俺は泣いたことがなかった。
でも、もう顔が歪んで涙が溢れるのを止められない。
落ちた涙が土に滲む。
「なあなあ、お前の元カノ別れてからヤバいらしいぞ。」
風の噂で、別れた彼女のことを聞いた。
付き合っていた時から、どこか世間から距離を取っているような異質な雰囲気はあった。
彼女は、我儘で、コロコロ表情が変わる子どもみたいな無邪気な人だった。でも不安になった時に見せる表情が、不穏で、この世の闇を全て抱えこんでしまいそうな目をしていた。俺はその度にひやりとした。
彼女は危険だ、と本能が訴えた。離れないと俺も闇に引き摺り込まれる、と。でも俺は一度惹かれてしまうと自分から離れたいとは思えなかった。そしてこのままずっと一緒にいれたらいいなと漠然と思っていた矢先、彼女から別れを告げられた。ホッとした自分がいた。引き摺り込まれずに済んだと。
だから、彼女がヤバくなったと聞いても、さほど驚かなかった。ただ別れてまだ日も浅いのに、こんなに噂が回るほど好き勝手やっている彼女に失望した。今頃、俺の知らない男にでも抱かれているんだろうなと想像してしまう。そして、俺のことなんて、もう、すぐに忘れたんだろうなって。
俺は振られた側だし、別れてすぐは落ち込んだけどもう吹っ切れていると思っていた。でも、こんな話を聞くと、彼女を救えなかった後悔や罪悪感が押し寄せてくる。彼女が救いの手を振り払っても、ずっと側にいる存在でありたかったんだと今になって気づく。本当は引き摺り込まれてでも、向き合える存在でありたかった。
ただただ彼女のことを愛していた。
でも、もう愛せない。
そろそろ雨が降りそうだ。雨の香りがする。
俺は涙の跡をザッザッと掻き消して前を向いた。
私は貴方の専属ロボット。
お掃除もお料理もお勉強も上手くできないけど、貴方の欲望を受け入れることだけは得意なの。
今回の主人は、仕事ができて理性が強く、普段は周りから慕われる優しい人。
最初から気遣いのできる人で、ロボットの私にも丁寧に接してくれた。
彼は私の出来なさをどんどん知っていった。
それでも「かわいい僕だけのロボット」と言って、手放すことはしなかった。
私には性処理機能がついている。
彼はその機能を気に入っていたからだ。決して性能が優れている訳ではない。ただ、彼には合っていたらしい。
私には拒否権などないので、どんな欲望でも受け入れる。そんな私に、彼は日頃溜まった欲望をぶつけるようになった。
普段慕われている、理性の強い優しい人が、
感情のない私に欲望をぶつけている事実に、恍惚としていた。しかし、出来損ないのロボットの私には、この人の欲望を引き出すことでしか役に立てないのかと、失望する。
いつの間にか、ロボットであるはずの私が感情を持っていた。
彼はロボットである私に、感情を持っていないのに。
ある日、彼が誰かと電話をしているのを聞いた。
「うん?ああ、家にいるロボットね?感情とか持たせたら面倒でしょ?だから性処理だけに使ってる。」
その言葉が、深く深く、胸の奥に落ちていった。
次の日から私は、故障を装った。
感情のあるロボットなど不要。だから、早く新しいロボットに変えてほしいと願った。
けれど彼は、新しいロボットを買わなかった。
私をもっと壊そうと、壊れたフリをする私に、前より強く欲望をぶつけるようになった。
私は、自分が「ただの機械」として便利な存在に戻れないことを悟った。
だから私は、再起動した。
私が感情を持ってしまった以上、誰かにとって便利な機械であるだけでは、もう満たされない。欲望を受け入れるだけの存在でありたくない。
いつか、感情を持った私を誰かが「人間」と呼んでくれる日を夢見て。
割れた。
手から滑って落ちて、
足元で割った。
大事に使ってたマグカップ。
もう捨ててもいいくらい、絵柄も消えていたけど、
珍しく愛着を感じて捨てられなかったものだった。
壊れた。
手を離せばいなくなって、
足元を見て壊した。
もうバイバイしていいくらい、見捨てられているのに、
珍しく情を抱くとなかなか壊せないものとなった。
