小さな雨粒が、ため池をさわさわと揺らす。
ため池に跳ねる雨粒と、東屋の屋根から伝って落ちてくる水が一種のハーモニーを作り上げている。私は、この雨の時節の静かな騒々しさが結構好きだったりする。隣では、雨で濡れそぼった君の肩口が、小さく震えている。
「ハンカチ、使う?」
そう言ってポケットの中のハンカチを取り出して差し出す。
「いいよ、日向ちゃんだって濡れてるじゃん。それにあたし、結構丈夫だし」
私は尚もハンカチを差し出そうとしたが、藤原さんはどうしても受け取ろうとしなかったので、仕方なくハンカチをポケットにしまう。
部活帰りに二人で歩いていた私たちは、両方とも天気予報を見ておらず、急に降り出した雨にびっくりしながら近くの公園の東屋で雨宿りすることになった。
「そういえば、もう大会まで二週間だね」
藤原さんが頰杖をついたままそう話しかける。私は、そうだね、そろそろ小道具も仕上げて行かないと、としどろもどろに答える。
藤原さんとは小学校も同じだったが、私とは違って派手なグループに居たので、そんなに関わりは無かった。私たちの関係性の転換点となったのは中学校に入った時だ。中学校では珍しい演劇部という部活に入った私たちは、元々家が近かったのもあって、すぐに仲良くなった。派手でスタイルが良くて、明るく皆に人気者の藤原さんは役者を、対する私は照明をやっていた。隠と陽、と言う属性がぴったり当てはまる私たちは、まさに部活での仕事もそんな感じで、こうして藤原さんの隣にいるのも、本当は少し烏滸がましく感じている。
「そういえば日向ちゃんはなんで照明をやろうと思ったの?」
揺れる水面を眺めながら藤原さんが私に聞いてくる。私も同じ様に水面を眺めながら、
「私、舞台演劇が好きだけど、あんまり人前に出るのが得意じゃなくって、だから、せめて舞台で演技する人たちを、陰からでも、明るく照らしたいな、ってそう、思って」
半分、嘘をつく。人前に出るのが得意なのは本当だった。でも、私が本当に照らしていたいのは、舞台で演技する人たち、なんて言う漠然としたものじゃなくって、藤原さん、だけだった。雨に打たれて冷え切ったはずの体が火照り出す。藤原さんは私の答えを聞くと、そうなんだあ、と少し平坦な声で言った後、
「私はね、私が舞台の上で輝くのを、見せたい人がいて。最初はただただ目立てるから、楽しそうだから、って理由なんだったんだけど、今ではもう、その人の目にどれだけ魅力的に写るか、それだけを考えてる」
膝を抱えながらそう言う彼女の横顔は、恋をしている表情をしていて、やっぱり藤原さんにもそういう相手がいるんだな、と思って私は少し胸が痛くなった。何の気もない風を装って、
「因みに、どんな人なの?」
と聞いてみる。すると藤原さんはまっすぐ私の目をみながら顔を紅色に染めて、
「その人はね、ちょっと地味で、引っ込み思案で、でも面白くて、優しくて、小柄なのに意外と包容力があって、可愛い人」
と言ってくる。私は藤原さんの思わせぶりな態度に動揺しつつ、
「可愛い人って、女の人なんだ」
と呟き、藤原さんにそういう相手が居ない事に、内心大きく安堵する。すると藤原さんは少し怒ったように
「………後、自分が十分魅力的な事にも気づかずに人の魅力を引き出すのに躍起になってて、鈍感な人かな」
と尚も”その人”の特徴を言ってくる。私は心音のボリュームが大きくなっていくのに気付きながら、
「その人は、随分自信がないんだね」
と言ってみる。藤原さんは、
「そう、自分に自信がなくて、ここまで言ってもまだ気づいてないフリをしてて、未だに私の事を藤原さん、って呼んでくる人」
と言ってくる。いつの間にか藤原さんが私の近くまで来ていて、藤原さんの肩と、私の肩がピト、とくっつく。
「そんな事言われると、私勘違いしちゃうじゃん」
