『終点』
「なあ、銀河の果てと聞いて、どんなことを思い浮かべる?」
津久井が、また意味不明な問答を始めた。僕は心の中で溜め息をつきながらも、津久井の話に付き合うことにする。
「銀河の果て……魂の溜まり場、とか?」
何となく浮かんだイメージを口にした僕に、津久井は冷たさを感じるくらいに綺麗な笑みを見せた。片岡さんとは全く違った種類の笑い方だ、と僕は思い、そんなことを考えた自分の頭の中がよくわからなくなった。
数日前、大学のOBである片岡隆太さんを招いたワークショップが行われた。映画の脚本執筆に本気で取り組みたいと思っていた僕は、何の迷いもなく参加すると決めた。最初の自己紹介で周囲の学生に少しだけ笑われてしまったけれど、これは僕に変な名前をつけた両親の責任だ。創と書いてアートだなんて、ふざけているとしか思えない。
だが、僕が心の中で吐き続けていた両親への呪詛は、片岡さんの話を聞くうちに薄らいでいった。
劇作家は楽をしてはいけないということ。そして、僕が今持っているものは僕だけの個性であるということ。
もし、普通に読める名前をつけられていたら、それだけで僕は楽な方向へ流れていることになる。キラキラネームをつけられて苦しんだ経験が、僕の創作に何らかの力をくれる可能性だって捨てきれないのだ。
ワークショップが終わってからも、僕は片岡さんの言葉をずっと噛み締めていた。だから、同じ学科の友人である津久井に飲みに誘われた時も、ぼんやりと頷いてしまったのだった。
「俺は、終電でいつもの駅を乗り過ごして辿り着いた終着駅かな。一回、やらかしたことがあるんだよ。酔っ払って眠っちゃってさ。でも、損したとは思わない。終点の駅で見た星空が、凄く綺麗だったんだよ。お前にも見せたかった」
「それが、津久井のイメージする銀河の果てってこと?」
「ああ」
津久井は頷き、それこそ銀河の果てを望むように目を細めた。
「果てや終点っていうのは、きっと美しいものなんだよ。俺の故郷も、世界の外れみたいなド田舎だけどさ、空気が綺麗なんだ。やっぱり、俺は中央よりも果ての方が好きだな」
こういった言葉の選び方ができる津久井を、僕は羨ましく思う。ただし、話が長いのは彼の最大の欠点である。その日も、僕は津久井の長々とした話に付き合わされ、終電を逃してしまった。
「終点の駅で見た星空か」
薄ぼんやりと煙ったように見える都会の空を眺めながら、僕は、恋人である蛍先輩のアパートに電話をかけた。蛍と書いてケイ。名前で苦労したという点で、僕たちはよく似ている。
その夜、僕は蛍先輩のアパートに辿り着くや否や、新作映画のアイデアを一本まとめ上げた。タイトルは、星空の果ては綺麗。この脚本が完成したとして、どんな評価を受けることになるのかは今の所、神のみぞ知るというべきか。
脚本家は楽をしてはいけない。しかし、友人の話に取材してアイデアをまとめるぐらいのことは、充分に許容範囲である気がした。明け方、蛍先輩の隣でまどろみながら、僕はちょっとした達成感を味わっていた。
『上手くいかなくたっていい』
久々に訪れた母校の私立大学は、夏季休暇期間中だというのに、学生たちの声で賑わっていた。サークル活動に打ち込んでいる者、勉学や研究に熱中している者など、多くの学生たちが構内に出入りしている。
学生の頃は、まさか自分が文化会サークルの特別講師として招かれることになるとは思ってもみなかった。現在交際中の藤崎亜実にそう話したら、彼女は品のある笑みを浮かべて言った。
「文化会OBの中で、隆太がそれだけ有名ってことだよ。自信を持って行ってきなさい。たとえ上手くいかなくたって、私は隆太の味方でいるよ」
まるで最初から俺が失敗することを期待しているような言い方にむっとしながらも、怒る気にはなれなかった。講師控室となっている六号館二階のゼミ室へ向かう途中も、亜実の優しい笑顔を思い出して、俺の頬は自然に緩んだ。
今日俺が担当するのは、脚本執筆のワークショップだ。文化会の中から、演劇と映画製作、文芸の各サークルメンバーが参加すると聞いている。控室で各サークルのリーダーたちから改めて説明を受け、時間になったので俺は会場へ向かった。廊下を挟んで隣にある講義室が、今回の会場となる。
講義室には、想像を超えるほど多くの学生たちが集まっていた。最初に、一人一人の自己紹介が行われた。その中で俺は、一人の男子学生に目を留めた。
どことなく憂鬱そうな表情をしたその男子学生は、自分の番が近づくにつれて、そわそわし始めた。前を見ていた顔が段々と俯いていき、そして自分の番がきた時には微かに震えている有り様だった。緊張した様子で彼は立ち上がり、俯きながら言葉を発した。
