『明日、もし晴れたら』
「最近雨ばっかりだね」
私の隣でバスを待ちながら、幸恵が言った。幸せで、かつ恵まれるように、という欲張りな名前を持つこの十年来の友人は、雨降りの日が嫌いだ。だって陰気で湿っぽいんだもの、と雨降りのたびに彼女は口にする。
「この程度の雨、すぐに止むよ」
気休めのような言葉で幸恵を宥め、私は溜め息をつく。今日もバスは遅れていた。傘からはみ出した腕に雨粒がぽつりと落ち、微かに冷たさを感じる。いつだったかは忘れたが、こんな雨の日に、やはり同じような会話を幸恵と繰り返したな、と不意に思い出した。
この雨を降らせているのが私だということを、幸恵は知らない。降りしきる雨を傘で受けながら、相変わらず幸恵はぶつぶつと文句を言っている。その声を軽く聞き流しながら、私は雨音に耳を澄ませた。
子供の頃から私は雨女である。遠足や運動会の当日には、必ず小雨が降った。友達と遊ぶ約束をした当日に、台風を呼んでしまったこともある。私の持つ記憶は、いつも不機嫌な灰色の空とともに存在していた。
本当に憂鬱だ。嫌気が差して、何度目かになる溜め息を小さく吐き出した時だった。
突然、幼い舌足らずの声が私の耳に飛び込んできた。
「嫌だ! 絶対にピクニック行くんだもん!」
数メートル離れた路上で、幼稚園ぐらいの女の子が泣きながら駄々をこねていた。一緒にいた初老の女性が、困ったように周囲へと視線を彷徨わせながら、女の子を宥めている。
「そんなこと言ってもねぇ。この雨は明日も続くって、天気予報で言ってたんだよ」
初老の女性の声には、焦りが混じっていた。泣き止まない女の子に周囲の視線が集まる。初老の女性が周りの視線を気にすれば気にするほど、女の子の泣き声は激しくなっていく。
急に胸の奥が、ちくりと痛んだ。
この雨が続くのが、自分のせいであるかのような気がして、苦しくなる。
思えば、私は負の感情を溜め込み続けていた。子供の頃、学校のイベントは全て嫌いで憂鬱だった。遊ぶ約束をした友達とも、本当は遊びたくなかった。雨になればいいのに、と願うたびに、天気の神様は私の願いを聞き入れてくれた。まさか台風まで来てくれるとは思わなかったけれど。
幸恵とも、本当は絶交したい。もうすぐ三十路に差しかかるというのに、いつも幼稚で、思ったことを考えなしにすぐ口にする幸恵のことが、私は好きではない。幸恵が雨降りを嫌うたび、私は心の中で願っていた。もっと降れ、と。
今、女の子が気づかせてくれた。嫌いな人を私が呪っているその裏側で、悲しんでいる人がいるかもしれないのだ。
明日は晴れますように。
心の底から願ってみる。駄々をこねている女の子に少しでも笑ってほしくて、そっと願いをかける。
明日、晴れますように。明日、もし晴れたら、あの子はピクニックに行ける。だから神様、お願い。
その晚、大雨が屋根を叩く音を聞きながら、やはり私は雨女だったのかと諦めかけた。それでも、罪悪感は私を解放してくれず、夜中まで願いをかけ続けた。
そして翌日、空は嘘のように晴れ渡ったのだった。
『だから、一人でいたい。』
子供の頃から争いごとが嫌いだった。ちょっとしたことですぐに怒る同級生や、つまらない事情で簡単に他人を争いごとに巻き込む友人たちから、自由になりたかった。だから私は一人でいることを好んだ。
それでも、誰とも係わらずに生きていくことはできないから、必要最低限の付き合いは我慢する。愛想笑いをしながら、最低限嫌われないような振る舞いをして、適当に相槌を打つ。
最初のうちはそれでも何とか上手くやっていけた。しかし、周囲から浮かないよう、形だけの付き合いを続けているうちに、遂に私の心は壊れた。誰とも話したくない。そんな発言を繰り返し、私は自室に引きこもった。
歩夢に出会ったのは、引きこもってから五ヶ月ほど経ったある暑い日のことだった。
「退屈そうな顔してるな。もうじき体中に苔が生えるんじゃないのか?」
埃臭い自室でぼんやりと寝転がっていた私の前に、歩夢は以前からの友人であるかのような、馴れ馴れしい態度で現れた。ミントグリーンのやや色褪せたTシャツにネイビーのダメージジーンズを合わせ、いかにもだらしない風貌なのだが、なぜか汚らしい感じはしなかった。
