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8/14/2025, 11:16:59 AM

【君が見た景色】

君は僕よりずっと小さかった
いつも僕を見上げていた
棚の上にある赤い箱も
本棚の最上段にある分厚い辞書も
僕にはすぐに確かめられるけれど
君からは見えなかっただろう

君には高くて届かないものがいっぱいあったし
僕に頼まないとできないこともあったが
僕はそんな君がかわいくて大好きだった

だけど僕には見えていないものがあった
君はいつも僕が
自分のことを見下してくるのが嫌だと言った
僕にそんなつもりはなかった
だけど
君からしてみれば
いつもしてやっているという態度を取られたり
高いところに手が届かないのを見て笑われたり
その繰り返しが苦痛だったらしい

納得できなかったが、君に言われるまま別れた
肩を落とし、膝を押さえて項垂れて
偶然にも君の背と同じくらいの高さになったことに気付き
ふと顔を上げる
棚の一番上、置いてあった赤い箱が見えた

8/13/2025, 10:38:38 AM

【言葉にならないもの】

私は昔、母に捨てられた
5歳のころのことだが、母の姿を朧げに覚えている
私の頭を撫でて優しい顔で笑い
そしてどこかへ行ってしまった
母の顔は覚えていないのに
私と別れるときに笑顔だったことは覚えていた

幼かった私は
母はいつものようにすぐ帰ってくると思っていた
近所に買い物に行ったときのように

このごろ母がよく私を一人にするなと
幼心に思っていた
はじめは寂しかったが
新しいおもちゃや楽しいテレビ番組が
私を自然と留守番に慣れさせた
母が私を置いて消えたのは
私がちょうど留守番を苦だと思わなくなったころのことだった

それから、仕事に打ち込んでいた父と私の二人での生活がはじまった
私の面倒を見る時間をできるだけ確保するため
父は好きだった仕事をやめて転職した
父と私はうまくいかない時期もあったが、今はそれを乗り越えて仲良く暮らしていた

そして、私は母が帰らないうちに成人を迎えた
母がいなくても、父や周りの大人のお陰でここまで生きてこられた
けれど、ある日
父が母と連絡が取れたと言ってきた
お前に会いたいと言っている、とも

正直に言えば、今さらなにを言っているんだと思った
父と私が辛かった時期も寂しかったときも
連絡も寄越さなければ会いにもこなかった

小学生のころ
授業参観にみんなのお母さんが来ていても
私のところには誰も来なかった
一度、父が仕事の合間を縫ってなんとか来てくれたこともあったが
走ってきたせいで息の荒い父の姿を見て、
クラスのみんなが馬鹿にしたように笑っていたときは悔しかった

そのあと、父が授業参観に来ることはなかった
父は、お前がまた恥ずかしい思いをすることになるだろ、と言って笑っていたが
私はただただ、悔しかった

うちにも「お母さん」がいればよかったのにと思った
そうすれば、父が嫌な思いをすることはなかった
クラスの子に「お前の家だけお父さんが来てる」なんて揶揄われることもなかっただろう

でも、母はなにも知らない
家のすべてを放棄して
「お母さん」であることも「妻」であることもやめて
勝手にいなくなった
そして父や私がこれまで
どんな思いをしてきたかも知らないのだ

それなのに、今さら
どんな面をして父や私の前に現れるのだろう
そう思ったけれど
父はすでに母と会う日を決めていた
そういえば父の方が母に惚れ込んで結婚したのだと聞いたことがあった
お前もお母さんに会うか? と聞かれて
私の中の寂しさと怒りを天秤にかけたら
ほんの少し、ほんの少しだけ
寂しさが勝ったから
会うことにした

15年ぶりに会った母は
そこらへんにいるおばさんだった
どこにでもいそうな
どんな町にでも溶け込みそうな
明日には顔さえ忘れていそうな
ありふれたおばさんだった
だけど確かに、私を捨てたあの人だった
それだけは分かってしまった
嬉しいのか、腹立たしいのか、悲しいのか、懐かしいのか
混乱しているのか、冷静なのか、興奮しているのか、歓喜しているのか
全部が胸の中でごちゃごちゃになって
言葉にならないものが込み上げてくる
なにかを言いたいのに
言ってやりたいのに
なにも言葉にならず
口を開けては閉じて
ただ呼吸をした

