天を舞う貴方を見た。
でも、纏う服の色も、眼差しも、雰囲気も何もかも異なっていた。それでも、魂が告げていた―――「あの人だ」と。
生きていた。半月、行方の知れなかったあの人が。
それだけで充分だった。
『記憶を失ってしまったのではないでしょうか』
それが何だ。
『そこに、あのような洗脳を……』
それが何だ。
それが、あの人を諦める理由になるのか?
たとえ自分のことを覚えていなくても。
自分のことを敵だと思い込まされていても。
貴方が貴方であることは変わらないのだから。
蝉の声。真っ青な空と積乱雲。
乾いた空気が頬をなでるなか、坂道を登っていた。
「ごめんねー手伝ってもらっちゃって」
へらりと笑って言う。今日は坂の上にある彼女の家に、荷物を取りに行くところだった。
「いいよ全然。運ぶのって、絵の具だっけ?」
「うん。キャンバスとイーゼルはあたしが持つから、桜は絵の具、頼むね」
「りょーかい、お任せください♡」
おどけた調子で二人は歩く。
坂はまだ続く。蝉の声がする。
「あ、そういえば」
「ん?」
「抹茶アイス、あるけど食べる?」
「食べる!」
じゃあ家に着いてからだね、と返ってきた。
「そういえば、カエちゃん好きだったよねー抹茶味」
「楓?あー好きだったね。絶対チョコ好きそうな顔してるのに」
「ねー!けっこう意外だったなー」
かつてはこの道も3人で歩いた。
うだるような暑さの日、抹茶味のアイスがあると告げると、彼女は大袈裟に喜んでみせたのだった。
「なんか、懐かしいね」
「…うん」
丘を登りきって息をつく。見下ろす景色は何ひとつ変わっていなかった。
叶わない夢なんてないよ、と彼女は言った。
「頑張れば必ず叶う、っていうのはさすがに綺麗事だと思うけど…でも諦めなければ、形は変わったとしても夢は叶うよ。少なくとも私は、そう信じてる」
――――叶えたい夢があるって、素敵だね。わたしには、そういうのないし……
「じゃあまず『探す』のを頑張らないとだね〜」
ころころと可笑しそうに笑って、それから真っ直ぐにこちらを見つめて微笑む。
「大丈夫だよ。夢って難しいけどさ、ある日突然ぱっと思いついちゃうものだよ、意外と」
夢を見ていた。
懐かしい、いつかの記憶の再上映。
(あぁ、もう少しあの夢の中に居たかったな…)
まどろみの中で親友の言葉を思い出す。
(叶わない夢なんてない…か。そうだね)
――――諦めずに、頑張らなくっちゃね。
大きく息を吸い込むと、朝の香りがした。
今日も1日が始まる。
雪が降っている。
肌を刺す冷気を、さほど感じなくなったのはいつからだっただろう。
かじかんだ指先の痛みが、判らなくなったのはいつからだっただろう。
廃屋の縁側の下に小さな体を丸め、こわごわと、虚ろな瞳で空を見上げる。
雪が、降っている。
ゆっくりと息を吐き出しても、それが白くなり瞳に映ることはない。
目の下に落ちてきた雪すら溶けず、その異物感にぱちりと瞬きをした。
―――死ぬかもしれないな。
彼はごく自然にそう思った。
全てを失った時はあんなに熱かったのに。なんだか滑稽な話だとぼんやり考える。
いつかの温もりも、賑やかさも、ここには欠片さえ存在しなくて。代わりに、今にも消えそうな自分と、降りしきる雪と、真っ白な世界だけが在った。
―――もう、いいのかな。
村は戦火に焼かれ、自分を知るひとは誰ひとりとしていなくなった。ここで死んでも、誰も自分に気づくことは無いだろう。誰も自分を悼むことは無いだろう。
自分の存在はどこまでも儚く、透明だ。
―――ならもう、いっそ………
見てみぬふりをしてきた眠気を受け入れて、ゆっくりと、目を閉じる。
すぐに柔らかなまどろみが全身を包んだ。あぁ、落ちる…そう思った時。
どこかで、歌が聞こえた。
思わず目をひらく。こんな時に歌なんて、聞こえるはずがない。空耳だ。
でも…とても暖かい、優しい歌だった。
―――あ、
ふと、自分が涙を流していることに気がつく。
泣いたのはいつぶりだろうか。
頬をつたうそれは暖かくて、まだ自分の中にそんな熱があったのかと驚く。
涙なんて、とうに枯れたと思っていた。大切なものが全てなくなったあの日に。どれだけ泣いても何も変わらないと思い知らされたあの日に。
―――思い、出した。
あの日。敵が攻め入ってきて、ろくな備えもしていなかった自分の村はあっという間に陥落してしまった。家には火が放たれ、物は奪われ、村人たちは容赦なく殺されていく。
そんな中で、自分は託されたのだ。
どうか生きて、と。
―――そうだ、おれは…生きないと。死んでなんてたまるもんか。
涙に濡れた目で空を見上げる。音のない世界に雪は降り続いている。しかし、彼の瞳はもう虚ろではなかった。
彼の世界にあの暖かい歌が響くのは、まだ少し先の話……
『脱稿した』
そんなメッセージと共に、漫画用原稿用紙を撒き散らし狂喜するスタンプが届いたのは、午後11時30分ちょうどのことだった。
『おめでとうございます』
ここ数日徹夜していたメッセージの送り主、瑠奈をとりあえず祝福する。ついでに『お疲れ様!』のスタンプも追加した。
『ありがとう 安心して死んでる
次のイベントちゃんと本出せます』
『よかったですね ルナ先輩あした学校来れそうですか?』
『わからん とりあえず寝るから起きれれば行く
レンカも早く寝なよ』
『おやすみなさい』のスタンプが送られてきて、あぁこれはマジで寝落ちるやつだな、と恋香は思う。
明日は自分が起こしに行かないといけないやつかもしれない。まあたっぷり寝て少しでも目の下のクマが薄くなればいいのだが。
翌朝。
いつものようにバス停へ向かうと、すでに瑠奈が来ていた。
「おはよーございます、センパイ……って、なんか、クマ濃くなってません?」
「あぁ、恋香…おはよう。実はちょっと寝てなくて」
「えっ!?昨日寝るって言ってたじゃないですか!」
いやぁ、と瑠奈が口をひらく。
「そうなんだけどさ、久々にツイッター開いたら見てなかった分いっぱい推しが出てきて……無限にスクロールしてたら朝になってたんだ」
うっわ……と苦虫を噛み潰したような顔になる恋香。
引く。流石に引く。
「これこそ朝チュンってな」
「本来の意味と違いますよね!?」
それは読者のオタノシミが大人の事情でまるっとカットされた時に使う言葉であるはずだ。知らんけど。
「昨日くらい寝て欲しかったのに……」
「はは、ごめんごめん。今日からはちゃんと寝るからさ」
と言いつつ瑠奈の手にはペンとノートが握られている。何を書いているのか聞けば、次の同人誌のシナリオだと返ってきた。
「もう!?早くないですか!」
「早くない。むしろ早割使いたいから早ければ早いほどいいんだ」
さらに瑠奈は言い放つ。
「終わってもまた始まる。それが同人活動なんだ」
ちゃんと休んでください!!と恋香の叫びがバス停にこだまするのだった。