『目が覚めるまでに』
隆太が気持ちよさそうに寝息を立てている。呼吸するたび、頑丈そうな胸が大きく上下する。私は、隆太の長い睫毛にそっと視線を落とし、小声で呟いた。
「ごめん。あなたのこと、私はもう好きじゃない」
隆太に近づいたのは私の方だったのに、こんなにも簡単に崩れ去ろうとしている二人の関係性が可笑しくて、私は少し笑う。
マナーモードにしたスマートフォンのバイブが、私を現実へと連れ戻した。メールの受信を告げる無機質な通知。画面には、もう何度も見てきた名前が表示されていた。
隆太の目が覚めるまでに、ここを出ていかなければならない。私たちの関係は終わったのだから。
私は貴重品の入ったバッグだけを持って、急いで玄関へ向かい、靴を履いてドアを開けた。早朝だというのに、真夏の蒸し暑い空気が私の全身を包み込んだ。歩きながら、メールに返信する。
娘さんと片岡隆太の件、無事に終わりました。なお、依頼の報酬についてですが……
途中まで文章を打ち込んだ所で、急に目の前が霞んだ。体が小さく震え、上手く入力ができない。
「こんなつもりじゃなかったのに」
いつからか、隆太のことを本気で好きになっている自分がいた。私は別れさせ屋であり、仕事が終わったら隆太との関係はなくなるはずだった。それなのに、隆太の今後のことを真剣に考え始めていた。
遊びで付き合っていた女友達のことも、そして私のことも、隆太は失うことになる。彼のことだから、またすぐに新しい女性を見つけるだろう。しかし、それまでの間は裏切られたという気持ちを抱えたまま一人で生きていかなければならない隆太のことが、可哀想で仕方なかった。
嗚咽が漏れる。私はその場にしゃがみ込むと、声を殺して泣いた。
***
あの女、加納広佳が去った後。俺は充分すぎるほど周りに気を配りながら、亜実に電話をかけた。加納のことだから、盗聴器の一つや二つ、仕掛けていてもおかしくはない。幸い、加納が戻ってくることはなく、入れ替わるように亜実が現れた。
「隆太。別れさせ屋の女は出ていった?」
亜実が尋ねる。俺が頷くと、亜実は不敵な笑みを浮かべた。
「うちの馬鹿親も、別れさせ屋も、みんな目が曇ってる。小劇団とはいえ、劇団員を舐めるなって感じだよ。私、これでも死ぬ気でお芝居したんだから」
別々の小劇団に所属していた俺と亜実は、一年前から交際している。表面上は遊び半分の付き合いを装っているが、俺は本気で亜実のことが好きだ。多分、亜実も同じ気持ちだろうと思う。
数ヶ月前、亜実の親が別れさせ屋を差し向けてきた時も、俺たちは動じる気などなかった。別れさせ屋の加納広佳は、最初から俺たちを軽く見ていたし、奴の演技は下手くそで目も当てられないほどだったからだ。俺と亜実は、真剣に演技することで逆に加納を騙すことにした。俺は加納を好きになるふりをし、亜実は俺に裏切られたふりをした。作戦はたった今成功し、亜実は俺の元へ戻ってきたというわけだ。
普段は控えめな亜実が、柄にもなく大欠伸をした。
「お芝居のしすぎで疲れちゃった。ちょっと寝ていい?」
「ああ。俺のベッド、使っていいからな」
亜実の両親が諦めるとは到底思えない。だから今は戦士の休息ということで、亜実にもゆっくり休んでもらおう。
寝室に入っていった亜実の背中を見送り、俺はパソコンを起動した。半年後に行われる公演の脚本が、まだ仕上がっていなかった。
亜実の目が覚めるまでに、この脚本を完成させてしまおう。そして俺はいつかプロの劇作家になって、亜実の両親を納得させてみせる。
亜実の可愛らしい寝顔を想像しながら、俺は脚本の続きを書き始めた。
『病室』
怪我で手術をした友人の麻理香を見舞うため、川沿いにある総合病院を訪れた。受付で、骸骨のように痩せた係の女性に言われるまま手続きをして、病棟に入る。静かな病棟からは時々、見舞客と思われる女性や子供の声が聞こえていた。しかし、やはり病人がいる場所なので、全体的に静寂の中に沈んでいる。
