-開演5分前-
舞台は完成した。後は役者が各々持ち場に向かうだけ。
私は開演から舞台に立つから、定位置であるカウンターの椅子に座る。
設定は、とある喫茶店。主役である店主やその常連客の日常を中心とした、笑いあり涙ありの物語だ。常連客は学生やおじいさん、サラリーマンやカップル等いる。一見、変わり映えのない役柄だが、それぞれ不満や悩みを抱えており、それを店主達と解決させるという内容だ。
私の役は、近くの大学に通う二年生。将来のことに漠然と不安を感じながらも、遊びに夢中になり始めた普通の大学生。喫茶店には開店から夕方まで入り浸るくらい、雰囲気が性に合う...という設定だ。
-開演直前-
開演のベルと共にアナウンスが流れる。いよいよだ。舞台が暗くなる中、頭をカウンターに伏せた。視線の先には袖で待機している役者や裏方が見える。と、店主役の先輩と目が合い、何か口パクで伝えた。暗くてはっきりと分からなかったが、あの先輩のことだろう。「結衣ちゃん、ガチで寝るんじゃないぞ(笑)」と言ったに違いない。『結衣』は私の役名だ。私は、その言葉に返事するように微笑みながら目を瞑った。
再度、ベルが鳴る。幕が上がり、舞台が灯りを灯す。
開演だ。
1分程しかいることのできない世界に降り立った。
視界はやや青みがかっていて澄んでいる。空気が漏れる音しか聞こえず、身体は地面に着いているのに、重力に逆らうかのように少し浮かんでいた。
岩と砂ばかりだが、上から射し込む光が、この世界の退屈さを紛らわせてくれる。暖かく、うねって色んな形に変わるのも、ずっと見ていられる。
あぁ、もうすぐもといた世界に戻らなくては...。私は思いっきり地面を蹴って、煌めく光に手を伸ばした。
あるきっかけで喜びを生むことが出来る
あるきっかけで悲しみを生むことが出来る
そのきっかけはどれも些細なこと
だから大袈裟に考えなくてもいいんだよ
この世界には敵ばかりしかいないと思ってた。
身体でも心でも散々傷つけられて、まるで玩具のように扱われた。
でも帰り道、名前も知らない人から「頑張って」って言われたんだ。不思議と心が響いて暖かい光が生まれた気がして世界が淡く輝きはじめた。
時に砂嵐が混ざるけど、手元の光だけは見失わない。少しでも歩き続けたら、より光が輝く気がするから。
ふとスマホを弄ってたら、画面の上からバナーが出てきた。彼氏からのLINEだ。
『話したいことがあるんだけど、時間ある?』
しばらくバナーが消えるまでぼうっと眺めた。正直、どう返信すればいいのか、すぐに既読をつけたくもないくらい気が重い。彼と大喧嘩して1週間経つ。きっかけはほんの些細なこと。それが今まで蓄積した不満がお互いに爆発して沢山酷い言葉で傷つけあってしまった。終いには「あんたなんか消えちまえ!」って怒鳴ってた。
数日経って冷静になれたけど、どんな顔を向けて謝ればいいのか、プライドが邪魔をしてズルズルと今日まで連絡も出来ずにいた。だから、話したいことは別れ話なのだろう。今まで沢山迷惑を掛けてるから、愛想を尽かされてもおかしくないくらいだ。別れたくないけど、そんな都合よく事態が良くなるわけないのは承知だ。
バナーをタップしてLINEのトーク画面が映る。文字を入力している時間が、いつもより長く感じる。どう返信しようか悩む必要なんてないのに悩んで、ようやく文ができた。私は送信ボタンを押す。
『いいよ。通話で話さない?』
シュポンッと鳴った瞬間に既読がついた。「あっ」、気づいた時には着信画面に切り替わっていた。待っていたんだ。身体の強ばりが和らいだ気がして、躊躇わず応答ボタンをスライドさせた。