を、生きている。けれど、そこに思うことは、どうしようもなくたくさんある。自己が責任を取れと蹴り払ったその手に、かえって怪我をさせてはいないか。自らが過去の自分を、救えない愚者として見てはいないか、それは何より悲しいことではなかったか。土足で撫ぜたその背のこと、よく目を凝らして見たことはあっただろうか。その衣服は本来、純白で、誰かが心から望んでいたものではあるまいか。
不完全で納得のいかない過去と、最善とは思えない未来と、考えたくもない現在という奴らが、日々を形にしているのだ。そいつらは、せかせか過ぎ去って行くから、気にしちゃいけない。今この一瞬を鷲掴んで、生きてゆけ、わたし。
お気に入り
(+誰よりも+10年後の私から届いた手紙)
2026年2月18日水曜日+
卵が割れてしまった。
私が落とした衝撃でその身を壊されながら、黄身を抱えたままでいる白い殻。それは、誰よりも子を守りたいと欲しているのに、その甲斐性を持たない母親を彷彿とさせる。実際そんな場面に出会うこともないと思うけれど、妙な生々しさがあるせいで、順を追って罪悪感が募ってくる。折角無事だった黄身だから、トースターを音高く開けて、焼き途中の食パンに無理やり載せた。いい色に焦げていたベーコンを、覆い隠される。
無様なトーストを胸元に携えて食卓を覗くと、早起き―私に比べたらそう―の居候は、新聞さながらに何か広げている。サイズはずっと小さくて、私の目には便箋に見えた。
「どなたかからのお手紙ですか。」
問い掛けながらお皿を置いたら、思ったよりは大きな音が鳴った。大丈夫、トーストの醜さには、まだ気づかれていない。ちょっと得意気に返された。
「今朝届いたんです。」
右手でお箸を支えたまま、厚揚げみたいな量感の封筒を左手に取り、宛名と差出人の字を交互に見せてくる。それで私は目に力を入れるのだけど、やはりうまく読み取れなくって再度尋ねた。
「誰からですか?」
一瞬不思議そうに口が開くけれど、すぐ、失念したという表情に移る。この素直さがあるから、この人は好ましくて、長くいればいいと、思っている。
「10年後の私から。」
それって、あまり面白味の分からない冗談だなと思った。どう反応するべきか、考えるのは億劫になったから黙って、椅子に座る。無色のコップ片手に牛乳パックに手を伸ばしたところで、便箋の束に、しおりが挟まれているのに目が留まった。
「冗談を聞き流した手前どうかと思ったのですが、それ、そのしおり。とても良いかんじですね。」
名も知らない薄紫のお花と、見知ったツユクサの押し花が共生しているそれは、昔持っていたお気に入りのしおりに、よく似ているように思われた。
「この栞も、10年後の私からの物でしてね……」
どこか懐かしそうにそれを手に取り、微笑を称えた口元から、漏れ出る声音は、真面目そのもの。もしかすると、つまらない冗談じゃなくって、至極興味深い真実なのだろうか。
こんな失敗した朝ご飯も、かのバーベナも、同列に素敵に思えてきた。そのうち家から居なくなるこの人も、私自身だって。大切にしたい、お気に入り。
場所をとっておきたいので、未完で失礼します。明日中には形になるよう努力します。
少しのこれまでと、長くなるこれから、わたしに向かって「もっと読みたい」と伝えてくださる方々に、心から感謝を申しあげます——19:12
バレンタイン
2月15日日曜日
恨めしい物事は、たくさんある。酢酸で赤く染められたリトマス試験紙の数と比べても、劣らないくらいには、たくさん。
例えば、思い出を覆い隠すように はびこった雑草。例えば、黄ばんだ本ばかりの古本屋。例えば、止まない痛みに、効かない薬。あとはそう、目が合ったなり不躾に「チョコは?」と聞く君の身勝手さ。そういう事象に直面すると、生きる心地が悪くなる。
それでも世界を憎めないのは、ドクダミをかいくぐって咲いたあのシロツメクサが、あまりに綺麗だったから。たった二百円の本を、たった三冊買った時、あの店主は、満面の笑みをしていたから。苦しそうな不調の友に、カイロを手渡すことは出来たから。むしろ世間が好きと思えたのは、リトマス試験紙を石灰水に浸しながら「顔色悪いよね、大丈夫か」と言う、君の存在があったから。
今日のためにチョコレートを作ることは叶わなかったけれど。リトマス試験紙は、液体に浸すものじゃないけれど。
心から、ハッピーバレンタイン。
待ってて
2月13日金曜日+
確証は無いけれど、無いなりに、声を掛けられたような気がした。それだから振り返ったのに、あるのは街灯、そればかり。綺麗な頭身に伸びてくれたこの影に、たまらず会釈したのは、自分だけ。立ち止まって、夜道を見回したって、人影は見留められない。
「なあ、随分みっともないな。」
降りかかった哀しさを取り払おうと、ありったけの感情を貼り付けた声を、吐き出す。近所迷惑であるから、声は張らない。他でもない己で出来た影に、独り言を浴びせる私である。その恩着せがましい倫理だけが、今の自分を好きでいられる理由に感じられた。
しかしどこにも響かない自虐は、虚しさを助長した。足を速めに動かして、不毛な感情を追いやろうと、試みる。それを馬鹿みたいだと影に呟いたら、視界が滲んでくるのが分かる。これはいけないから、腕を振りだし、柔らかく走り始めた。
どこぞのお宅の玄関先に、植木鉢が並んでいるのが目に入って、走るのをやめる。その斜向かいでパッと照明がつく。影の輪郭が余計に濃くなる。逃げたくなった。影を強く踏みにじって、全力をもって走り出す。足音が住宅街に響いて、煩い。
街灯の列は続くから、どんなに必死で走っても、伸びる影、縮む影、交代しながら、まだ追ってくる。力ずくでは敵わないと、そう分かったから、影を相手に交渉を始めた。
「一人になりたいから、ここで待っててくれないか。迎えに、来るから!」
一つ単語を発するたびに、段々息が切れて、声が震えるから、すぐ胸中で念ずるのに切り換えた。今この場に染み付いて、留まって、今日は帰ってこないで。心の内で、何度も、頼み込む。だが、聞き入れては貰えなかった。
いよいよ動悸が激しくなって、つまずくように立ち止まる。膝を曲げて、深く深く息を吐いた。冷えた大気を吸って喉を痛めるうちに、次第に潤んだ視界が、ついには壊れて、ふと、目が合う。
他の何でもない。自分自身の影と、目がかち合った。待っててって、確かに言ったのに。孤独の中では、泣かせてくれない。よく見れば醜い形だなと、喉の奥から笑いが剥げ落ちた。