病室のドアをノックして中に入った。クリーム色の壁紙が張られた部屋の中、四つ並ぶベッドの最も入口に近い一つに、麻理香がいた。上体を起こしてはいるが、足には包帯が幾重にも巻かれていて痛々しい。
「薫。来てくれたんだね」
私の姿を認め、麻理香は弱々しく微笑んだ。私は、持ってきたリンゴと白桃を手提げから出し、麻理香の前に置いた。
「これ、近くの果物屋であまりにも美味しそうだったから買ってきたの。よかったら食べてね」
肉の加工工場に勤めている麻理香は、実は肉よりも果物の方が好きなのだ。私もそれを知っていたので、お見舞いには果物を持っていこうと決めていた。
案の定、麻理香は目を輝かせた。
「凄い。薫は私のことを本当にわかってくれてるね」
「それはそうだよ。何年友達付き合いしてると思ってるの?」
私の問いには答えず、麻理香はにっこりと笑って白桃にかぶりついた。先ほどまでの弱々しい姿が嘘のようだ。
「美味しい。甘味が濃厚で、とろけそうな感じ。病院食って味が薄いから、こういうものが食べたくて仕方がなかったんだ」
無邪気な笑顔で言い、さらにかぶりつく。こういう現金な所が麻理香の長所だと、私は思う。
カーテンで区切られた隣のベッドから、咳払いが聞こえた。気のせいか、途端に病室の壁の色が少し青褪めたような気がした。
「やばい。隣の人、また怒ってる」
麻理香が慌てて口の中のものを飲み込み、ちらりと奥にあるベッドを窺った。そして声を潜める。
「隣の人、死神なんだって。あまり怒らせるとあの世に連れてくよって、毎日脅されてるんだ」
そういう麻理香は、魔女の資格を持っている。
この世界に住む一部の人間が魔力を持つようになったのは、百年以上前だと言われている。麻理香は、いわゆる善性の魔女で、食べ物を美味しく加工する魔術が得意だった。しかし、魔力を持つ人間全てが善性とは限らない。時には、死神と呼ばれるような恐ろしい力を有する者もいる。
ここは、魔力を持つ人間専用の病院だ。見舞客には私も含め、力を持たない者もいるけれど、病院スタッフや患者たちは皆が魔力を持っている。
声のトーンを落としたまま、麻理香が言った。
「おととい、隣の人と斜め前の人が喧嘩した時もひどかったんだよ。斜め前の人が水の魔術を使って、この部屋を水浸しにしちゃってね。隣の人も怒って、あの世に送る呪文を唱えようとするし。結局は看護師さんが、雷を呼ぶ魔術を使って二人を黙らせて終わり。怖い怖い。みんながもっといいことに魔力を使えたらいいのにね」
同感だ。私は苦笑いして頷いた。
それにしても、魔術を使う者同士で喧嘩とは。ここでの入院生活も何かと大変そうだ。
『明日、もし晴れたら』
「最近雨ばっかりだね」
私の隣でバスを待ちながら、幸恵が言った。幸せで、かつ恵まれるように、という欲張りな名前を持つこの十年来の友人は、雨降りの日が嫌いだ。だって陰気で湿っぽいんだもの、と雨降りのたびに彼女は口にする。
「この程度の雨、すぐに止むよ」
気休めのような言葉で幸恵を宥め、私は溜め息をつく。今日もバスは遅れていた。傘からはみ出した腕に雨粒がぽつりと落ち、微かに冷たさを感じる。いつだったかは忘れたが、こんな雨の日に、やはり同じような会話を幸恵と繰り返したな、と不意に思い出した。
この雨を降らせているのが私だということを、幸恵は知らない。降りしきる雨を傘で受けながら、相変わらず幸恵はぶつぶつと文句を言っている。その声を軽く聞き流しながら、私は雨音に耳を澄ませた。
子供の頃から私は雨女である。遠足や運動会の当日には、必ず小雨が降った。友達と遊ぶ約束をした当日に、台風を呼んでしまったこともある。私の持つ記憶は、いつも不機嫌な灰色の空とともに存在していた。
本当に憂鬱だ。嫌気が差して、何度目かになる溜め息を小さく吐き出した時だった。
突然、幼い舌足らずの声が私の耳に飛び込んできた。
「嫌だ! 絶対にピクニック行くんだもん!」
数メートル離れた路上で、幼稚園ぐらいの女の子が泣きながら駄々をこねていた。一緒にいた初老の女性が、困ったように周囲へと視線を彷徨わせながら、女の子を宥めている。
