『太陽』
そのアトリエを見つけたのは、高校二年になった四月初めのことだった。予備校から帰宅する途中、偶然目にした立て看板が気に入って、何となく中に入った。
アトリエでは、精神障害を持つ新人画家の展覧会が行われており、どこか寂しげな抽象画が並んでいた。一枚の絵の前で、僕は不意に立ち止まる。画面一杯に描かれた緑色の雲間から、太陽が覗いている絵だった。題名は、夜明け。僕たちにも夜明けは訪れるのだろうか、こんなふうに太陽が照らしてくれる日はくるのだろうか、とどこか複雑な気分になった。
妹の咲乃が精神病院に入院してから、もうすぐ一ヶ月になる。失恋の痛手から固く心を閉ざしてしまった咲乃は、既に家族の手に負えない存在となっていた。日に日に表情がなくなり、食事も、以前ならば決して欠かさなかった入浴すらも、拒むようになった。さすがにこのままでは命にかかわると、両親は咲乃を病院に連れて行った。それが三月に入った頃のことだ。
咲乃の回復を祈って、賭けのつもりで十二月終わり頃から育て始めたサボテンは、僕の部屋で日を送っている。一度だけ花が咲いたのだけれど、僕の願いが届くことはなかった。
やっぱり、花が咲いたくらいではガラスの壁なんて崩れないのかもしれないな。
ぼんやりと、夜明けの絵を見つめる。この作者は、どんな気持ちでこの絵を描いたのだろう。それがわかれば、もしかしたら咲乃を救えるのではないだろうか。僕は都合のいい空想の中へと沈みかけた。
その時、右側から誰かがぶつかってきた。僕の空想は、中途半端な形で断ち切られた。
「あらあら。ごめんなさいね」
ぶつかってきた女性は、言葉とは裏腹に、少しも悪びれない口調で言った。明らかに三十歳を超えていると思われる女性の胸元には、小田、と書かれた名札がつけられていた。
「この雲と太陽の絵、不思議な雰囲気だよね。常識に囚われていない感じがして、底知れない才能を感じる」
抱えていた重そうな段ボール箱を床に置いて、小田さんは馴れ馴れしく僕に話しかける。ぎこちなく頷いた僕に、小田さんは突然、人差し指を突きつけた。
「君、さては何か悩みがあるのね? そうでなくとも、かなり疲れてることは否定できない。でしょ?」
「どうしてわかるんですか」
「女の勘かな」
悩みならば、捨てるくらいたくさんあったし、何よりも僕は疲れていた。驚く気力もないくらいに疲れ果てている僕は、他人の目にもやはりそのように映るのだろうか。
小田さんは僕から夜明けの絵へと視線を移し、話し始めた。
「この画家さんね、大学に入ってすぐ心の病気になって、それから病院のデイケアで絵を描き始めたんだって。でも、この画風でしょう? 最初は誰も、彼女の絵を理解していなかったらしいの。でもある時、駄目元で応募した障害者アートのコンクールで、才能を認められた。それからは順調に画家として成長して、今は個展を開ける所まで人気が出たの」
僕は夜明けの絵を見つめた。閉ざされたままの、咲乃の心を覗くように、そっと見つめ続けた。
「アール・ブリュットっていうのよね。正式に絵画の教育を受けたわけではない人たちのアート。でも、こんなにも心に訴える力のある絵を描ける。才能って、意外な所に眠ってるものなんだよね。だから、障害という外面に気を取られて惑わされちゃいけない。目に見えるものだけを見ていたら、その人の価値を見落としちゃう……どうしたの?」
小田さんが不思議そうに僕を見ているのを感じた。でも、僕は溢れてくる涙を止められなかった。
僕は咲乃のことを心の底から理解してやれていただろうか。心を病んだ可哀想な妹、という同情と庇護の対象としてしか見ていなかったのではないだろうか。
次から次へと涙が溢れ、しまいには嗚咽へと変わっていった。小田さんが見ていることなど関係ないとさえ思えた。子供のように、僕は絵の前で泣きじゃくっていた。
『鐘の音』
夏休みとはいえ、寺の息子である俺の朝は早い。五時に起きて本堂の掃除を済ませ、それから朝のお勤めがある。さらに朝食後には、庭掃除が待っている。昼になればまた、昼のお勤めがある。午後や夜も、寺の仕事はびっしりと詰まっている。そんな状態なので休む時間はほとんどない。
俺も来年は受験生になる。勉強する時間がほしくて、住職である父に掃除の免除を交渉してみたが、一発で却下された。