私はそう言葉を絞り出すのが精一杯だった。藤原さんが自らの腕を私の腕に絡めてくる。
「勘違いじゃ、ないんじゃない?」
そういう藤原さんの声は、普段の元気いっぱいな声でも、たまに見せるローテンションな声でも無く、いつもよりも可愛くて、そして、震えていた。
「でも、私なんか、別にそんな魅力なんかないし……」
焦って変なことを口走ってしまう。藤原さんは真っ赤な顔に微笑みを浮かべて
「さっき散々言ったのに、まだ言われ足りないの?」
と言い、耳元にその瑞々しい唇を近づけ、
「優しくて、可愛くて、辛い時でもそっと見守ってくれるところ、ずっと大好きだったんだけどなあ」
と言ってくる。頭の中が藤原さんの声で蹂躙される。私は顔を真っ赤にしながら
「分かった、分かったから!……その、ほんとに、私なんかが好きなんだ……」
と一旦藤原さんを振りほどく。藤原さんは自分のしている事に気がついたのか、少し焦った様子で
「いや、そうだよね、き、急に言われても困るもんね、こんな、ただの友達から、なんて」
と弁明してくる。覚悟を決めなきゃ。そう思った私は、そんな藤原さんの手をそっと握って、
「私もね、さっき、舞台に立つ人たちを照らしたい、って言ってたけど」
藤原さんの大粒の瞳がハッと見開かれる。
「実は、あれ、半分嘘なんだよね。本当は、藤原さんだけを、照らしたくて、一番美しい貴女を、一番美しく見せたくて、だから、照明をやってるの」
驚愕で固まっている藤原さんの、細くて美しい指を、私の指と絡める。
「だから、私も藤原さんの事が好き、なんだ」
と言い放つ。藤原さんはもう暫く固まった後
「…………本当に?」
と聞いてくる。少し余裕が出てきた私は
「本当だよ。ていうか、藤原さんから先に告ってきたんでしょ」
と返す。藤原さんは、そうなんだ、そっかあ、と一人でひとしきり呟いた後、
「じゃあ、これからもよろしくお願い、します」
とよそよそしく言う。そんな藤原さんの姿が面白くて、私は思わず笑ってしまう。藤原さんが恥ずかしそうに、ちょっと、笑わないでよ、と言ってくる。私はごめんごめん、といいながら笑いを納めて、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
と言って上半身だけで礼をする。
池の水面で芽吹き出している睡蓮の鮮やかな緑色が、ふと目に入った。
もしもタイムマシンがあったなら、もしも、タイムマシンが実在したならば。
私は、一体貴女にどんな言葉をかけるのだろう。
薄明かりに照らされて橙色に染まった瞼をゆっくりと開き、真っ白な天井を仰ぎ見る。閉め切っている窓を貫通してくる蝉の鳴き声が、夏の朝の気怠さを加速させる。そっと、眦に溜まっていた涙を掬う。消えかけている夢の残骸と、涙の源となる毒のような悲しみが綯交ぜになった頭をクリアにしようと、軽く深呼吸をする。冷え切っていない部屋の曖昧な空気が肺を満たすのを感じる。体に弾みをつけて起き上がり、腕を伸ばして大きく伸びをする。パキパキ、という小気味いい音と共に、背筋がピンと伸びる。枕元に置いてあったスマホを手にとって、時刻を確認する。午前5時52分。少し早起きしすぎた。スマホを片手に持ったままもう一度寝転がる。右手に握られたスマホの待ち受け画面に写っているある少女と目が合う。私は、その少女、僅か四ヶ月前に去った幼なじみ、の写真を改めて眺める。初詣の時に引いたおみくじを持って、雪景色の中、私と彼女が笑顔で写っている。確か、彼女のおみくじは大吉だったはずだ。おみくじを引いた時の彼女の無邪気な笑みが、その鈴の音のような笑い声と共に脳裏に浮かぶ。私は、切なさをエッセンスに加えた愛しさに駆られて、思わず写真の中の彼女の頬を、タッチパネル越しに撫でる。彼女が生きていた、その確たる証拠に縋る。