「そんなこと言ってもねぇ。この雨は明日も続くって、天気予報で言ってたんだよ」
初老の女性の声には、焦りが混じっていた。泣き止まない女の子に周囲の視線が集まる。初老の女性が周りの視線を気にすれば気にするほど、女の子の泣き声は激しくなっていく。
急に胸の奥が、ちくりと痛んだ。
この雨が続くのが、自分のせいであるかのような気がして、苦しくなる。
思えば、私は負の感情を溜め込み続けていた。子供の頃、学校のイベントは全て嫌いで憂鬱だった。遊ぶ約束をした友達とも、本当は遊びたくなかった。雨になればいいのに、と願うたびに、天気の神様は私の願いを聞き入れてくれた。まさか台風まで来てくれるとは思わなかったけれど。
幸恵とも、本当は絶交したい。もうすぐ三十路に差しかかるというのに、いつも幼稚で、思ったことを考えなしにすぐ口にする幸恵のことが、私は好きではない。幸恵が雨降りを嫌うたび、私は心の中で願っていた。もっと降れ、と。
今、女の子が気づかせてくれた。嫌いな人を私が呪っているその裏側で、悲しんでいる人がいるかもしれないのだ。
明日は晴れますように。
心の底から願ってみる。駄々をこねている女の子に少しでも笑ってほしくて、そっと願いをかける。
明日、晴れますように。明日、もし晴れたら、あの子はピクニックに行ける。だから神様、お願い。
その晚、大雨が屋根を叩く音を聞きながら、やはり私は雨女だったのかと諦めかけた。それでも、罪悪感は私を解放してくれず、夜中まで願いをかけ続けた。
そして翌日、空は嘘のように晴れ渡ったのだった。
『だから、一人でいたい。』
子供の頃から争いごとが嫌いだった。ちょっとしたことですぐに怒る同級生や、つまらない事情で簡単に他人を争いごとに巻き込む友人たちから、自由になりたかった。だから私は一人でいることを好んだ。
それでも、誰とも係わらずに生きていくことはできないから、必要最低限の付き合いは我慢する。愛想笑いをしながら、最低限嫌われないような振る舞いをして、適当に相槌を打つ。
最初のうちはそれでも何とか上手くやっていけた。しかし、周囲から浮かないよう、形だけの付き合いを続けているうちに、遂に私の心は壊れた。誰とも話したくない。そんな発言を繰り返し、私は自室に引きこもった。
歩夢に出会ったのは、引きこもってから五ヶ月ほど経ったある暑い日のことだった。
「退屈そうな顔してるな。もうじき体中に苔が生えるんじゃないのか?」
埃臭い自室でぼんやりと寝転がっていた私の前に、歩夢は以前からの友人であるかのような、馴れ馴れしい態度で現れた。ミントグリーンのやや色褪せたTシャツにネイビーのダメージジーンズを合わせ、いかにもだらしない風貌なのだが、なぜか汚らしい感じはしなかった。
私はベッドから起き上がり、言い返した。
「そういう歩夢だって、全身にカビが生えたような服装してるじゃない」
「失礼な奴。お前って昔から、口だけは達者だよな」
歩夢は苦笑いすると、私の隣に腰をかけた。安心して、同時に切なくなって、私は顔を覆う。右隣から、歩夢の慌てたような声が聞こえた。
「どうしたんだよ。急に泣いたりして。落ち着けよ。俺が泣かしたみたいじゃないか」
私は顔を上げ、歩夢を見た。困ったように視線を泳がせた歩夢が、私の視線を受け止めてさらに困り顔になる。
「どこへも行かない? ずっと私のこと、裏切らないでいてくれる?」
甘えた声を出した私に、歩夢は頷いた。
「裏切らないよ。当たり前だろ。俺はずっと、千奈と一緒にいる」
そんなことはとっくの昔にわかっている。だって、歩夢を作り出したのは私なのだから。
わかっている。私は、決して自分を裏切らない友達が欲しかった。だから歩夢という存在を自分で作り出したのだ。
「ねえ、歩夢」
私は歩夢の肩にもたれかかり、言った。
「大好きだよ」