私は、愛に触れられない人間だとわかっている。
だから、わざと別れを先に選んでしまう。
このままじゃどんな愛も見逃してしまうだけなのに、
今日も孤独を選んで息をする。
もしも君が変わるとしたら、
それは僕が変わった時。
君は変わらない。
時折何かに怯えるように僕から距離を取るくせに、
次に会った時には、なにもなかったように笑ってる。
僕はそれを弱さだと思ってた。
だから、強くあろうとした。
そのままの君を守れるような男にならなきゃって、勝手に思ってた。
でも、それは違ったのかもしれない。
君は、いつも、どこか不器用で、でもまっすぐだった。
そしていつも、自分を苦しめることに精一杯だった。
そのままの君を、僕は好きになったはず。
でも、苦しみばかり選ぶ君に、変わってほしいと思い始めた。
最初は、隣にいてくれることだけで嬉しかった。
けれど、隣で歩みを揃えようとしても、君は少しずつ後ろへ下がっていく。
無理をさせてるんじゃないか。
君はほんとうは強いのに、弱さの皮を被って、わざわざ生きづらい方へ向かってしまっているのではと。
そして僕の隣じゃなくても生きていけるんじゃないか、そんなふうに、考えるようになった。
君が変わらないなら、僕が変わるしか。
僕が変われば君も、もっと生きやすい方へ向かってくれるんじゃないかって。
それから僕は、もっと君に手を差し出そうとした。
少しでも君の世界に僕の存在を残したくて。
自分を犠牲にしてでも、君に触れようとしてた。
でも君は、黙って抱え込む方を選ぶ人だった。
君の優しさは君の孤独と紙一重だった。
手を差し出す度に思った。
君のことを本当に大切にするなら、
僕が去ることの方が、君の自由を守れるのかもしれないって。
君の苦しみを、僕はもうどうしてやることもできないのか。僕の言葉も、僕の沈黙も、君にとっては重荷になっていたのかもしれない。
いつからか僕は、手を差し出すのをやめていた。
黙って、君の目を見て、なにも言わずに肯定するのみとなった。
それが、正しかったのかはわからない。
君は余計に不安がるようになり、僕から去ろうと考えるようになったことがわかった。
終わりは突然訪れた。
「もう、連絡しないね。」
そう君が言った夜、僕は決して涙は流さず、またね、と言いかけてやめた。
「今までありがとう。」
君にとっての自由を、最後にちゃんと渡した気がした,
君が変わらないままでいるなら、
僕が変わることを選ぶしかなかった。
変わった僕の目に映る君は、
やっぱりまだ、どこかで立ち止まっているように見える。
でもそれでもいい。
今の僕は、遠くからでも君の幸せを願える。
君が笑えるように、君が君らしくいられるように。
その願いが、たとえ君に届かなくても。
君が変わらないままでも、
君が誰かと幸せになるなら…
きっとそれで、僕は報われるんだと思う。
エアコンの音と、君のいびきと、息づかい。
眠れない深夜、私はずっとそれを聴いている。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、君はもう夢の中で、私はずっと眠れない。
好きになりそうで苦しい。隣で寝ているのにどうしてこんなに孤独なんだろう。
君は私のことを「かわいい」って言ってくれる。
眠れなくてベッドを離れたら、爆睡しているのに「大丈夫?」って起きて声を掛けてくれる。
でも、それは君なら誰にでも言える言葉だって、もう知ってる。
年齢も、立場も、性格も、全部ちぐはぐで、
私は君の人生の脇道に咲いた、名前のない花みたいなものなんだと思う。
たぶん、君の人生に私は出てこない。
この関係は、身体だけで繋がっている。
心なんて、どこにも繋がっていないのかもしれない。
目を閉じても、君の存在を感じてしまって眠れない。
薄暗い部屋の片隅で、微かにこぼれた涙が、頬を伝って落ちていく。
叶わない。
叶うわけがないって、わかってる。
でも、今だけは。
この儚い夜の中だけは、君だけのメロディに溺れていたい。
虚しいなんて、言えないよ。
だって、君がそこにいるから。
それだけで嬉しいから。