imu

Open App
7/18/2024, 9:18:36 AM

ひとりで屋上に上がるのは久しぶりだった。
古びた階段は今にも折れそうに軋む。1人だったからか、いつもより音は小さく聞こえて、それが何となく違和感だった。扉に手をかけた後に、しまった、猪口を持ってくるのを忘れたと後悔したが、引き返す気にもならなかった。どうせ取りに行ったところで、一緒にこの階段を上るもう一人分の足音はいないのだから。
屋上への扉を開けると、煙草の独特な煙の匂いと、少しくすんだ星空が辺りを埋めつくしていた。誰もいない時間を狙ったつもりだったのだが、やはりいつも通りの先客がいたようだ。それでも、そんなことはお構い無しに、先に煙管を吸っていたそいつの傍に近寄っていく。足音に気づいたのか、私の方を向いて少し目を見開いたが、煙管を口から外して少し揶揄うように笑う。

「なんだ、煙草はやめたんじゃなかったのか。久しぶりに吸うのは体に悪いぞ。」

揶揄う言葉には気にもとめず、そいつの隣に立つと久しぶりに煙草の箱を開けた。1本口にくわえてみても、やはり私の口には馴染まない。

「火。」

私にまとわりつく何かを感じたのか、先刻までの笑みは鳴りを潜めて、ただ静かに煙管を蒸して、ライターを寄越してきた。ラッチの音が何回か響く。ガス欠寸前の音だ。それでも、慣れた手つきで火をつける。久しぶりに吸い込んだ煙草の煙は、やっぱり私の口には合わなかった。苦くて咳き込みそうな息を押しとどめて肺の奥に押しやる。吐き出した煙は夜空を灰色にぼやけさせるだけで、他に何も無い。空気に解けて消えるだけ。ぼんやりとしながら1本を半ば無理やり吸い終える。咳き込むことは無かったが肺には違和感が残り続ける。初めて吸ってみた日もそうだった。もう1本出そうとしたところで、大きな手に止められる。

「やめとけって言っただろ。そんな不味そうに吸うなよ。」

呆れた声が耳に届くと、脳の奥のどこかが痺れたようなそんな感覚が駆け巡る。

『馬鹿だなぁ、これが大人の味ってもんだよ。まだお子ちゃまには早かったかな?』

そう言って笑ったかつての戦友が記憶の底から語りかけてくる。
たった数秒の逡巡。それだけでまだあどけなさも残る夜が鮮明に思い出された。この屋上で、こんな綺麗な夜空が広がる世界で、私たちはあの日確かにまだ子供のままだった。
初めて知った煙草の味も、紫煙の匂いも、全部あの日、たった1歩先に大人になってしまった戦友に教えてもらったのだ。少し先に大人になったくらいで、なんでもわかったつもりになっていたあいつを私はまだなりたてのくせに、と笑った気がする。その日の私たちはこの空がまだ一緒に見れると思っていて、この平和は永遠に守られるものだと勝手に思い込んでいた。

そんな遠くの記憶を呼び覚ましている間、声をかけられていたのに気が付かなかったらしい。煙草の箱を開けてやっぱりもう一本取り出す。今度の火は一発で綺麗に灯った。

「おい、ほんとにやめとけよ。体悪くするだけだぞ。」

本気で心配してるのか、それとも呆れているのか。正直私にはどうでもよかったが、煙草を口の前で止めて少し微笑む。今更あいつに言葉を返すには少し恥ずかしいし、こそばゆいがまぁいいだろう。遅くなってしまったのだから、これぐらいは我慢だ。

「もう子供じゃないんでな。大人の味ぐらいわかってるんだよ。」

あいつは目をぱちくりさせて、よく分からねぇけど、と言いながら煙管を蒸すのに戻った。
私もつられてタバコを口にくわえた。今日の空もよく澄んでいて、煙草を吸っても咳は出なかった。

7/16/2024, 9:59:54 AM

「もう、終わりにしましょう。」

口をついて出た言葉は、思っていたよりも私の中の熱を上げた。こんなにも私の口に馴染む言葉が今までにあっただろうか。告げられた方は、打てば響くような、そんな回答が出てくる訳もなく、ただじっと私の方を見ていた。薄黄色のカーテンだけがこの世界で動いている。時間が止まってしまった世界で2人、瞳だけで会話をする。この世界では言葉も不要で、飾ったような偽善も、優しい嘘も、残酷な現実だって要らなかった。ただ、語らずとも通じるこの感覚だけがこの世界に必要なものだった。