私の部屋から独り言が漏れているのを、両親は心配しているだろう。でも、もう外へ出ていくつもりはなかった。外へ出たら、私と歩夢の世界は心ない人たちに破壊されてしまう。そうなるくらいなら、私は一人でいたい。一人でいて、歩夢との世界を守りたい。
世間から、一人ぼっちの哀しい人間だと思われてもいい。もう、私は一人でいい。
一人がいい。
『澄んだ瞳』
水泳の授業があるたび、憂鬱だった。
泳げないわけではない。泳ぎは得意な方だ。長距離を泳ぐのは気持ちがいいし、陸の上では思うように動かない手足が水の中では自由に動く気がする。私の前世は魚だったのではないかと思うほどだ。
それならなぜ、憂鬱なのか。
私は自分の太腿を見下ろす。朝顔のような形をした大きな痣が、太腿の上の方に紫色の染みを作っている。誰かから暴力を受けているわけではない。これは、この世に生まれ落ちた十三年前から私の体にあるものだ。
水着になれば、この痣を大勢の前で晒すことになる。私はそれが嫌だった。いつも皆の視線が私の醜い痣に集中している気がして、どうにも落ち着かないのだ。
プールサイドで授業を見学している永井さんに、そっと視線を向ける。永井さんはストップウォッチを片手に、澄んだ瞳で私たちを見守っている。いつもいつも、私は彼女が羨ましかった。
いいなぁ。水泳、やらなくていいんだもんなぁ。
永井さんは生まれつき心臓が弱く、体育の授業に参加できない。同性であっても思わず見惚れてしまうような、整った顔と白い肌の持ち主で、しかしいつも一人でいる。
きっと永井さんは別世界の住人なのだ。私はそう思うことにしていた。そんなふうに考えなければ、嫉妬に狂ってしまいそうだったからだ。
授業は中盤に差しかかっていた。体育教師が鳴らす笛の音とともに、次々と同級生たちがプールに飛び込んでいく。クロールは得意だった。私は痣を気にしながら、ゆっくりと飛び込み台に向かった。
笛が鳴り、勢いよく水中に飛び込んで泳ぎ出す。視界の隅で、永井さんがストップウォッチを大きく掲げるのが見えた。
その時。
突然、水圧を感じなくなった。両隣を見ると、そこを泳いでいるはずの同級生たちの姿が消えていた。
私は水中に一人、取り残されていた。誰もいない。物音さえも聞こえない。まるで私だけが異空間へ飛ばされてしまったかのように、不気味な静寂が辺りを包んでいた。水面へ顔を出そうとしたが、水面は遥か上方に揺らめいている。溺れる。私は動揺した。
不意に、紺色の半袖Tシャツと同色のハーフパンツを身に着けた女子生徒が、私の前に割り込んできた。同時に私の頭の中で、鈴の鳴るような声が響いた。
「光本さん。落ち着いて、私の言う通りに動いてね」
目の前にいる女子生徒が喋ったのだとわかり、さらに相手の顔を見た私は文字通り、心臓が止まりそうになった。
二つの澄んだ瞳が私を見つめていた。永井さんは、私の手をそっと取ると、細く美しい声で言った。
「このまま、上へ向かって泳いで。あなたの意識は今、水の奥深くにいるの。水面まで上がれば、きっとみんなが気づいてくれる」
言われるままに、私は上へ向かって泳いだ。永井さんの声には妙な圧力があり、従わざるを得ない気がした。
気がつくと、私はプールサイドで体育教師に見下ろされていた。夢から醒めた後のように、意識は朦朧とし、私はしばらく言葉を発することができずにいた。
「永井さんは……?」
ようやく一言だけ喋ることができた私を、体育教師は苦々しげに見て言った。
「永井は保健室にいる。お前が溺れた直後に発作が起きて、その拍子にストップウォッチを止めて倒れたんだ。お前と言い、永井と言い。今時の女子は失神する時まで二人一緒なのか?」
永井さんと話をしなければならない。私は直感的にそう思った。私たちの身に何が起きたのか。なぜ水の中に永井さんが現れたのか。
永井さんの整った顔と澄んだ瞳を脳裏に浮かべる。永井さんが止めたストップウォッチの丸いフォルムも。
失神している間の不思議な体験に過ぎない。しかし、永井さんは全てを知っているのではないか、という疑念が私の中にずっと居座っていた。