『つまらないことでも』
じりじりと日射しが肌を焼く。アスファルトに陽炎が浮かんでいるのが見える。ショートにした髪から汗が滴り落ち、私は頬に落ちた塩辛い雫をタオルハンカチで拭った。
中学校に入って最初の夏休み。私と雪也は、演劇部の休日練習が終わって帰宅する途中だった。
「はぁ。もっと簡単な活動だと思ってたのに」
雪也が呟く。
「嫌になるよな。毎日基礎練習ばっかりでさ。台本読んだり、ステージに立って演技したりしたいのに」
生まれつき色黒な私とは対照的に、雪也は幼稚園で出会った時から色白で、女の子みたいだ。お陰で、雪也は異性だけでなく同性にも好かれ、私はと言えばまるで目立たず隅に追いやられている。
げんなりしたような顔でだらだらと歩く雪也に、私は言った。
「仕方ないよ。まだ一年だもん。二年になったら、役ももらえるんじゃない? それまでの辛抱だよ」
「お前って本当に、何もかも他人事みたいだな。まあ、仕方ないか。お前は基礎練習大好き人間だもんな」
雪也の言う通りだ。私は基礎練習が嫌いではない。ストレッチで体を伸ばしたり、発声練習で大きな声を出したりするのは気持ちがいいし、ストレス解消にもなる。こんな気持ちのいいことを、どうして雪也は嫌うのだろう。私には理解できない。
「基礎は大事だよ」
私の声は雪也には届かなかったようで、すぐに愚痴が再開された。
「俺、クラスでは期待されてるんだよ。今年から結構いい役もらえるんじゃないかって。なのに、役どころか基礎練習に明け暮れてるなんて知られたら、あいつらにどう思われるかわからない。だから俺は、早く基礎を脱却したいんだよ。わかるだろ? そういう気持ち。なぁ、不細工」
最後のセリフが引っかかった。
「不細工って、私のこと?」
私が尋ねると、雪也は頷いた。
「お前の他に誰がいるんだよ。こんな炎天下、誰もこの道歩いてないだろ」
「ひどい。有り得ない!」
カチンときて、私は言い返す。
「それ、女子には絶対に言っちゃいけないセリフだよ。女子にとってブスとデブは、死ねって言うのとほぼ同義語なんだからね!」
私の剣幕に驚いたのか、雪也は一瞬だけ歩みを止めた。しかし、すぐに気だるそうな目で言い返してきた。
「ブスともデブとも言ってないだろ。俺はただ、不細工って言ったんだ。ちょっとした褒め言葉だよ」
わけがわからない。頭に血が上った私は、雪也を黙らせるための言葉を探す。
「何が褒め言葉だよ。不細工はブスと同義語でしょ? 人を傷つけてる暇があるなら、その滑舌を何とかしろよ。このチビが!」
「あっ。今お前、チビって言ったな。俺が傷つくことを知っててわざと言っただろ! お前だって男みたいな外見してるくせに! ちょっとは女らしくしろよ!」
それは、私にとって最も言われたくない言葉だった。雪也にとってはつまらない冗談の一つであっても、私にとっては重大な問題を孕んでいる地雷の一つだったのだ。
「今の言葉、絶対に許さない。相手が雪也であっても」
真顔で言い放つ。雪也は明らかに怯んだ様子で、口を閉ざした。
他の人間にとってはつまらないことでも、言われた当人にとっては地雷になる場合がある。心にひびが入る音を聞かれたくなくて、私は雪也に背を向けて走り出した。背後から、私を呼び止める雪也の声が聞こえてきた。
「おい。どうしたんだよ、急に。さやか。何なんだよ、さやか……」
私は生まれつき、女らしくない。物心ついた時から何かが違っていて、男に生まれればよかったと未だに思っている。
そんな私が演劇部で男役ばかりを演じるようになるのは、もう少し先の話である。
8/4/2024, 12:45:17 PM