七星

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『最初から決まってた』

パレットに、水彩絵の具を広げる。青と黄色、そして緑、茶色。頭の中にある風景を抽象化した自分なりのイメージを、これらの絵の具で表現していく。

「ちいちゃんの絵は相変わらず、よくわからないんだよなぁ」

デイケアで一緒だった坂野さんの口癖を頭の中で反芻しながら、私は画用紙を絵の具で埋め尽くしていった。何とでも言うがいい。自分の頭の中身がわかり辛いものであるということぐらい、私が一番よく知っている。

精神科デイケアに通い始める以前、私は部屋に引きこもっていた。今思えば、私は有り余るほどの想像力を自身で扱いかねていたのかもしれない。両親に無理矢理部屋から引き摺り出され、精神科に連れて行かれた時は、絶望のあまりに自殺を考えた。入院を免れ、代わりに強制的に通わされたデイケアも、どこか物足りなかった。

周囲への反発を抑え切れなくなった私が選んだのは、絵を描くことだった。普通の絵ではない。ただ目の前にあるものを描くだけのデッサンや水彩画では、私が抱くイメージを表現するには足りなかった。週一回の絵画療法の時間に、私は怒りに任せて自分の脳内に広がる情景を描き続けた。

最初は自分のためだった。最初から失敗することが決まっていた人生の中で、自分の感情をどうにか鎮めることしか考えられなかった。しかし、描いているうちに段々と余裕が出てきた。今度は誰かのために描いてみよう、と考える自分が、私の中でその存在を大きくしていった。その頃、私は障害者アートのコンクールで入選し、プロへの道を歩み出すことを決意した。そして、晴れやかな気持ちでデイケアを去った。

少しでも多くの人に私のことを知ってもらえなければ、誰かのために絵を描いても、思いが届くことはない。

誰かのため。かつての私のように、まだ夜の中を歩いている誰かのため。

思いを形にするべく、私は一枚の絵を完成させた。

得体の知れない緑色の雲間から、黄色い光を放つ太陽が顔を出している絵。タイトルは、夜明け。

未だに、デイケアのスタッフや通所者たちは、私の絵を理解できないようだ。私としては、以前よりもわかりやすい絵が描けるようになってきているつもりだ。だが、写実的に描くことしか知らないデイケアの人々の目には、やはり私の絵は異質なものとして映るらしい。

「千奈」

名前を呼ばれ、私は借りているアトリエで作業していた手を止める。

だいぶ色褪せたミントグリーンのTシャツと、ダメージジーンズを身に着けた男性が立っていた。最近は多忙で、なかなか会えなかった。だから素直に嬉しい。

「本当に、成長したな。こんな立派なことを成し遂げて。俺、心から嬉しいよ」

私の頭に手を置いて、歩夢は言った。歩夢は、私が引きこもっていた頃にイメージの力で作り出した、架空の男友達だ。

「歩夢は変わらないね。昔、優しくしてくれてた頃のままだよ」

私が言うと、歩夢は照れ臭そうに笑った。そして私の頭を撫でながら、目の前の絵に視線をやる。歩夢の横顔は出会った時と全く同じだった。図々しさの中に、大らかな優しさが滲み出ている。

「こうなること、最初から決まってたのかもしれないな」

歩夢が言う。口元に得意そうな笑みを浮かべながら。

「千奈は、俺に歩夢って名前をつけてくれただろ? 夢に向かって歩む。そういうことを、千奈は望んでたんじゃないか?」

私は、失敗作としての人生を歩んでいくことが最初から決まっていたのだと思っていた。しかし、無意識のうちに夢を見続けていたのだ。きっと、最初から決まっていた。私は夢に向かって歩んでいくのだと。

「千奈の絵、わかりにくい奴にはわからないんだろうけど。でも俺は、そのわからない絵が好きだ」

そう言いながら、歩夢は優しく笑った。

8/7/2024, 12:34:07 PM