『嵐が来ようとも』
今夜もまた、あの人が住む家の前に来てしまった。
携帯ラジオが台風の接近を伝えている。近くにある木々が不穏にざわめく。僕の体に汗で張りついたTシャツを、生暖かい風がそっと撫でていった。見上げると、分厚い雲に覆われた空は真っ暗で、星も月も暗黒の向こう側に眠っていた。
もうすぐ、嵐が来る。しかし、僕はここを離れる気など微塵もなかった。
木々のざわめきが強くなる。次第に激しくなっていく風に目を細めながら、僕はずっと待ち続けていた。
あの人が僕を不審者として通報するのが先か、それとも。
何だっていい。僕は覚悟を決め、電柱の陰から出た。二階にあるガラス窓の向こうに、あの人の影がぼんやりと浮かび上がった。昼間、明るい所で見る姿とは違い、窓越しに見るあの人の影は小さく、微かに震えていた。
窓に背を向け、スマートフォンを操作し始めた僕の指に、ぽつりと冷たい雫が落ちる。雨が降り出したのだ。だが、どんなに雨足が強くなろうとも、僕はここから離れる気などない。
小石を踏むような小さな足音がした。
来た。僕は足音の聞こえた左前方へと視線を移し、持っていた懐中電灯で相手の顔を照らすと、言った。
「諦めた方がいいよ」
相手は驚いた様子だった。僕の顔を見て、固まっている。当然だろう。彼女にとって、僕が現れることは想定外だったはずだから。
「何で? 何で井口がここにいるわけ?」
僕の苗字を呼び捨てにして、彼女は問いかけた。飽くまで平然を装っているのが、手に取るようにわかる。僕は普段通りの無害な笑みを浮かべ、彼女に言った。
「中野さんこそ、どうしてここにいるの? 彼氏とデートするって言ってなかったっけ? それとも、あれはアリバイ作りのための嘘だったのかな? 中野さんはこの場所を……松沢さんの家を知らないことになっていたよね?」
僕は畳みかけるように質問を発してやった。彼女、中野さんの顔が強張る。元から色白な中野さんの皮膚が、より一層青褪めていく。中野さんの狼狽えようは、見ているこちらが可笑しくなるくらいにわかりやすかった。
「知ってるよ」
僕は声のトーンを落とし、それでもはっきりと伝わるよう、明瞭な発音で言葉を発した。
「去年、大学推薦の給付制奨学金をもらったのは、松沢さんだった。中野さんは松沢さんに嫉妬していたんだ。松沢さんがいなくなれば、今年は自分が奨学金をもらえる。だから、中野さんは松沢さんの家を突き止めて、恐ろしいことを実行しようとしているんだ」
「人聞きの悪いこと、言わないでよ!」
中野さんがヒステリックに叫んだ。強くなりつつある雨が、中野さんの髪や両肩を濡らす。
「まるで私が松沢さんに危害を加えようとしているみたいじゃない! 私がそんなことをしようとしているという、証拠はあるの?」
僕は首を振る。雨のせいでずぶ濡れになりながら、言葉を継ぐ。
「証拠はない。でも、先月の初めに見てきたんだ。今月の大雨の夜に、中野さんが松沢さんを殺して逮捕される所を。僕には時々、未来が見えるんだよ」
多分、もうすぐ巡回の警察官がやって来る。もう充分に時間は稼げたはずだ。僕は中野さんに優しく話しかけた。
「中野さんに傷ついてほしくない。僕は、中野さんのことが……好きだから」
自転車の音がした。大雨の中でも、警察のパトロールは律儀に行われている。懐中電灯が僕たちに向けられ、男性警察官の声が威厳たっぷりに尋ねた。
「君たち。こんな所で何を言い争っているんだ?」
ピンチは逃れられた。今日の所は。
僕は苦笑いしながら対応した。
「大したことではありません。ただの痴話喧嘩です」
その後、僕と中野さんの間に嵐が吹き荒れたのは、言うまでもない。
7/29/2024, 12:13:27 PM