あの日、私たちは二人きりで花見に行く予定だった。朝から食べ物の段取りをしていた私へ、家の外から場所取り行ってくる!と元気いっぱいに呼びかける貴女の声が、私が聞けた最後の声だった。午前10時半頃、間延びした街の中でスマホを眺めながら信号を待っていた彼女は、夜勤明けで意識が朦朧としている若手の会社員のミニバンに跳ね飛ばされ、首の骨を折って泡を吹いてその命を儚く散らした。私が彼女に追いつこうと家に出た時には、彼女はもう病院でその煌びやかな瞳孔に光を当てられていた。公園で彼女を待っている時に見たあの桜の、残酷的なまでの美しさを、未だに覚えている。きっとあの桜の下には、彼女の死体が埋められているんだろう、今となってはそう思う。彼女の死は、全国ニュースで15秒取り上げられるほどのごく些細なことで、彼女が死んでも、世界は当たり前のようにその運用を停止しなくて、そんな中、私だけが、狂わされて世界から取り残されている。その苦しさも、彼女の死に対して自分本位な苦しさを抱えているという事実も、全てが嫌だった。あの日、貴女が家の前を通り過ぎる前に、私が家の玄関を出て、貴女に何か声をかけていれば、貴女は今も、その豊かな表情を、時折感じさせてくる思慮深さを、いつも元気なくせに夜中になったら急にさびしがりやになる所を、私に見せていてくれただろうか。
そんな事を考えながら、また、目をつぶる。
未だ夏の焦燥を含有している秋風が、足下を疾走する。
いつもと違う華やかな装いに彩られた学校は、絶えず学生たちの笑い声で満たされていて、何だか違う生き物みたいだった。そんな文化祭の中でもとりわけ視聴覚室は、本当に教育機関なのかと疑うレベルで、若々しい熱気が渦巻く場所となっていた。その熱気を作り出している学生が一斉に目を向け、そんな視線の前で、まるで世界中のスポットライトを当てられたスタアの様にギターをかき鳴らし歌っているのが、他でもない私だった。小刻みにブリッジミュートを繰り返しながら流行りのロックチューンを大声を張り上げながら歌う私に呼応して、観客が飛び跳ねて声をあげる。肉体の疲労なのか、精神の高揚なのか、どっちとも取れる精神状態によって、メンバー全員が曲全体のBPMを跳ね上げていく。普段なら冷や汗が出る程の走り方だが、今はその疾走感が、私たちの青春の刹那を表している様で心地よい。私も、観客の皆も顔を真っ赤にして、全員が一つになっていくのが分かる。生演奏特有のグルーヴ感に酔いしれながら、アウトロのコードをかき鳴らし、飛び跳ねる。ドラムの締めのキックの余韻に合わせて、センキュー、と軽く言い放つ。次の曲の構成上必要のない、私のテレキャスをギタースタンドに立てかけ、アンプの上に置いていたぬるい水を口に含んだのち、
「いやーにしてもまだ暑いですねー」
と、MCを始める。リードギターの荒井くんが、
「めっちゃわかる、俺も今日半袖だもん」
と、同調すると同時に、観客から、お前は冬も半袖だろ!という野次が飛び、観客全体がドッと笑いに包まれる。いかにも内輪ノリと言うMCパート。いつもならノリノリで参加していた所だったが、今日は少し訳が違っていた。隣の席の、安田さん。常時ヘッドホンに黒マスクという、他人に壁を作る装備を徹底し、クールな印象でこの高校生活自体を俯瞰する癖があるその人は、聞いているバンドが同じという理由だけで、何故か私とだけ、仲が良かった。いつもクールぶっているのに偶に見せてくる抜けている所、好きなものを語る時の饒舌さ、少し低い落ち着く声、ぱっちりとした二重の目をくにゃりと曲げて示されるその微笑みに、私が籠絡されるのに、そう時間はかからなかった。今一番欲しいもの、というテーマで自分のエピソードトークを繰り広げる荒井くんの相槌を打ちながら、視線だけで安田さんを探す。しかし、私の今一番欲しいもの、そのひとの姿は、見つからなかった。今一番欲しいものは何か、と荒井くんに聞かれた私は、バンドメンバーと視線を交わして小さく頷きながら、