私は生きている
あなたはずっといなかったけれど
あなたの前で呼吸をしている
あなたにぶつける言葉を見つけられないまま
ただ息をしている
言葉にならない想いを抱えて
あなたを見つめている

8/12/2025, 10:47:01 AM

【真夏の記憶】

フラフラするほど日差しが強い日
俺は海に入り、友達と三人で水を掛け合っていた
はしゃいで騒いで笑っていたら
そのうち頭がクラっとして
やばい、と思った瞬間に水の中へ倒れていた
海の水を飲みながら踠いていたが
友達はふざけていると思ったようで
助けには来なかった

それからしばらくして
友達が俺を呼ぶ声が聞こえてきた
けれど俺は海の水と一体化したような感覚になり
声を出せず体も動かなかった

そのあとの記憶はない
今の俺は、海そのものになったのかもしれない
夏になると、俺の中には
家族連れや仲間同士で遊びに来た人が入ってくる
そして毎年、海には入らず砂浜までやってくる二人がいる
俺の友達だ
目を閉じ、静かに手を合わせて
思い出話を少ししてから帰っていく

二人と海で遊んだあの日は
本当に楽しかったな
苦しかったことは
不思議と全然覚えてないな
今日も真夏の記憶を懐かしく思い返す
白髪頭で腰の曲がった二人の背中を見送りながら
俺は穏やかな波を起こし
さよならを波音で奏でた

8/11/2025, 5:52:56 PM

【こぼれたアイスクリーム】

ベンチに二人
誰にも言えない悩みとか
密かな苦しみとか
ついつい話し込んじゃって
気づけば手の中のアイスクリームは
すっかり溶けていた
コーンからこぼれるそれは
甘く冷たく物悲しく
食べられるために作られたのに
食べられることなく芝生へと落ちていく
こぼれたアイスクリームが報われないように
僕がいくら悩みに耳を傾けても
苦しみを受け止めても
やっぱり君を救い出せない
君の笑顔を見たかったのは
僕もアイスクリームも同じだったのに
思い通りにはいかないみたいだ

8/10/2025, 11:45:46 AM

【やさしさなんて】

優しさは、自分にとって必要だけど、いつでも必要なものではないらしい。

優しさなんていくらあってもいいじゃないか、と思うだろう。

けれど私は、優しさからの言動を疎ましく思うことがあるのだ。

そんなことは言われなくても分かっている。
それは自分でやりたい。
やってほしいのではなく、教えてほしい。

私はそんな言葉を何度も何度も、数えきれないほど飲み込んでいた。
優しさ、つまりは善意からの言動だと分かっているからこそ、言えなかった。

でも、それらの優しさがあったからこそ助かったこともあるし、嬉しかったこともある。それゆえに、私に全てを跳ね除ける勇気がなかったのも事実だ。黙って受け入れていた部分だって確かにある。

だけど、それなら私は、どうすれば良かったのか。
自分のためにと言葉をくれたり行動してもらったりしたとき、冷たい言葉を突きつければ良かったんだろうか?

それはそれできっと、相手の気分を害したことで罪悪感に苛まれていただろう。
せっかく優しさを持って接しているのにと、悲しませたり怒らせたりしただろう。
そしてそのあと、私に優しさが向けられることはなかったかもしれない。

私はずるいのかもしれない。優しさの全てを受け入れたくはないが、完全に失いたくもないわけだ。
それでも私は、優しさという名のお節介や経験泥棒を許すことができなかった。

きっと、きっと。
あなたからのやさしさなんて、なくても生きていける。
いや、生きていかないといけないのだ。
あなたがずっといるとは限らないから。
だからどうか、私から
意思を、経験を、選択を、奪わないでくれ。

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