「掃除は仏道修行の基本だ。今からそうやって弱音ばかり吐いていてどうする。大学に入ったら、学年が上がるにつれてもっと大変になっていくんだぞ。そもそも、お前は宗門後継者入試を受けるんだろう。受験生であることを逆手に取るなど、とんでもない。もっとしっかりしなさい」
説教される俺を見て、中学生の弟が笑いを噛み殺していた。弟は宗門の中高一貫校に通っているため、それほど真剣に勉強しなくても大学まで進める。今さらながらに、公立校を選んでしまった自分の愚かさを思い知った気がしたが、それもこれも人生勉強のためである。ひたすらに精進するしかない。
父の説教からようやく解放され、仕方なく鐘楼の周囲を掃除していると、意外な来客が訪れた。高校の同級生である高山さんだ。
「中道。あんたに訊きたいことがあるんだけど」
いやに高圧的な態度で、高山さんは切り出した。
「野木真美子と付き合ってるって、本当?」
付き合うも何も、俺たちは終業式の日に少しばかり話をしていただけだ。それなりの進学校で、塾にも行かずに優秀な成績を保っている野木さんは、俺にとっては雲の上の人なのだ。付き合うなど、庭掃除をさぼる以上にとんでもないことだと思う。
俺がそう言うと、高山さんは冷たい目をして、馬鹿にしたように笑った。
「まあ、あんたと真美子ならお似合いだと思うんだけどね。地味で目立たないくせに、お高く留まってる。似た者同士って、こういうのを言うんだろうね」
さすがに、このセリフにはカチンときた。俺は愛想笑いを張りつけたままで、高山さんに尋ねた。
「そう言う高山さんは、予備校の方はいいの? 予備校の国立大進学コースで夏期講習受けるって、みんなに言ってたよね。さぼったら、すぐについて行けなくなるんじゃなかったっけ?」
「あんなの、楽勝だよ」
やはり馬鹿にしたような笑いを浮かべたまま、高山さんは言い放った。
「目を瞑ってたってついて行ける。大体、うちの学校は評価がおかしいんだよ。何で大して努力もしてない真美子が私より上の成績なわけ? 許せない。あれ、絶対に贔屓だから」
見当違いな嫉妬に満ちた発言をした後で、高山さんは命令した。
「いい? 真美子にこれ以上、優しくしないで。あんたたち二人ぐらい、私の手にかかったら簡単に潰せるんだから。いい加減、長いものに巻かれる謙虚さを持ちなさい」
そして高山さんは清々したとでも言うように、くるりと背を向けて寺の庭から立ち去った。
何をしに来たのだろう、あの人は。
どうせ、予備校の授業で絞られていることに対する憂さ晴らしだ。俺はそう思うことにした。
「愚か者め。いつになったら人生の真理を悟るんだ?」
もやもやとした気持ちを吹き飛ばすように、俺は鐘楼に上がる。大きな鐘は、俺たちのうちに籠もった煩悩の塊を見せつけるように、今日も重くぶら下がっていた。
「俺が地味だと思って好き勝手なことを。今に見てろ。この鐘の音で、町ごと浄化してやる」
胸を反らして、思い切り鐘を撞き始める。くぐもった音が辺りに響き渡った。
鐘の音が、高い空を突き抜けて町中を包んでいく。この町は今日も平和だ。
『つまらないことでも』
じりじりと日射しが肌を焼く。アスファルトに陽炎が浮かんでいるのが見える。ショートにした髪から汗が滴り落ち、私は頬に落ちた塩辛い雫をタオルハンカチで拭った。
中学校に入って最初の夏休み。私と雪也は、演劇部の休日練習が終わって帰宅する途中だった。
「はぁ。もっと簡単な活動だと思ってたのに」
雪也が呟く。
「嫌になるよな。毎日基礎練習ばっかりでさ。台本読んだり、ステージに立って演技したりしたいのに」
生まれつき色黒な私とは対照的に、雪也は幼稚園で出会った時から色白で、女の子みたいだ。お陰で、雪也は異性だけでなく同性にも好かれ、私はと言えばまるで目立たず隅に追いやられている。
げんなりしたような顔でだらだらと歩く雪也に、私は言った。
「仕方ないよ。まだ一年だもん。二年になったら、役ももらえるんじゃない? それまでの辛抱だよ」
「お前って本当に、何もかも他人事みたいだな。まあ、仕方ないか。お前は基礎練習大好き人間だもんな」
雪也の言う通りだ。私は基礎練習が嫌いではない。ストレッチで体を伸ばしたり、発声練習で大きな声を出したりするのは気持ちがいいし、ストレス解消にもなる。こんな気持ちのいいことを、どうして雪也は嫌うのだろう。私には理解できない。
「基礎は大事だよ」
私の声は雪也には届かなかったようで、すぐに愚痴が再開された。