「今私が一番欲しい物は!皆の大きな声です!声、足りてるー!?」
と、観客を煽り立て、ラストの曲いくぞー!!!と良い、ドラムの入りからなるイントロに体を調和させていく。手で観客をこまねいて、自分自身もジャンプしながら、もっともっと!と叫ぶ。Aメロの歌詞は何かの始まりを予感させるように明るく、Bメロでは、情感をサビにどんどん高めていくイメージで、抑揚豊かに歌声を吐き出す。サビ前のドラムのフィルインに合わせて、お前らついてこい!と高くジャンプし、サビで感情を爆発させる。とそこで観客席の後ろ、出口の近くで、壁に凭れかかって静かに音楽に体を揺らしている安田さんの姿が目に入る。見にきてくれたんだ、と言う気持ちに頭が沸騰しそうになりながら、サビを歌い切る。元々、この学園祭で、結果がどうあれ、告白しようと思っていた。安田さんと二人で遊びに行った帰りに、余りの幸福度に悶えた時に目にした夕日が、舞台照明と重なって脳裏にチラつく。今だ、となんの確信もなく思った。荒井くんのバチバチのギターソロの裏で、私は観客席にまで下がり、両手を広げて次々と学生たちの間を走り抜け、ハイタッチをする。教室の端っこまで行った時、安田さんが軽く頭を下げて会釈しているのを、見た。私は、この熱さを、安田さんにも捧げたいと思った。いつもどこか冷めている安田さんに、この熱を、そっくりそのまま私ごと移したいと、そう考えた。会釈している安田さんの手を引っ張って私の元まで近づけ、安田さんのその細くて綺麗な指と、ギターにより硬くなった私の指とを絡ませる。安田さんが、驚きで目を見開く。友達から、それ以外に。明らかに関係性が変化していく感覚に、脳が震える。私は、安田さんの黒いマスクの片方を外して、観客側にはその口元を隠した状態で、安田さんのその真っ白な肌と共に見事なコントラストを作り上げているその桃色の瑞々しい唇に、これまでの歌唱による疲労なのか、この胸の高鳴りからなのか、それともどっちものせいで荒い息を絶えず吐き出している私の唇を、そっと合わせた。
ねえ、どっちが先に落ちるか、勝負しない?
昔の夢を見た。今から5年くらい前。まだ、私もあなたも、あどけなさと、強制的に身に付けさせられた大人っぽさの間で彷徨していた時期。サラサラとした貴女の艶やかな黒髪を、真っ黒でまるで澱のような川のもとへ爽やかに吹き抜ける夜風が撫ぜる。私たちは、明かりもついていない真っ暗闇の中、昨日の昼間にたまたま倉庫から見つけた線香花火で遊んでいた。幾らか本数があったので、この前学校であった話や、これからの夢の話など、他愛もない話をしながら。そして、とうとうお互い最後の一本となった時、貴女は少しいたづらっぽく、私にそう笑いかけてきたのだった。二人同時に、目の前に置いてある蝋燭から火を灯す。提灯のような真っ赤な光に、貴女のしどけない横顔が照らされる。思わず見惚れていると、そんな私の視線に気づいたのか貴女は、なに見てんの、花火見なきゃ。これで最後だよ、と私に目線を合わせて笑いかけてくれる。私はその視線にまた心臓の鼓動を早めながら、本当だね、と言って気もそぞろに線香花火に視線を落とす。
