私は、破れた恋ではない。文字通り、恋を失ってしまったのである。
六月の頃である。湿度が高く、気温の高い日のことだった。
私の彼氏はサッカー部の部長。今日もグラウンドで部活をしていたのだが……
「ナギ! 大変! ハジメ君が倒れて救急車で運ばれたって!」
同級生の女の子に最初に教えてもらった。
ハジメは私の彼氏である。彼女である私に、続々と報告が入ってくる。
それからの記憶がない。
気がついたら、彼氏の葬式に出ていた。
体が暑さになれていなく、炎天下の中飲み物も飲まず、重度の熱中症で亡くなった。
いきなり大切な愛する人を失った。恋を失ってしまった。
別れを告げられた、とか、片思いがだめになった、とかではなく、本当に突然恋を失ってしまったのだ。
失った恋は取り戻せない。新しい恋が始まっても、ハジメとの恋は失ってしまった。
すっぽりと心が抜け落ち、何も考えられなくなっていた。
さようなら、ハジメ。好きだったよ、ハジメ。
【失恋】
大人になったら我慢の連続だと知っていた。
上司にはぺこぺこしなくちゃいけないし、後輩にも気遣いをしないと辞めていかれるし。
社会人五年目、まさに中間の年数。
いつから自分の感情やしたいことを圧し殺して生きてきたのだろう。
そんな私にも、彼氏ができた。まだ付き合って1ヶ月。
仕事が定時に終わることはほぼない。今日の仕事も夜十時に終わった。
辺りはとっぷり暮れている。そんな中、スマホを開くと、光がぼんやりと私と周りを照らす。
にやける私の表情が、近くに誰かいたらばれたかもしれない。
この彼氏との少ししかやりとりできないが、これが至福の時だった。
朝八時には、私はもう会社にいて仕事をしている。でも、今日頑張れば、明日は彼氏とのデート。
「ナカイさん、明日人が足りないので、出勤してくれるかしら」
いつもの私なら、自己犠牲で嫌でも出勤していたけれど。
「すみません、明日は大事な予定があるので」
「……え、それは困ったわね、ナカイさんしか頼める人いないんだけど……」
「すみません、将来がかかってますので、出勤できません」
初めて素直に正直に上司に言った。
窓から差し込む朝日がやけにすがすがしかった。
【正直】
体のあちこちが痛い。
腱鞘炎も腰痛も頭も痛い。
ダルい身体で、ぼんやりとした視界を確認する。
--あぁ、朝か。
サァとシャワーのような音が窓辺から聞こえた。きっと今日も雨なのだろう。
六月は梅雨の季節というけれど、こんなにぴったり梅雨入りすることはないだろう。
重い身体をお越し、カーテンを開ける。
窓には雨と結露した水滴と、自分のダルそうな姿が映っている。
「はは、ひどい」
思わず笑った。
外の景色が酷いのか、自分の顔が酷いのか、はたまた両方か。
一度大きく伸びをすると、体のあちこちがバキボキとなる。年はとりたくないものだ。
特にこの梅雨の時期に痛みが悪化する。
身体のメンテナンスが追い付かない。
夏は夏で暑くて夏バテするが、梅雨も梅雨で節々に支障がでることを若者に伝えたい。
本日もまた、朝が来たので、仕事である。
【梅雨】
カフェで二人きり、50歳も半ばになり、初めてマッチングアプリなるものを始めた。
今日はそこで知り合った女性と初めて対面出会うことに。
ダメ元で行ったら、カフェの前にプロフィール画像と同じ人物がいた。本当にいた。
何がそんなに驚きかというと、年齢が30個も違うからだ。
短くかった茶髪の髪型はスポーティーさがある。しかし服装はパステルカラーで女の子らしさがあった。
軽く挨拶をし、カフェへと入る。
アプリで何度かやり取りをしているはずだが、やはり対面だと物腰柔らかとはいかない。
何か話題を、と考えても、出てきたものは
「今日は暑いですね~」
違う、そうじゃない。
「もう明日から六月ですからね、台風も近づいてますし」
彼女から返答はあるが、違うのだ。
「そろそろ梅雨にも入りますね~湿気多いの嫌だなぁ」
だから、そうじゃない。天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、
「あの、オオキさん、どうして、私と会ってくれたんですか?」
まさか、彼女の方から先陣を切ってくれた。笑えてしまった。
そう、天気の話じゃなくて、僕の思っていたことはそれなのだ。若いのに、きちんと意見も言える子らしい。
なんだか緊張がとけ、僕は彼女の問いに答えるのであった。
【天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、】
目が覚めると、辺りは真っ暗だった。
真っ暗、というより、真っ黒だった。
自分の手を顔の前に当ててみても、手がそこにあると感じるだけで、見えはしない程の暗さ、黒さ。
ここはどこで、自分が何をしていたのかを思い出そうとするが、すっぽり記憶が抜け落ちている。
とりあえず、光を探したい。
障害物はないか、と、しゃがんだ格好で、床に手をあてて進もうとするが……
--指先に、何やらヌルリとした感覚がある。
温かさは微かに感じる程度で、粘度的に水ではないのもわかる。
一体これは何か、と、考えるのも束の間、人ならざる者の咆哮が辺りに轟く。
とても近い。腹に響く太鼓のような衝撃波があった。
しゃがんだまま辺りを気にして逃げていては、ひとたまりもないことくらいはわかる。
私は立ち上がった。そして、走る。
目的地はわからない、そもそも真っ直ぐ進めているかもわからない。
咆哮の主に襲われんと、ただ、必死に走る私。
きっと先程のヌメリ気のある液体は食われた物の体液だろう。襲った物も襲われた物も何かかはわからない。でも、本能が逃げろと、走れと命じている。
何かから逃げるように、と。
【ただ、必死に走る私。何かから逃げるように】