「映画製作部の長沢……アートです。創作の創と書いて、アートと読みます」
自信なさげに彼が言った途端、近くの席にいた数人の学生が小さく吹き出した。力なく着席した長沢創の顔は、羞恥からか真っ赤になっている。ああ、よく問題になっているキラキラネームか。俺は納得した。平凡な名前をつけられた俺などにはわからないような、数多の苦しみを彼は背負って生きてきたのだ。
自己紹介が終わり、脚本の書き方をレクチャーする時間になった。今まで学んだ理論を、実例や経験談なども交えて説明していく。レジュメに目をやりながら、俺は何となく長沢の様子を気にかけていた。
長沢は集中してメモを取っていた。もしかしたら、スポーツ選手で言う所のいわゆるゾーンに入っているのではないかと思えるほど、熱い気迫を放ちながら真剣な顔で、彼はボールペンを走らせている。その様子を見ているうちに、俺は今の自分と長沢が静かに重なったような感覚を覚えた。
俺は劇団内で、変人と言われている。気楽な心持ちで生きている人間からすれば、夢を真剣に追いかけている人間は皆、そのように映るのかもしれない。長沢も、きっと変人と言われるような変わった人間性の持ち主なのだろう。今年二十九になる俺と、二十歳そこそこの長沢ではもちろん違いだってあるかもしれないが、俺たちは世代を超えて何か強いもので繋がっている。それこそ、変人、などという言葉では表せないような強い何かで。
ワークショップが終わりに近づき、最後に俺は彼らに伝えた。
「私にも、先輩方から教えられてきたことがたくさんありました。中でも心に残っている言葉は、劇作家は楽をしてはいけない、というものです。後で調べた所、あるベテラン小説家の受け売りだったのですが。皆さんも、本気でものを書くのであれば、決して楽をせずに熱意を持って取り組んで下さい。結果として上手くいかなくたっていい。皆さんが今持っているものは、皆さんだけの個性ですから。それを花開かせるために、たくさんの失敗をしながら全力で書き続けて下さい」
終わりの方は、長沢に向けた言葉になっていた。周りから笑われるようなキラキラネームだって、立派な個性だ。
俺は長沢に視線を飛ばした。長沢は、真剣な顔をして話を聞いていた。
『蝶よ花よ』
予め敷かれたレールの上を進むのが、私の義務だと思っていた。そうしなければ、私をこんなにも愛してくれている両親に対して申し訳ない。だから軋み始めていた心に蓋をして、気づかないふりをしていた。でも、この世界に飛び込んでみてわかった。私の考えは間違っていたのだと。
名門と言われる女子大に入学してからというもの、私は周りとのギャップを自覚させられる日々にうんざりしていた。ぬるま湯に浸かって生きてきたような、まるで苦労を知らない同期生たち。女性らしさばかりを強制し、講義の内容にはろくに力を入れてくれない先生方。そんな中で、私が生まれつき持ち合わせていた奔放な精神は、あまりの息苦しさに窒息しかけていた。
大学の最初の一年は、ただ耐えるだけで終わっていった。来年の前期からはもう少し視野を広げる必要があると、私は一種の賭けに出てみた。単位が取りにくいという理由で学生たちから敬遠されていた、舞台芸術論の授業を履修することにしたのだ。
授業初日、覚悟を決めて講義室に入った私の前に現れた教授は意外にも、笑顔で優しい話し方をする老紳士だった。
「皆さんは今まで周囲から、蝶よ花よと大切にされ、大概のことは許されて育ってきたのかもしれません。ですが、ここではそういった考えは通用しないと思って下さい。私は冷酷な人間です。本気が見られない受講生は容赦なく切り捨てていきますので、覚悟の上での受講をお願いします」
優しげな口調で、ユーモアを滲ませつつ恐ろしいことを言う。しかし、私はそこにこの教授の本気を読み取っていた。
こうして始まった授業だったが、その内容は面白かった。中でも特に私の関心を引いたのは、国内の小劇団に関する話だった。前衛的な演出をする、ある小劇団の映像を見て、この中に交じることができたなら何もかもが解決するような気持ちになった。
以来、私は小劇団に関する文献や情報を収集するようになった。授業のレポートも、実地で観た芝居の感想を交えて展開させた。単位は無事に取れ、後期の授業が始まる数週間前、私は計画を実行に移した。何度か公演を観に行っていた小劇団の入団オーディションを受けたのだ。
