【言葉にならないもの】
私は昔、母に捨てられた
5歳のころのことだが、母の姿を朧げに覚えている
私の頭を撫でて優しい顔で笑い
そしてどこかへ行ってしまった
母の顔は覚えていないのに
私と別れるときに笑顔だったことは覚えていた
幼かった私は
母はいつものようにすぐ帰ってくると思っていた
近所に買い物に行ったときのように
このごろ母がよく私を一人にするなと
幼心に思っていた
はじめは寂しかったが
新しいおもちゃや楽しいテレビ番組が
私を自然と留守番に慣れさせた
母が私を置いて消えたのは
私がちょうど留守番を苦だと思わなくなったころのことだった
それから、仕事に打ち込んでいた父と私の二人での生活がはじまった
私の面倒を見る時間をできるだけ確保するため
父は好きだった仕事をやめて転職した
父と私はうまくいかない時期もあったが、今はそれを乗り越えて仲良く暮らしていた
そして、私は母が帰らないうちに成人を迎えた
母がいなくても、父や周りの大人のお陰でここまで生きてこられた
けれど、ある日
父が母と連絡が取れたと言ってきた
お前に会いたいと言っている、とも
正直に言えば、今さらなにを言っているんだと思った
父と私が辛かった時期も寂しかったときも
連絡も寄越さなければ会いにもこなかった
小学生のころ
授業参観にみんなのお母さんが来ていても
私のところには誰も来なかった
一度、父が仕事の合間を縫ってなんとか来てくれたこともあったが
走ってきたせいで息の荒い父の姿を見て、
クラスのみんなが馬鹿にしたように笑っていたときは悔しかった
そのあと、父が授業参観に来ることはなかった
父は、お前がまた恥ずかしい思いをすることになるだろ、と言って笑っていたが
私はただただ、悔しかった
うちにも「お母さん」がいればよかったのにと思った
そうすれば、父が嫌な思いをすることはなかった
クラスの子に「お前の家だけお父さんが来てる」なんて揶揄われることもなかっただろう
でも、母はなにも知らない
家のすべてを放棄して
「お母さん」であることも「妻」であることもやめて
勝手にいなくなった
そして父や私がこれまで
どんな思いをしてきたかも知らないのだ
それなのに、今さら
どんな面をして父や私の前に現れるのだろう
そう思ったけれど
父はすでに母と会う日を決めていた
そういえば父の方が母に惚れ込んで結婚したのだと聞いたことがあった
お前もお母さんに会うか? と聞かれて
私の中の寂しさと怒りを天秤にかけたら
ほんの少し、ほんの少しだけ
寂しさが勝ったから
会うことにした
15年ぶりに会った母は
そこらへんにいるおばさんだった
どこにでもいそうな
どんな町にでも溶け込みそうな
明日には顔さえ忘れていそうな
ありふれたおばさんだった
だけど確かに、私を捨てたあの人だった
それだけは分かってしまった
嬉しいのか、腹立たしいのか、悲しいのか、懐かしいのか
混乱しているのか、冷静なのか、興奮しているのか、歓喜しているのか
全部が胸の中でごちゃごちゃになって
言葉にならないものが込み上げてくる
なにかを言いたいのに
言ってやりたいのに
なにも言葉にならず
口を開けては閉じて
ただ呼吸をした
私は生きている
あなたはずっといなかったけれど
あなたの前で呼吸をしている
あなたにぶつける言葉を見つけられないまま
ただ息をしている
言葉にならない想いを抱えて
あなたを見つめている
8/13/2025, 10:38:38 AM