ゆったりと流れる時間の中に、チャイムの音がこだます。それを合図にこの沈黙に我慢できなくなったのか、向こうの方から手を取って走り出した。私はただ、されるがまま。どこに行くのか、何をしようと言うのか皆目見当もつかなかったが、ただ漠然と切って素敵なところなんだろうなと感じていた。
過ぎる風景が走っている速度とあっている気がしなくて、世界の速さに目眩がした。階段を駆け上って、教室をぬけて。扉を開けた先に拡がった景色が、あまりにも壮大で、私たちなんか、自分が思っているよりも大きな存在では無いのかもしれないと思わせてくれる。今私たちがやろうとしていることさえも、この世界では本の1行にも満たない、小さな行動かもしれないと苦笑をこぼすほどに、広がる空は広く、優しく、そしてやっぱり無慈悲だった。

沈みかけている紅鏡に背を向けて、鮮烈なオレンジ色の中に佇み、少しの間だけ世界に反抗しているような、そんな感覚を味わう。

「やっぱり怖くなってきた?」

そう言って私の顔を覗き込んでくる。揶揄うような口調が愛おしくて、もう少しこの声を聞きたいと思えてきた。
それでも、愛おしく思えば思うほどに私たちはこの世界で生きることに向いていないことが手に取るようにわかってしまう。大事に大事にされて、箱庭で生きるよりは、きっとこの世界から解放されて別に生きた方が私たちに向いている。箱庭の中では上がる槍玉を避けることは出来ないのだから。

これは反抗だ。幼稚で、それでもただひたすらに無垢で、皮肉を込めたこの世界への小さな小さな反抗。
手を取って、フェンスの傍に立つ。

「やっとおわれる。」

ぽつりと呟いた言葉ににっこりと微笑みを浮かべ、箱庭の外に1本足を踏み出した。
夕暮れと夜空はこの世界の境界線を彩って、最後の景色には相応しいものだった。

4/15/2024, 10:58:10 AM

夕暮れ時の教室。

外では暗くなっていくのに負けじと声を張り上げる野球部の掛け声とか、合奏中であろう吹奏楽部の楽器の音とかが鳴り響いている。私しかいない薄暗い教室にそれらの音は吸い込まれて、ここには鉛筆を滑らせる音がリズム良く響いているだけだった。書くのに没頭していた私は5時を告げるチャイムが鳴り、そこでようやく顔を上げた。書き上げたものは自分の中での力作で、相当集中して書いたからか緊張の糸が解けて溜め込んでいた呼吸が一気に肺へと流れ込んでくる。久しぶりに少し長文になってしまったので手首の痛さは否めないが、ようやく自分の満足するものがかけたのだ。代償としては安すぎるぐらいのものだろうと1人静かに唇に弧を描き、荷物をまとめ始めた。帰り支度が整うと目の前のカーテンが揺れて、オレンジ色の眩い光が視界に広がる。カーテンが光を孕んでいてまろやかになっていたからか、思っていたよりも鮮烈に夕日が網膜を焼いた。5月半ばとは思えない爽やかな風がカーテンを揺らす。紅鏡は傾けば傾くほどに鮮烈な光をこの世に残して、この後に連れてくる暗闇をより濃く落としていく。

暗闇になってしまう前に、私はその場でサッとカーテンを開けて、窓の外を覗き見た。この夕日が暗闇を連れてくるのならば、世界を染めあげる眩さとともにこの気持ちも去ってもらおう。沈む夕日に連れられて届かない想いもどこか遠くへ、絶対に届かない場所まで運んで。そんな願いを込めて、さっきまで書いていた紙を折りたたんで紙飛行機をつくる。風が私の腕を押した。風に乗った紙飛行機はそのままどこかへ飛んでいってしまった。
こんなこと一体何回続ければ気が晴れるのだろうか。やっぱり明るさが連れてくるのは深く黒い暗闇であって、私の穴は決して埋まってくれない。

「返事なんか来るわけないのに…」

ポツリと呟いた声に答えが返ってくる訳もなく、持っていたシャーペンが床に落ちる音だけが妙に大きく教室に響いた。