今年も夏が来る。
淡い夏の匂い、それは私にとって失われたものの匂い。
ラジオ体操の参加賞が欲しいために早起きした時の匂い、近所の公園へセミを捕まえにいく時に嗅いだ夕立を感じさせる甘く重い匂い、あまり馴染むことができなかった部活のひなびた合宿場の窓を開けた時の埃の匂い、競争相手を蹴落とすために早起きして勉強していた時の鼻が通るような匂い…
それはまったく良かったわけでも、素晴らしかったわけでもないけど、それぞれが日常の匂いとして記憶に残っている。
今年の夏の匂いも思い出すことがあるのだろうか?何にもない夏が?こんなにも息が詰まるような苦しい夏が?
ああ、懐古ばかりしちゃ仕方ないな。
だけど、いつか思い出した時、今日私が過去の夏の香りを思い出した時のような気持ちになれるといいな。恥ずかしがったり、懐かしがったり、笑い飛ばせるようになってるといいな。
休日の午後、リビングで寝転がっていたら、カーテンが風でハタハタと揺れているのを見た。そして、風が私の腹の上に涼しく軽い足跡を残しながら駆ける。
それだけで十分だ。なんだかいい風景が見れた気がして、そのまま穏やかな気分で午睡に入る。なにも、思い悩むこともなくただ無心に、睡眠の世界へと自由落下していく。
ああ、幸せだ。
……と、平日の仕事中にオフィスの窓にかかる、いやに清潔なカーテンを眺めて休日の香りを思い出すことがある。
本当に嫌になっちゃう。
でも、その時なぜか遠い記憶を眺めるような懐かしい気がするものだ。
あなた誰?
ある退屈な午後。冷たい雨が降り注ぐ中、私は喫茶店でコーヒーを飲んでいた。そして、時間を潰そうと持ってきた本を読もうとしたが、いざその本を開くと眠気が襲ってきた。
こくり、こくり、と船を漕ぎながら、3,40分くらい経っただろうか。ふと起きて、生ぬるいコーヒーを啜っていたときに横から、
「やあやあ、どうも遅れてしまって申し訳ございません!
来る途中に実は犬に追いかけられてしまいまして。
ええ、ええ、ポメラニアンってやつでしょうか?
そう、もふもふのやつ。ああ、参ってしまったらありゃし
ない!あんな可愛い顔してながら、意外と噛む力が強いん
だ。
なんて躾がなってないんだ、って思ってね。せめてその飼
い主の顔を見てやろうって思って、視線をあげて見てみた
んですよ。そしたらあなた、びっくりいま話題の…」
眼鏡をつけた気弱そうな大きく太った知らない男が申し訳なさそうに俯きながら、わたしは何も答えていないのに、あたかもわたしが「どんな犬だったの?」、「ああ、ポメラニアンね」と返事しているかのように、高めの声でマシンガンのように話し続けてる。
なんだか、続きが気になる話じゃないか。だけど生憎人違いだ。このまま喋らせてしまうのも申し訳ないから、
「ごめんなさい!人違いですよ」
といった。すると、そのおっちょこちょいな男はギョッと見開いた目でわたしの目を直視し、大きな声で、
「ヒャアア!すみません!」
って言って顔を真っ赤に染めて去っていった。
果たして彼は約束の相手にわたしに話してくれた同じテンションで話をできただろうか?犬の飼い主は誰だったのだろうか?そもそも、こんな寒い雨の中あの大男を襲ったポメラニアンってどんな子だろうか?
なんだか、退屈が紛れた気がして、2-3ページほどしか読み進めなかった本にしおりをさして、席を立った。
際限のない青、吸い込むような青。
包みこむような青、落ちてきそうな青。
掴めない青、だけど確かにある青。
ただ、青く…遠く…
見ているだけで怖くなりそうな、だけど優しい青。
そんな青を鳥が、飛行機が、雲が割いていく。
そんな空に包まれたい。わたしもこの青に包まれながら青を割きたい。鳥たちのように…
そうだ今度空を見渡せる場所へ行こう
灰色のビルですっかり遠くなってしまった都会の空がガラスの反射してるのを見て思う。
夜の高速道路を走る。
道中はライトが定期的に配置されていて、リズムよく通り過ぎていく。
タン、タン、タンという揺れと同期して、隣でイビキをかきながら寝ている妻も闇に青く照らされながら揺れている。たまに追い越す車があるが、夜中の高速道路は静かだ。
カーオーディオで「美しき青きドナウ」を流す。まるで、亜光速の宇宙旅行、定期的に視界の中央から端へと吸い込まれていくライトが星の光、なんちゃって。
「あ、1km先にパーキングエリアだ。
あたし、トイレへ行きたくなっちゃった」
いつの間にか目を覚ました妻が言う。
「じゃあ、寄るか」
と言って、脇道へ逸れた。
夜中のパーキングエリアの駐車場には私たちの車しか止まっていない。妻がお手洗いへ行っている間、私は自販機でコーヒーを買った。
お金を入れて、ブラックコーヒーのボタンを押す。
自販機から陽気なルンバが流れる間、見上げると遠い静寂の中で本物の星が泡のように浮かんでいた。
旅の途中で、白い息を吐きながら飲む温かいコーヒーは格別だ。
「見上げて何してるの?」
妻が戻ってきた。
「コーヒー飲んでた」
二人でコーヒーを飲み回しながら星を眺めた。お互い星が綺麗だと素直に言えるガラじゃないって分かってたが、お互い思っていることは同じ、星が綺麗だ、ということが無言のうちに共有されていたはずだった。だけどわたしは静寂に誘われて思わず、
「星が綺麗だなって」
「何よ、告白?」
「そんなわけ!なんで今更!」
お互い笑いながら恥ずかしくなって、だけど満たされた気分で車に戻った。