私はベッドから起き上がり、言い返した。
「そういう歩夢だって、全身にカビが生えたような服装してるじゃない」
「失礼な奴。お前って昔から、口だけは達者だよな」
歩夢は苦笑いすると、私の隣に腰をかけた。安心して、同時に切なくなって、私は顔を覆う。右隣から、歩夢の慌てたような声が聞こえた。
「どうしたんだよ。急に泣いたりして。落ち着けよ。俺が泣かしたみたいじゃないか」
私は顔を上げ、歩夢を見た。困ったように視線を泳がせた歩夢が、私の視線を受け止めてさらに困り顔になる。
「どこへも行かない? ずっと私のこと、裏切らないでいてくれる?」
甘えた声を出した私に、歩夢は頷いた。
「裏切らないよ。当たり前だろ。俺はずっと、千奈と一緒にいる」
そんなことはとっくの昔にわかっている。だって、歩夢を作り出したのは私なのだから。
わかっている。私は、決して自分を裏切らない友達が欲しかった。だから歩夢という存在を自分で作り出したのだ。
「ねえ、歩夢」
私は歩夢の肩にもたれかかり、言った。
「大好きだよ」
私の部屋から独り言が漏れているのを、両親は心配しているだろう。でも、もう外へ出ていくつもりはなかった。外へ出たら、私と歩夢の世界は心ない人たちに破壊されてしまう。そうなるくらいなら、私は一人でいたい。一人でいて、歩夢との世界を守りたい。
世間から、一人ぼっちの哀しい人間だと思われてもいい。もう、私は一人でいい。
一人がいい。
『澄んだ瞳』
水泳の授業があるたび、憂鬱だった。
泳げないわけではない。泳ぎは得意な方だ。長距離を泳ぐのは気持ちがいいし、陸の上では思うように動かない手足が水の中では自由に動く気がする。私の前世は魚だったのではないかと思うほどだ。
それならなぜ、憂鬱なのか。
私は自分の太腿を見下ろす。朝顔のような形をした大きな痣が、太腿の上の方に紫色の染みを作っている。誰かから暴力を受けているわけではない。これは、この世に生まれ落ちた十三年前から私の体にあるものだ。
水着になれば、この痣を大勢の前で晒すことになる。私はそれが嫌だった。いつも皆の視線が私の醜い痣に集中している気がして、どうにも落ち着かないのだ。
プールサイドで授業を見学している永井さんに、そっと視線を向ける。永井さんはストップウォッチを片手に、澄んだ瞳で私たちを見守っている。いつもいつも、私は彼女が羨ましかった。
いいなぁ。水泳、やらなくていいんだもんなぁ。
永井さんは生まれつき心臓が弱く、体育の授業に参加できない。同性であっても思わず見惚れてしまうような、整った顔と白い肌の持ち主で、しかしいつも一人でいる。
きっと永井さんは別世界の住人なのだ。私はそう思うことにしていた。そんなふうに考えなければ、嫉妬に狂ってしまいそうだったからだ。
授業は中盤に差しかかっていた。体育教師が鳴らす笛の音とともに、次々と同級生たちがプールに飛び込んでいく。クロールは得意だった。私は痣を気にしながら、ゆっくりと飛び込み台に向かった。
笛が鳴り、勢いよく水中に飛び込んで泳ぎ出す。視界の隅で、永井さんがストップウォッチを大きく掲げるのが見えた。
その時。
突然、水圧を感じなくなった。両隣を見ると、そこを泳いでいるはずの同級生たちの姿が消えていた。
私は水中に一人、取り残されていた。誰もいない。物音さえも聞こえない。まるで私だけが異空間へ飛ばされてしまったかのように、不気味な静寂が辺りを包んでいた。水面へ顔を出そうとしたが、水面は遥か上方に揺らめいている。溺れる。私は動揺した。
不意に、紺色の半袖Tシャツと同色のハーフパンツを身に着けた女子生徒が、私の前に割り込んできた。同時に私の頭の中で、鈴の鳴るような声が響いた。
「光本さん。落ち着いて、私の言う通りに動いてね」
目の前にいる女子生徒が喋ったのだとわかり、さらに相手の顔を見た私は文字通り、心臓が止まりそうになった。
二つの澄んだ瞳が私を見つめていた。永井さんは、私の手をそっと取ると、細く美しい声で言った。
