ひとりで屋上に上がるのは久しぶりだった。
古びた階段は今にも折れそうに軋む。1人だったからか、いつもより音は小さく聞こえて、それが何となく違和感だった。扉に手をかけた後に、しまった、猪口を持ってくるのを忘れたと後悔したが、引き返す気にもならなかった。どうせ取りに行ったところで、一緒にこの階段を上るもう一人分の足音はいないのだから。
屋上への扉を開けると、煙草の独特な煙の匂いと、少しくすんだ星空が辺りを埋めつくしていた。誰もいない時間を狙ったつもりだったのだが、やはりいつも通りの先客がいたようだ。それでも、そんなことはお構い無しに、先に煙管を吸っていたそいつの傍に近寄っていく。足音に気づいたのか、私の方を向いて少し目を見開いたが、煙管を口から外して少し揶揄うように笑う。
「なんだ、煙草はやめたんじゃなかったのか。久しぶりに吸うのは体に悪いぞ。」
揶揄う言葉には気にもとめず、そいつの隣に立つと久しぶりに煙草の箱を開けた。1本口にくわえてみても、やはり私の口には馴染まない。
「火。」
私にまとわりつく何かを感じたのか、先刻までの笑みは鳴りを潜めて、ただ静かに煙管を蒸して、ライターを寄越してきた。ラッチの音が何回か響く。ガス欠寸前の音だ。それでも、慣れた手つきで火をつける。久しぶりに吸い込んだ煙草の煙は、やっぱり私の口には合わなかった。苦くて咳き込みそうな息を押しとどめて肺の奥に押しやる。吐き出した煙は夜空を灰色にぼやけさせるだけで、他に何も無い。空気に解けて消えるだけ。ぼんやりとしながら1本を半ば無理やり吸い終える。咳き込むことは無かったが肺には違和感が残り続ける。初めて吸ってみた日もそうだった。もう1本出そうとしたところで、大きな手に止められる。
「やめとけって言っただろ。そんな不味そうに吸うなよ。」
呆れた声が耳に届くと、脳の奥のどこかが痺れたようなそんな感覚が駆け巡る。
『馬鹿だなぁ、これが大人の味ってもんだよ。まだお子ちゃまには早かったかな?』
そう言って笑ったかつての戦友が記憶の底から語りかけてくる。
たった数秒の逡巡。それだけでまだあどけなさも残る夜が鮮明に思い出された。この屋上で、こんな綺麗な夜空が広がる世界で、私たちはあの日確かにまだ子供のままだった。
初めて知った煙草の味も、紫煙の匂いも、全部あの日、たった1歩先に大人になってしまった戦友に教えてもらったのだ。少し先に大人になったくらいで、なんでもわかったつもりになっていたあいつを私はまだなりたてのくせに、と笑った気がする。その日の私たちはこの空がまだ一緒に見れると思っていて、この平和は永遠に守られるものだと勝手に思い込んでいた。
そんな遠くの記憶を呼び覚ましている間、声をかけられていたのに気が付かなかったらしい。煙草の箱を開けてやっぱりもう一本取り出す。今度の火は一発で綺麗に灯った。
「おい、ほんとにやめとけよ。体悪くするだけだぞ。」
本気で心配してるのか、それとも呆れているのか。正直私にはどうでもよかったが、煙草を口の前で止めて少し微笑む。今更あいつに言葉を返すには少し恥ずかしいし、こそばゆいがまぁいいだろう。遅くなってしまったのだから、これぐらいは我慢だ。
「もう子供じゃないんでな。大人の味ぐらいわかってるんだよ。」
あいつは目をぱちくりさせて、よく分からねぇけど、と言いながら煙管を蒸すのに戻った。
私もつられてタバコを口にくわえた。今日の空もよく澄んでいて、煙草を吸っても咳は出なかった。
7/18/2024, 9:18:36 AM