演技経験のない私のような人間が合格するだろうか、という不安はあった。しかし、審査に出てきた劇団代表、栗原さんの姿が視界に入った時、私の中で何かが弾けた。
私はここにいたかったのだ。名門女子大を出て就職し、金銭的に恵まれた家の男性と結婚するよりも、私はこの場所にいたいと強く願っていたのだ。蝶よ花よと甘やかされる生活から離れることになったとしても、私はここにいたい。
思いの強さが届いたのか、それとも単に人員が足りなかったのか、その場で私は合格を勝ち取ることができた。
「藤崎亜実さん。合格です。あなたの演技はまだ素人の域を出ていないかもしれない。でも、あなたは誰にも負けない熱意を持っている。経験を積めば、きっと活躍できるはずです」
栗原さんは、そう言いながら右手を差し出してきた。私たちは力強く握手をした。
それから二年半の月日が流れた。大学と芝居との両立は厳しかった。しかし、入団オーディションの時に栗原さんがくれた言葉が力になり、舞台芸術論の担当だった教授の助けも借りて、どうにか私は大学の卒業証書を手にすることができた。
次の公演を控えた今、私の前には珍妙な男が座っている。近隣で活動する小劇団の団員で、劇作家志望だと話している。イケメン俳優並みの綺麗な顔をして、スタイルもモデルのようなのだが、いかんせん服装の趣味が悪い。鎖柄の派手な黒いシャツを着て、若草色のズボンを穿いている。
男の名前は、片岡隆太。私より四つ年上らしい。この人が書いた脚本で、私はダブルヒロインの片方を演じることになっている。
この世界に飛び込んでみてよかった。蝶よ花よと大切にされているよりも、多分今の私は輝いているはずだから。
『最初から決まってた』
パレットに、水彩絵の具を広げる。青と黄色、そして緑、茶色。頭の中にある風景を抽象化した自分なりのイメージを、これらの絵の具で表現していく。
「ちいちゃんの絵は相変わらず、よくわからないんだよなぁ」
デイケアで一緒だった坂野さんの口癖を頭の中で反芻しながら、私は画用紙を絵の具で埋め尽くしていった。何とでも言うがいい。自分の頭の中身がわかり辛いものであるということぐらい、私が一番よく知っている。
精神科デイケアに通い始める以前、私は部屋に引きこもっていた。今思えば、私は有り余るほどの想像力を自身で扱いかねていたのかもしれない。両親に無理矢理部屋から引き摺り出され、精神科に連れて行かれた時は、絶望のあまりに自殺を考えた。入院を免れ、代わりに強制的に通わされたデイケアも、どこか物足りなかった。
周囲への反発を抑え切れなくなった私が選んだのは、絵を描くことだった。普通の絵ではない。ただ目の前にあるものを描くだけのデッサンや水彩画では、私が抱くイメージを表現するには足りなかった。週一回の絵画療法の時間に、私は怒りに任せて自分の脳内に広がる情景を描き続けた。
最初は自分のためだった。最初から失敗することが決まっていた人生の中で、自分の感情をどうにか鎮めることしか考えられなかった。しかし、描いているうちに段々と余裕が出てきた。今度は誰かのために描いてみよう、と考える自分が、私の中でその存在を大きくしていった。その頃、私は障害者アートのコンクールで入選し、プロへの道を歩み出すことを決意した。そして、晴れやかな気持ちでデイケアを去った。
少しでも多くの人に私のことを知ってもらえなければ、誰かのために絵を描いても、思いが届くことはない。
誰かのため。かつての私のように、まだ夜の中を歩いている誰かのため。
思いを形にするべく、私は一枚の絵を完成させた。
得体の知れない緑色の雲間から、黄色い光を放つ太陽が顔を出している絵。タイトルは、夜明け。
未だに、デイケアのスタッフや通所者たちは、私の絵を理解できないようだ。私としては、以前よりもわかりやすい絵が描けるようになってきているつもりだ。だが、写実的に描くことしか知らないデイケアの人々の目には、やはり私の絵は異質なものとして映るらしい。
「千奈」
名前を呼ばれ、私は借りているアトリエで作業していた手を止める。
だいぶ色褪せたミントグリーンのTシャツと、ダメージジーンズを身に着けた男性が立っていた。最近は多忙で、なかなか会えなかった。だから素直に嬉しい。
「本当に、成長したな。こんな立派なことを成し遂げて。俺、心から嬉しいよ」
私の頭に手を置いて、歩夢は言った。歩夢は、私が引きこもっていた頃にイメージの力で作り出した、架空の男友達だ。
「歩夢は変わらないね。昔、優しくしてくれてた頃のままだよ」
私が言うと、歩夢は照れ臭そうに笑った。そして私の頭を撫でながら、目の前の絵に視線をやる。歩夢の横顔は出会った時と全く同じだった。図々しさの中に、大らかな優しさが滲み出ている。