と、そこで目が覚めた。まっすぐ目に飛び込んでくる陽光に目を瞬かせながら、夜と朝、夢と現の間で混濁した意識を少しずつ覚ましていく。結局どっちが勝ったんだっけ。遠い昔の記憶が、頭のどこかでひっかかる。軒先から、愛子ちゃあん?と言う清子の声が飛び込んでくる。今の時刻は7時45分。今日は8時30分から市内で火災対策に建物の撤去作業がある。ヤバい。焦る意識のままに体を動かし、身支度を整えて玄関を飛びだす。母親のいってらっしゃいと言う声をサラっと聞き流して、清子に声をかけ、二人で市内へと足を早める。集合時間まで後走って五分程。今日は間に合いそうだ。そう考えていると、いつも遅刻なんて絶対に許さない優等生な清子が、今日は珍しく立ち止まり、私の裾をギュッと掴んでくる。
「どうしたの?遅れちゃうよ?」
上がりきった息のままにそう聞く私に対して、清子は視線を落としたまま、
「……今日は、ちょっと遅れてかない?」
と言ってきた。驚いた私が理由を聞くと清子は、何か凄く嫌な予感がするの、と。それだけをポツリと答えた。
困惑しつつも、良いよ、何か話したいことでもあるの?と聞いてみる。すると清子は凄く深刻そうな表情で、小さく頷いた後、
「だから、これだけはどうしても聞いておきたくて……愛子ちゃんは、恋とかって、してる?」
と、まさかの恋愛話を持ちかけてきた。さっきまでの不穏な空気とは裏腹にえらく可愛らしい話だ。私はその落差に毒気を抜かれて、思わず笑ってしまう。しかし、恋愛話は恋愛話で、私にとっては不都合な話題だった。そりゃあ私だって、恋くらいはしている。しかし、一番の問題は、その私が恋をしている相手が、目の前で、真剣な表情を浮かべている清子、その人であることだ。産めよ増やせよお国のために、だなんて標語がお国から発表されたのが6年前。女は出来るだけ多く子供を産む。それが絶対的な生き方として定められてる今この刻において、まさか幼なじみに、ずっと片思いをしているだなんて、そんな事を知られたら、一体誰に何をされるか分からない。目の前の相手にずっと抱いて拗らせてきた思いを拒絶される事と、社会的な死への恐怖が、私の言動を鈍らせる。
「してないことは、してない、けど……」
気恥ずかしさから思わず清子から目線を逸らして、遠く彼方の空を見つめる。今日はよく晴れていて、いい天気だ。もくもくと立ち上る入道雲が、真っ青な空と二色の美しい対比を作っている。清子は、なんだかショックを受けたような表情で、「そうなんだ………愛子ちゃんの好きな人は、今どこにいるの?徴兵、行ってるんでしょ?」
と聞いてくる。私は、今目の前に!なんて言ってその顔に指をさしてやりたい衝動をグッと堪えて、
「意外と近く、かなあ……そういう清子ちゃんは、急にこんな話題振ってきて。好きな人でもいるの?」
と逆に質問してみる。すると清子は、ビクリと体を震わせて、顔を真っ赤にしながら、いつもの明朗なそれとは全く異なった、わたわたとした感じで、喋り出した。
「わ、私の好きな人はね、その、い、いつもちょっとだらしなくて、遅刻気味で、でも、足が早くて、ちょっと抜けてるところも、逆に支えてあげたくなるっていうか、そんな感じの人で」
それって私のことじゃん、なんて言いたくなる、いくら自分が清子の事が好きだからって流石に自惚れ癖が強すぎる、そんな自分を押し殺そうと、私がもう一度、清子から目線を外して空を見上げた時だった。銀色の、鋭く光る戦闘機が空気を切り裂く。空襲だ、それもここから近い。その戦闘機が禍々しくも爆弾を出産する光景が、私の瞳に反射する。
多分、助からない。
「そ、それでそれでその人はね、今、私の目の前にいて」
言いかけた清子の体を抱き寄せて、押し倒し、清子の上に覆いかぶさる。すっかり目が蕩けた清子の唇に自分の唇を重ね合わせる。多分、私たちは両想いであることに、ずっと前からなんとなく気づいていたんだろう。それでも、拒絶されるのが怖くて、中々すり合わせられなくて、そんな青春の臆病心を、許してくれるほど、この世界は甘く、ゆっくりと進んではくれなかった。私が死んだ後でもせめて、私が清子に恋をしていたことが伝わるように、そんな必死な想いを胸に、もう一度、唇を重ねる。清子の視界には、私しか映っていない。それでいい、と私は心から歓喜した。