「俺、クラスでは期待されてるんだよ。今年から結構いい役もらえるんじゃないかって。なのに、役どころか基礎練習に明け暮れてるなんて知られたら、あいつらにどう思われるかわからない。だから俺は、早く基礎を脱却したいんだよ。わかるだろ? そういう気持ち。なぁ、不細工」
最後のセリフが引っかかった。
「不細工って、私のこと?」
私が尋ねると、雪也は頷いた。
「お前の他に誰がいるんだよ。こんな炎天下、誰もこの道歩いてないだろ」
「ひどい。有り得ない!」
カチンときて、私は言い返す。
「それ、女子には絶対に言っちゃいけないセリフだよ。女子にとってブスとデブは、死ねって言うのとほぼ同義語なんだからね!」
私の剣幕に驚いたのか、雪也は一瞬だけ歩みを止めた。しかし、すぐに気だるそうな目で言い返してきた。
「ブスともデブとも言ってないだろ。俺はただ、不細工って言ったんだ。ちょっとした褒め言葉だよ」
わけがわからない。頭に血が上った私は、雪也を黙らせるための言葉を探す。
「何が褒め言葉だよ。不細工はブスと同義語でしょ? 人を傷つけてる暇があるなら、その滑舌を何とかしろよ。このチビが!」
「あっ。今お前、チビって言ったな。俺が傷つくことを知っててわざと言っただろ! お前だって男みたいな外見してるくせに! ちょっとは女らしくしろよ!」
それは、私にとって最も言われたくない言葉だった。雪也にとってはつまらない冗談の一つであっても、私にとっては重大な問題を孕んでいる地雷の一つだったのだ。
「今の言葉、絶対に許さない。相手が雪也であっても」
真顔で言い放つ。雪也は明らかに怯んだ様子で、口を閉ざした。
他の人間にとってはつまらないことでも、言われた当人にとっては地雷になる場合がある。心にひびが入る音を聞かれたくなくて、私は雪也に背を向けて走り出した。背後から、私を呼び止める雪也の声が聞こえてきた。
「おい。どうしたんだよ、急に。さやか。何なんだよ、さやか……」
私は生まれつき、女らしくない。物心ついた時から何かが違っていて、男に生まれればよかったと未だに思っている。
そんな私が演劇部で男役ばかりを演じるようになるのは、もう少し先の話である。
『目が覚めるまでに』
隆太が気持ちよさそうに寝息を立てている。呼吸するたび、頑丈そうな胸が大きく上下する。私は、隆太の長い睫毛にそっと視線を落とし、小声で呟いた。
「ごめん。あなたのこと、私はもう好きじゃない」
隆太に近づいたのは私の方だったのに、こんなにも簡単に崩れ去ろうとしている二人の関係性が可笑しくて、私は少し笑う。
マナーモードにしたスマートフォンのバイブが、私を現実へと連れ戻した。メールの受信を告げる無機質な通知。画面には、もう何度も見てきた名前が表示されていた。
隆太の目が覚めるまでに、ここを出ていかなければならない。私たちの関係は終わったのだから。
私は貴重品の入ったバッグだけを持って、急いで玄関へ向かい、靴を履いてドアを開けた。早朝だというのに、真夏の蒸し暑い空気が私の全身を包み込んだ。歩きながら、メールに返信する。
娘さんと片岡隆太の件、無事に終わりました。なお、依頼の報酬についてですが……
途中まで文章を打ち込んだ所で、急に目の前が霞んだ。体が小さく震え、上手く入力ができない。
「こんなつもりじゃなかったのに」
いつからか、隆太のことを本気で好きになっている自分がいた。私は別れさせ屋であり、仕事が終わったら隆太との関係はなくなるはずだった。それなのに、隆太の今後のことを真剣に考え始めていた。
遊びで付き合っていた女友達のことも、そして私のことも、隆太は失うことになる。彼のことだから、またすぐに新しい女性を見つけるだろう。しかし、それまでの間は裏切られたという気持ちを抱えたまま一人で生きていかなければならない隆太のことが、可哀想で仕方なかった。
嗚咽が漏れる。私はその場にしゃがみ込むと、声を殺して泣いた。
***
あの女、加納広佳が去った後。俺は充分すぎるほど周りに気を配りながら、亜実に電話をかけた。加納のことだから、盗聴器の一つや二つ、仕掛けていてもおかしくはない。幸い、加納が戻ってくることはなく、入れ替わるように亜実が現れた。
「隆太。別れさせ屋の女は出ていった?」
亜実が尋ねる。俺が頷くと、亜実は不敵な笑みを浮かべた。
「うちの馬鹿親も、別れさせ屋も、みんな目が曇ってる。小劇団とはいえ、劇団員を舐めるなって感じだよ。私、これでも死ぬ気でお芝居したんだから」