「このまま、上へ向かって泳いで。あなたの意識は今、水の奥深くにいるの。水面まで上がれば、きっとみんなが気づいてくれる」
言われるままに、私は上へ向かって泳いだ。永井さんの声には妙な圧力があり、従わざるを得ない気がした。
気がつくと、私はプールサイドで体育教師に見下ろされていた。夢から醒めた後のように、意識は朦朧とし、私はしばらく言葉を発することができずにいた。
「永井さんは……?」
ようやく一言だけ喋ることができた私を、体育教師は苦々しげに見て言った。
「永井は保健室にいる。お前が溺れた直後に発作が起きて、その拍子にストップウォッチを止めて倒れたんだ。お前と言い、永井と言い。今時の女子は失神する時まで二人一緒なのか?」
永井さんと話をしなければならない。私は直感的にそう思った。私たちの身に何が起きたのか。なぜ水の中に永井さんが現れたのか。
永井さんの整った顔と澄んだ瞳を脳裏に浮かべる。永井さんが止めたストップウォッチの丸いフォルムも。
失神している間の不思議な体験に過ぎない。しかし、永井さんは全てを知っているのではないか、という疑念が私の中にずっと居座っていた。
『嵐が来ようとも』
今夜もまた、あの人が住む家の前に来てしまった。
携帯ラジオが台風の接近を伝えている。近くにある木々が不穏にざわめく。僕の体に汗で張りついたTシャツを、生暖かい風がそっと撫でていった。見上げると、分厚い雲に覆われた空は真っ暗で、星も月も暗黒の向こう側に眠っていた。
もうすぐ、嵐が来る。しかし、僕はここを離れる気など微塵もなかった。
木々のざわめきが強くなる。次第に激しくなっていく風に目を細めながら、僕はずっと待ち続けていた。
あの人が僕を不審者として通報するのが先か、それとも。
何だっていい。僕は覚悟を決め、電柱の陰から出た。二階にあるガラス窓の向こうに、あの人の影がぼんやりと浮かび上がった。昼間、明るい所で見る姿とは違い、窓越しに見るあの人の影は小さく、微かに震えていた。
窓に背を向け、スマートフォンを操作し始めた僕の指に、ぽつりと冷たい雫が落ちる。雨が降り出したのだ。だが、どんなに雨足が強くなろうとも、僕はここから離れる気などない。
小石を踏むような小さな足音がした。
来た。僕は足音の聞こえた左前方へと視線を移し、持っていた懐中電灯で相手の顔を照らすと、言った。
「諦めた方がいいよ」
相手は驚いた様子だった。僕の顔を見て、固まっている。当然だろう。彼女にとって、僕が現れることは想定外だったはずだから。
「何で? 何で井口がここにいるわけ?」
僕の苗字を呼び捨てにして、彼女は問いかけた。飽くまで平然を装っているのが、手に取るようにわかる。僕は普段通りの無害な笑みを浮かべ、彼女に言った。
「中野さんこそ、どうしてここにいるの? 彼氏とデートするって言ってなかったっけ? それとも、あれはアリバイ作りのための嘘だったのかな? 中野さんはこの場所を……松沢さんの家を知らないことになっていたよね?」
僕は畳みかけるように質問を発してやった。彼女、中野さんの顔が強張る。元から色白な中野さんの皮膚が、より一層青褪めていく。中野さんの狼狽えようは、見ているこちらが可笑しくなるくらいにわかりやすかった。
「知ってるよ」
僕は声のトーンを落とし、それでもはっきりと伝わるよう、明瞭な発音で言葉を発した。
「去年、大学推薦の給付制奨学金をもらったのは、松沢さんだった。中野さんは松沢さんに嫉妬していたんだ。松沢さんがいなくなれば、今年は自分が奨学金をもらえる。だから、中野さんは松沢さんの家を突き止めて、恐ろしいことを実行しようとしているんだ」
「人聞きの悪いこと、言わないでよ!」
中野さんがヒステリックに叫んだ。強くなりつつある雨が、中野さんの髪や両肩を濡らす。
「まるで私が松沢さんに危害を加えようとしているみたいじゃない! 私がそんなことをしようとしているという、証拠はあるの?」
僕は首を振る。雨のせいでずぶ濡れになりながら、言葉を継ぐ。
「証拠はない。でも、先月の初めに見てきたんだ。今月の大雨の夜に、中野さんが松沢さんを殺して逮捕される所を。僕には時々、未来が見えるんだよ」