あ、と私は幽かな声を漏らす。思い、だした。五年前の、あの線香花火をした日。二人とも揃って慎重に持っていた線香花火は、すぐに消えゆく運命に抵抗するかのように、バチバチと、大きく弾けた。そうして弾けて弾けて、私たちがきれいだね、と笑みを交わし合った次の瞬間、その線香花火は、突風に吹かれて、ポテっと同時に、地に堕ちていった。
蹴り飛ばした椅子が立てる大きな音が、しんとした教室の中に鳴り響く。隣にたっている友達の金切り声が、まるで恋愛映画のラストシーンのようにこだまする。その金切り声が形成している言葉は、罵声だった。純粋に他人を貶める為だけの、醜悪な言葉。その言葉をかけている張本人は、さも自分が正義だと言う風に勝ち誇った笑みを浮かべている。そして、言われる側は、というと。真っ白な髪をくしゃ、と握りながら俯き、何もなかったような表情で、罵声が聞こえなかったフリをしていた。その態度がさらに癇に触るのか、友達のボルテージが更に上がる。真っ白な髪が引っ張られ、顕になった新雪のような肌に紅葉が降り注ぎそうになる。刹那、黙って耐えることしか能がないような無表情に、その瞳に、少しの希望の色が宿った。救いを求める感情をそのまま写し出している、私の心を真っ直ぐと射ぬいてくる、その視線を私はフッとそらし、窓の外の昼下がりの青空を見る。私が飛行機雲を見付けたのと、パン、という乾いた音がなって、小雪の頬に紅が刺されたのは、ちょうど同じ時間だった。
そして、放課後。
鋭い痛みに顔を歪ませる小雪を空き教室に待たせていた私は、友達との別れを済ませ、辺りを伺いながら指定した空き教室に向かう。扉の前で一つ深呼吸をして、今までの人間関係での"私"を、完全に埋没させる。自然に緩む口角に身を任せ、私は勢いよく扉を開けた。中には、小雪が座って私の方をまっすぐと見ている。小雪が、自分の鎖骨の辺りの場所で小さく手を振る。私は、精一杯申し訳なさそうな顔をしながら、小雪にかけよる。大丈夫、痛くない?なんて言葉を、あの救いの目線をしらこく無視している分際で。小雪は未だ残響する痛みに顔を歪ませながらも、何でもないような顔で、教室では滅多に見せないような微笑をたたえ、私の手を恋人繋ぎで握ってくる。私は、ごめんなさい。田中さんったら乱暴よね、小雪がこんなに可愛いからって、いじめて、暴力なんてふるって。皆、田中さんが怖いのよ。だから、本当にごめんね。そうやって、自分が悪くないといううすっぺらい欺瞞を、美しい言葉のヴェールで包む。自分に言い聞かせるように。小雪は無邪気にも、可愛い何て言ってくれるの、八坂さんだけですよ、なんてはにかむ。田中さんをけしかけているのは、私だ。クラスの中で一番"イケてる"存在になった私が、クラスにとっては毒にも薬にもならないような存在の小雪を、苛めさせたのだ。理由はただひとつ。小雪が可愛すぎて、私が常に小雪の一番になっていたいからだ。だからクラスの中でのいじめられっ子ポジションにして、小雪の心に消えない傷を毎日植え付けて、私だけがそれを癒すようにする。そうすれば、小雪は私しか見れなくなる。私が考えた作戦は、見事に成功しきった。私は、私の顔で埋め尽くされた小雪の瞳を真っ直ぐ見たあと、本当にいたそう。なんて言葉を掛けながら、小雪の頬にあるぶたれた痕に、くっきりとついた田中の指先まで、一つ一つ、丁寧に唇を落としていった。小雪のか細く、甲高い声が私の頭の中に極上のアリアとして刻み付けられる。こんなに感情豊かで、蕩けきった顔も、こんなに可愛い声も、全部私だけのものなのだ。そんなドス黒い感情が、白と赤で彩られた小雪の肌を、埋め尽くしていく。