別々の小劇団に所属していた俺と亜実は、一年前から交際している。表面上は遊び半分の付き合いを装っているが、俺は本気で亜実のことが好きだ。多分、亜実も同じ気持ちだろうと思う。
数ヶ月前、亜実の親が別れさせ屋を差し向けてきた時も、俺たちは動じる気などなかった。別れさせ屋の加納広佳は、最初から俺たちを軽く見ていたし、奴の演技は下手くそで目も当てられないほどだったからだ。俺と亜実は、真剣に演技することで逆に加納を騙すことにした。俺は加納を好きになるふりをし、亜実は俺に裏切られたふりをした。作戦はたった今成功し、亜実は俺の元へ戻ってきたというわけだ。
普段は控えめな亜実が、柄にもなく大欠伸をした。
「お芝居のしすぎで疲れちゃった。ちょっと寝ていい?」
「ああ。俺のベッド、使っていいからな」
亜実の両親が諦めるとは到底思えない。だから今は戦士の休息ということで、亜実にもゆっくり休んでもらおう。
寝室に入っていった亜実の背中を見送り、俺はパソコンを起動した。半年後に行われる公演の脚本が、まだ仕上がっていなかった。
亜実の目が覚めるまでに、この脚本を完成させてしまおう。そして俺はいつかプロの劇作家になって、亜実の両親を納得させてみせる。
亜実の可愛らしい寝顔を想像しながら、俺は脚本の続きを書き始めた。
『病室』
怪我で手術をした友人の麻理香を見舞うため、川沿いにある総合病院を訪れた。受付で、骸骨のように痩せた係の女性に言われるまま手続きをして、病棟に入る。静かな病棟からは時々、見舞客と思われる女性や子供の声が聞こえていた。しかし、やはり病人がいる場所なので、全体的に静寂の中に沈んでいる。
病室のドアをノックして中に入った。クリーム色の壁紙が張られた部屋の中、四つ並ぶベッドの最も入口に近い一つに、麻理香がいた。上体を起こしてはいるが、足には包帯が幾重にも巻かれていて痛々しい。
「薫。来てくれたんだね」
私の姿を認め、麻理香は弱々しく微笑んだ。私は、持ってきたリンゴと白桃を手提げから出し、麻理香の前に置いた。
「これ、近くの果物屋であまりにも美味しそうだったから買ってきたの。よかったら食べてね」
肉の加工工場に勤めている麻理香は、実は肉よりも果物の方が好きなのだ。私もそれを知っていたので、お見舞いには果物を持っていこうと決めていた。
案の定、麻理香は目を輝かせた。
「凄い。薫は私のことを本当にわかってくれてるね」
「それはそうだよ。何年友達付き合いしてると思ってるの?」
私の問いには答えず、麻理香はにっこりと笑って白桃にかぶりついた。先ほどまでの弱々しい姿が嘘のようだ。
「美味しい。甘味が濃厚で、とろけそうな感じ。病院食って味が薄いから、こういうものが食べたくて仕方がなかったんだ」
無邪気な笑顔で言い、さらにかぶりつく。こういう現金な所が麻理香の長所だと、私は思う。
カーテンで区切られた隣のベッドから、咳払いが聞こえた。気のせいか、途端に病室の壁の色が少し青褪めたような気がした。
「やばい。隣の人、また怒ってる」
麻理香が慌てて口の中のものを飲み込み、ちらりと奥にあるベッドを窺った。そして声を潜める。
「隣の人、死神なんだって。あまり怒らせるとあの世に連れてくよって、毎日脅されてるんだ」
そういう麻理香は、魔女の資格を持っている。
この世界に住む一部の人間が魔力を持つようになったのは、百年以上前だと言われている。麻理香は、いわゆる善性の魔女で、食べ物を美味しく加工する魔術が得意だった。しかし、魔力を持つ人間全てが善性とは限らない。時には、死神と呼ばれるような恐ろしい力を有する者もいる。
ここは、魔力を持つ人間専用の病院だ。見舞客には私も含め、力を持たない者もいるけれど、病院スタッフや患者たちは皆が魔力を持っている。
声のトーンを落としたまま、麻理香が言った。
「おととい、隣の人と斜め前の人が喧嘩した時もひどかったんだよ。斜め前の人が水の魔術を使って、この部屋を水浸しにしちゃってね。隣の人も怒って、あの世に送る呪文を唱えようとするし。結局は看護師さんが、雷を呼ぶ魔術を使って二人を黙らせて終わり。怖い怖い。みんながもっといいことに魔力を使えたらいいのにね」
同感だ。私は苦笑いして頷いた。
それにしても、魔術を使う者同士で喧嘩とは。ここでの入院生活も何かと大変そうだ。