多分、もうすぐ巡回の警察官がやって来る。もう充分に時間は稼げたはずだ。僕は中野さんに優しく話しかけた。
「中野さんに傷ついてほしくない。僕は、中野さんのことが……好きだから」
自転車の音がした。大雨の中でも、警察のパトロールは律儀に行われている。懐中電灯が僕たちに向けられ、男性警察官の声が威厳たっぷりに尋ねた。
「君たち。こんな所で何を言い争っているんだ?」
ピンチは逃れられた。今日の所は。
僕は苦笑いしながら対応した。
「大したことではありません。ただの痴話喧嘩です」
その後、僕と中野さんの間に嵐が吹き荒れたのは、言うまでもない。
『お祭り』
私は友人の杏花に誘われて、この地域で催される夏祭りに出かけた。
深夜の暗い林の中、神社に向かって一本の道が延びている。私たちはピンク色に光る提灯の灯を頼りに、細い一本道を進んでいった。
杏花と私は今年、短大で出会った。教室で孤立していた者同士、何となく会話をするようになったのだ。無口で友達もいない杏花は、私といる時にだけ饒舌になる。私一人にだけ心を開いてくれていることが堪らなく嬉しくて、私はいつも杏花と一緒にいた。
「こんな所に神社があったんだね。私、この辺りの人間じゃないから全然知らなかったよ」
歩きながら、私は杏花に話しかける。杏花は曖昧に微笑んで、小さな声で言った。
「ここは私にとって、隠れ家みたいな存在なんだ。だから滅多に人には話さないんだけど、結衣にだったら教えてもいいかなって思ったの。だって結衣は、初めてできた親友だもんね」
その言葉が嬉しくて、私は飛び跳ねたくなる気持ちを辛うじて抑えた。十九歳にもなって、子供みたいに飛んだり跳ねたりするのはさすがにみっともないと思ったのだ。
周りは知らない人だらけで、杏花がいてくれなければ心細くなるくらいに辺りは真っ暗だ。知らず知らずのうちに、提灯の柄を握る指に力が入った。隣に杏花の息遣いと、甘い花の香りを感じる。それだけが、幻想的な雰囲気に呑まれそうな私を現実に繋ぎ止めてくれていた。
神社の境内に入る。辺りが急に薄明るくなり、人々の陽気な笑い声が一気に押し寄せてきた。
食べ物や玩具を扱う屋台が並んでいる。小ぢんまりとした空間だが、不思議とどこまでも続いているような開放感があった。
私たちは、たこ焼きと焼きそば、ラムネを買い、少し離れた石段に座った。ソースの香りが食欲を刺激する。二人でたこ焼きをつつきながら、私たちは色々な話をした。食事が終わる頃には、私は今まで以上に杏花のことを知るようになっていた。踊りの輪にも見よう見真似で参加し、楽しい時間はあっという間に過ぎた。
夏祭りが終わり、提灯の灯を頼りにして、来た道を逆に進む。参道の出口まで来た所で突然、杏花が言った。
「私、ずっと寂しかったの。この世界から取り残されてる気がしてた。だから、結衣に出会えてよかったよ」
それが、私が杏花の口から聞いた最後の言葉だった。
夏季休暇が終わり、杏花はキャンパスから姿を消した。
勇気を出して、同じ日本文学科の同期生に杏花のことを尋ねてみたけれど、返ってくる言葉は皆同じだった。
「橋詰杏花? そんな子いたっけ?」
そして皆一様に、精神疾患の患者でも前にしたように、私から目を逸らすのだった。
それから三週間が経った頃、講義の中で私は杏花の行方に関する手がかりを得た。それは、この地域で行われている、あんず祭りの話だ。この地域には、橋詰神社という小さな神社があり、あんずの花を模した女神像が祀られているという。
橋詰杏花。
彼女の名前はこの話にぴったりと符合する。考えてみれば私は、杏花が他の人間と係わろうとする所を一度も見たことがなかった。他の人間には、杏花は見えていなかったのかもしれない。
「結衣に出会えてよかったよ」
上から杏花の声が聞こえた気がして、私は教室の天井を見上げた。
杏花は本当に女神だったのだろうか。それとも、ひたすら存在感が薄い、無口で恥ずかしがり屋な普通の女性だったのだろうか。
その答えは、短大を卒業して数年経った今でもわからない。