秘密の箱
あいつの家の倉庫には、古いものがたくさんある。
まだ幼かった夏の午後。遊び半分、避暑半分で行ったあの日、埃まみれの中からそれを見つけた。
「これ、なんだろ」
棚の奥にあった小さなブリキの箱。
そっと手に取ったそれは少し錆びていて、でも不思議と光って見えた。
「んー?それ多分じーちゃんのだ」
元の場所に戻そうとした瞬間、あいつがひょいと俺の手から箱を奪う。
「開けてみようぜ〜」
「いいの?」
「箱っていうのは開けるためにあるもんだろ?」
「そんなことないだろ」
止めようとする俺の手より早く、あいつの手が留め具を外した。
「おい!」
口ではそう言いながらも体が動かなかったのは俺も大概箱の中身が気になっていたのだ。あいつはそんな俺を見透かすかのように、にやりと笑うとそっと蓋を持ち上げる。
――中に入っていたのは白い砂だった。
「……砂?」
「他には何も入っとらんな」
ただの砂。けれど、どこか不思議な雰囲気を纏っている。よく見るとうっすら光っていた。日差しのせいかと思って影を作ってみたが、やっぱりぼんやりと光っている。
「ただの砂じゃないのか?」
「魔力の気配はせんよ」
「匂いもない」
まじまじと観察を続けていると、あいつが指先で少しだけ掬う。
「触って平気なのか?」
「お前も触ってみたらわかるよ」
そう言ってあいつは俺の手を取って砂に触れさせた。触れた瞬間、指先がすっと冷たくなった。真夏の空気が、一瞬だけ静まった気がした。
恐る恐る砂を手に取って、掌の上で広げてみる。ひとつひとつが淡く光っていて、なんだか生きているみたいだと思った。
その時、外から風が吹き込んだ。
箱の中から逃げ出すように、砂がふわっと舞い上がる。
「お〜」
「ちょ、まっ──」
慌てて箱を押さえようとしたけど、あいつの手がそれを阻んだ。
「上、見てみな」
言われるままに顔をあげると、舞い上がった砂が陽の光を反射して、まるで小さな星のようだった。
風がやんで、ハッと我に返る。
砂を集めないと、そう思って下を見る。けれど、床にはうっすらと埃が積もっているだけだった。
まるで最初から何もなかったみたいに空になったブリキの箱だけがあいつの手に残っていた。
「……あれ何だったんだろ」
「時間が少しこぼれただけさ」
あいつはそう言って笑い、箱を棚に戻した。
相変わらずあいつの言うことはよくわからない。
「空になったけどいいのか?」
「へーきへーき」
そう言うと、もう興味がないみたいに外へ出ていった。
ごめんなさい。そう心で呟いて俺もその後を追う。
倉庫から出る直前、ふと振り返ると棚の上でブリキの箱が小さく光った気がした。
たぶん、気のせいだ。
あれ以来、倉庫に行ってもあのブリキの箱が見つかることはなかった。
あの箱を開けて、何かが変わったわけでも、何かを得たわけでもない。
それでも夏になるたび、あの日のことを思い出す。
いつもとちょっと違う、不思議な夏の午後。
きっとあれは俺とあいつだけが知っている秘密の箱。
無人島に行くならば
「無人島に行くなら何を持っていく?」
昼休み、机に突っ伏していたCが唐突にそう投げかけてきた。意図を測りかねて黙っていると、ひとつだけね、と追加で言葉が飛んでくる。
なんなんだ。そう思いつつも考えてしまうのは聞いてきたのがCだからに他ならない。
「……ナイフ」
「それ今思いついたの適当に言ったでしょ」
「ああ」
「もー、ちゃんと考えてよ〜」
Cの反応に、この質問に意味はないのだとわかった。
ただの気まぐれ、暇つぶしなのだろう。
そんなCの暇つぶしに付き合うのはよくあることだった。だから特に考えもせず形式的に聞き返してしまった。
「そういうお前は何を持っていくんだ?」
「え、オレ? オレはー、T」
ウインクをしながらそう答えたCに、息がひとつ遅れた。
「Tくんがいれば、なんでもやってくれそうじゃん?」
冗談だ。わかっている。
それでも、喜んでしまう浅ましい心に嫌気がさす。