「こうなること、最初から決まってたのかもしれないな」
歩夢が言う。口元に得意そうな笑みを浮かべながら。
「千奈は、俺に歩夢って名前をつけてくれただろ? 夢に向かって歩む。そういうことを、千奈は望んでたんじゃないか?」
私は、失敗作としての人生を歩んでいくことが最初から決まっていたのだと思っていた。しかし、無意識のうちに夢を見続けていたのだ。きっと、最初から決まっていた。私は夢に向かって歩んでいくのだと。
「千奈の絵、わかりにくい奴にはわからないんだろうけど。でも俺は、そのわからない絵が好きだ」
そう言いながら、歩夢は優しく笑った。
『太陽』
そのアトリエを見つけたのは、高校二年になった四月初めのことだった。予備校から帰宅する途中、偶然目にした立て看板が気に入って、何となく中に入った。
アトリエでは、精神障害を持つ新人画家の展覧会が行われており、どこか寂しげな抽象画が並んでいた。一枚の絵の前で、僕は不意に立ち止まる。画面一杯に描かれた緑色の雲間から、太陽が覗いている絵だった。題名は、夜明け。僕たちにも夜明けは訪れるのだろうか、こんなふうに太陽が照らしてくれる日はくるのだろうか、とどこか複雑な気分になった。
妹の咲乃が精神病院に入院してから、もうすぐ一ヶ月になる。失恋の痛手から固く心を閉ざしてしまった咲乃は、既に家族の手に負えない存在となっていた。日に日に表情がなくなり、食事も、以前ならば決して欠かさなかった入浴すらも、拒むようになった。さすがにこのままでは命にかかわると、両親は咲乃を病院に連れて行った。それが三月に入った頃のことだ。
咲乃の回復を祈って、賭けのつもりで十二月終わり頃から育て始めたサボテンは、僕の部屋で日を送っている。一度だけ花が咲いたのだけれど、僕の願いが届くことはなかった。
やっぱり、花が咲いたくらいではガラスの壁なんて崩れないのかもしれないな。
ぼんやりと、夜明けの絵を見つめる。この作者は、どんな気持ちでこの絵を描いたのだろう。それがわかれば、もしかしたら咲乃を救えるのではないだろうか。僕は都合のいい空想の中へと沈みかけた。
その時、右側から誰かがぶつかってきた。僕の空想は、中途半端な形で断ち切られた。
「あらあら。ごめんなさいね」
ぶつかってきた女性は、言葉とは裏腹に、少しも悪びれない口調で言った。明らかに三十歳を超えていると思われる女性の胸元には、小田、と書かれた名札がつけられていた。
「この雲と太陽の絵、不思議な雰囲気だよね。常識に囚われていない感じがして、底知れない才能を感じる」
抱えていた重そうな段ボール箱を床に置いて、小田さんは馴れ馴れしく僕に話しかける。ぎこちなく頷いた僕に、小田さんは突然、人差し指を突きつけた。
「君、さては何か悩みがあるのね? そうでなくとも、かなり疲れてることは否定できない。でしょ?」
「どうしてわかるんですか」
「女の勘かな」
悩みならば、捨てるくらいたくさんあったし、何よりも僕は疲れていた。驚く気力もないくらいに疲れ果てている僕は、他人の目にもやはりそのように映るのだろうか。
小田さんは僕から夜明けの絵へと視線を移し、話し始めた。
「この画家さんね、大学に入ってすぐ心の病気になって、それから病院のデイケアで絵を描き始めたんだって。でも、この画風でしょう? 最初は誰も、彼女の絵を理解していなかったらしいの。でもある時、駄目元で応募した障害者アートのコンクールで、才能を認められた。それからは順調に画家として成長して、今は個展を開ける所まで人気が出たの」
僕は夜明けの絵を見つめた。閉ざされたままの、咲乃の心を覗くように、そっと見つめ続けた。
「アール・ブリュットっていうのよね。正式に絵画の教育を受けたわけではない人たちのアート。でも、こんなにも心に訴える力のある絵を描ける。才能って、意外な所に眠ってるものなんだよね。だから、障害という外面に気を取られて惑わされちゃいけない。目に見えるものだけを見ていたら、その人の価値を見落としちゃう……どうしたの?」
小田さんが不思議そうに僕を見ているのを感じた。でも、僕は溢れてくる涙を止められなかった。
僕は咲乃のことを心の底から理解してやれていただろうか。心を病んだ可哀想な妹、という同情と庇護の対象としてしか見ていなかったのではないだろうか。
次から次へと涙が溢れ、しまいには嗚咽へと変わっていった。小田さんが見ていることなど関係ないとさえ思えた。子供のように、僕は絵の前で泣きじゃくっていた。