「…お前もちゃんと考えてないじゃないか」
なんとか口にした言葉が震えなかったことに安堵した。
俺は今、平静を装えているだろうか。
敏いコイツにこの気持ちがバレていないといい。ただそれだけを願っていた。
雨の香り、涙の跡
踊るように雨に打たれる君が酷く綺麗に映った。
「ふふ、気持ちいいです。××さんも一緒にどうですか?」
「……うん、そうだな。たまにはいいかもな」
迷いなく雨に飛び込んだ姿に正気を疑った。けれど雨が止むのを大人しく待っている自分がバカバカしく思えて。俺も正気を失ってしまった。
服が身体に張り付いて気持ち悪いはずなのに、何故か心は軽やかだった。
寮に着く頃には二人とも全身ずぶ濡れになっていて、中に入るのは少しだけ躊躇われた。
「…これは風邪ひくかもな」
「その時は看病しに行きますよ」
「お前は平気なのか?」
「丈夫さには自信があるので」
・
・
・
雨が降るたび、あの日の記憶が鮮明に思い出される。
笑い声、跳ねる水音、眩しい君の表情。
今日も窓の外では雨が降っていた。
その気配に誘われ、ふらりと外に出る。
雨音は確かに響いているのに不思議と静かだ。
あの日と同じように、俺は傘もささずに雨の中へと歩き出した。
歩くほどに服が肌へと張りつく。あの日は気にならなかった服の重みが気持ち悪い。
雨はこんなにも冷たいのに、何故あの日は暖かく感じたのか。
頬をつたうそれには気づかないふりをした。
今日は君がいなくてよかった。
きっと君は気づいてしまうから。
君にこんな姿は見せたくなかった。
糸
頬に触れられて目を閉じる。
濡れた唇の感覚に涙が出そう。
幸せだと思った。
君が私を縛る権利も、私が君を縛る権利もない。
君の明日は君のもので、そこに私は関係ない。
ただ、今この瞬間、君が私の目の前にいる。
それだけでよかった。
小指の糸も、薬指の指輪も、必要ない。
まだ知らない世界
もうすぐミドルスクールに上がるという頃。同級生の女の子たちは好きな人の話に花を咲かせていた。
「ねぇ、×× はいないの?好きな人」
この手の話題を振られるのは苦手だった。
“好きな人”
そう言われて真っ先に思い浮かぶのは、ただ一人。
近所に住んでる年上の男の人。
その人は私より十四歳も年上で、私がもっと幼い頃から彼の家の庭で遊んでもらっていた。
『ねぇねぇ、これは?』
『ああ、それはシロイルカだな。ここではシロイルカの歯の活用法について書かれている』
博識な彼の家にはたくさんの本があった。私はそのほとんどを理解することなんて出来ないのに、彼と話せるのが楽しくて何度も読んでほしいとせがんだ。
彼は幼い私の言うことを邪険にせず、私の知らない世界をたくさん教えてくれた。
優しくてカッコよくて、大人びた彼の姿は同級生の誰とも違った。
でもその想いが彼女たちが話している恋と同じなのかはわからない。
彼女たちが名前をあげるのは同じクラスの男の子や数個上の先輩たちばかり。
好きな人と聞かれて十四歳も年上の人をあげるのは何だか普通じゃない気がして言えなかった。
「うーん、今はいないかな」
「えー!○○とかは?カッコよくない?」
「あはは、いい人だとは思うよ」
のらりくらりと躱しつつ、場をしらけさせない程度に相槌を打つ。
「今朝、一緒に登校したの!」「週末デートに誘われちゃった」そう口々に話す彼女たちの話題が尽きることはない。
彼女たちの笑い声は心地よいけれど、どこか遠い。
恋なんてよくわからない。それが本心だった。
ミドルスクールに上がれば何か変わるのだろうか。
誰かを好きだと素直に言えるようになるのだろうか。
家に帰ると白い花が目に入った。
彼の家の庭に咲いているのと同じ花。
昔、彼の家で転んでその花を折ってしまったことがある。
彼は怒ることなく私を心配してくれて、帰る時には折れていない綺麗な花を私にくれた。
その時、確かに好きだと思った。
でも今思えばそれは憧れのようなものに近い気がする。
憧れと恋。その違いが今の私にはわからなかった。