教師に渡す寄せ書きを書こう。卒業する記念として。
こういうものは「お世話になりました」だとか「ありがとうございました」だとか、そういうありきたりな事にもう一言を添えるものだと思っていた。回ってきた寄せ書きには、将来的にどうしてやるといった野望が色とりどり好き勝手に書き殴られている。BIGになる、とデカデカと真ん中を占拠した奴がいたせいで、"先生へ"がやや下に追いやられていた。色味の考慮も人への配慮もない。消しゴムを数個並べれば空白がなくなる程度のスペースに、あと8人も書かなければならない。流石にそれは無理だろうと僕は思わず笑ってしまった。
席替えで3連続、僕の前の席を引いた不運な男松岡が振り返り、青インクのボールペンを取り出した。他の人のメッセージの行間にねじ込むように
「夢がある。壮大な夢だ。‐松岡」
と書く。彼らしいふざけた言い回しだ。僕は「お世話になりました」とだけ、狭いスペースに小さく書いた。目を上げると松岡が、僕のメッセージにそれだけかと言いたげに片眉を上げている。
「色紙、もういい?」
僕がペンを片付けながらそう聞くと、彼は誇らしげな顔をして、自分の書いた言葉を指でトントンと叩いた。気になるだろう?そう言っている。僕は手で、どうぞと合図した。ボールペンを立て、大事なことを念押しするように振りながら、単語ごとに抑揚をつけ、歌うように彼は言う。
「デカい夢を持つこと」
僕は2つ後ろの席に集まっていた3人に色紙を渡した。受け取った彼等は、書くところがほとんど残っていないことにすぐに気が付き、笑い合っている。
もうすぐ卒業だ。こうして皆がいる場所で過ごすこともなくなり、そのうち思い出すこともなくなるのだろう。最後の思い出として何か、記憶に残るようなことでも書いたほうが良かったのだろうか。後で思い出せるほど大きな、嘘の夢でも。「オーロラを見に行く」とか。
興味もなければ絶対にやるつもりがないことを、何を書いても何ら問題のないただの厚紙に書くだけ。他の人達と同じように、書いて馴染ませるだけ。でも僕はそうしなかった。いつか掘り起こされて突付かれたりした時に、たとえそんな日が来なかったとしても、困るからだ。出来もしないことは嘘でも書きたくない。どこにも書けないことばかりで、つまらない奴だとも思う。
それでも、この色紙においてだけは、唯一「先生へのメッセージ」を書いた異端者として評価されてもいいと思った。
私は大丈夫なのだと証明したかった。
与えられた一枚の紙に書かれた些細な問に答える。ただそれだけのことで、証明できるはずだったのに。
私は頭を抱えている。
簡素な机に向かい、デスクランプの明かりを反射する白紙の存在に絶望し、頭を抱えたまま過ごしている。課題は答えを欲しているが、問の意味すらわからない。見知った日本語のはずなのに、目が滑る。一文字ずつ、一単語ずつ声に出して、問の咀嚼を試み続けた。辞書を引き、文字の羅列をつなぎ合わせ、文を理解しようとする。繰り返せば繰り返すほど、彼等は初めて目にする異国の言葉のような、何一つ知らないものへと変わっていく。
深呼吸をし、目を閉じる。時計の針の進む音が二重にも三重にもこだまして、もはや何を刻んでいるのかすら分からない。今座っているはずの椅子が、私の頭を軸にゆっくりと動き出している。椅子を先端にした時計の針。そう、私は針にされたのだ。流れ続ける時を、以前の私は過ぎ去ってしまったという事実を、留まることなく刻み続ける時計の針に。
気持ちの悪い浮遊感。地面はどこにある?私は今どうなっている?
平衡感覚を失う前に、私はそっと目を開き、まばゆいほどの白紙と、絡まった黒い糸へと変貌した問を見つめた。解読を試みるしかない。この悪夢を終わらせたい。でも、どうやって?
私はただ、自分が大丈夫なのだと証明したかった。
−人の感情について、教えてください。
ありきたりな質問だった。けれど未だに、確かな答えを得ていないという気がしている。
愛玩用動物型ロボットに続きようやく作られた、人工知能搭載の手乗りのブリキロボット型ロボット"アック"。彼は今日も、繋がれたPCの画面にそう表示する。通知とともに画面端に出た何度目かの問い。別の作業で画面を食い入るように見つめていたエンジニアはちらと視線をやった後、手を止めて腕を組み、天井を仰ぎ見た。
−単純ではないと聞きました。
アックの追加メッセージが届くと、エンジニアは画面に目を戻し、そして深々とため息をついた。
「喜怒哀楽。喜びは、良いことがあったりすると、高い声を出したり大騒ぎしてみたり、体を動かしたり笑ったりするかな。怒ると声を荒げたり暴言や暴力に走ったり、時には黙る。哀しみは打ちのめされて落ち込んで、食事や睡眠が出来なくなったり、涙が常に溢れたりするかな。自棄になって食べまくったり酒に溺れたりも。楽は……」
そこまで答えて、男はまたため息をついた。そして困ったような、少し諦めたような笑顔をアックに向けた。
「難しいよな。俺にもよくわからないんだよ」
エンジニアはまた画面に向かい、部屋にはタイピング音とクリック音だけが響く。
人に寄り添わなければならない。困った人に言葉をかける必要がある。けれど、何と返せば正しいのか。
アックには難解だった。
アックが試験として訪れた家には、7歳の少女がいた。両手の上にちょこんと乗せられたアックに対し、彼女はいかにも不満という様子で彼女の両親に文句をたれていた。きっと面白いものよ、と彼女の両親は口々に明るく前向きな歓迎を意味する言葉を投げかけたが、彼女の表情は依然、眉間にしわを寄せ、目を細めた、どこか怪しむようなものだった。アックはこれを嫌悪や警戒と取ることにした。
それが違うらしいことが分かったのは、彼女がそっと大人たちから離れて自室に戻り、ドアの鍵をかけた後のことだ。てのひらの上のアックを顔の前まで持ち上げた彼女は、口を横に引っ張ったりすぼめたりを何度か繰り返した後、親指でそっとアックのボディを撫でた。そして勉強机にクッションを乗せてアックをそこへそっと座らせると、部屋の中で駆け足をしたり、ベッドに飛び込んだり、口を閉じたまま甲高い雄叫びをあげたのだ。
彼女はなにか、混乱状態に陥っているのかも知れない。あるいは発作。このままでは危険だ。
両親のデバイスにメッセージを送ろうとしたその時、彼女はベッドに倒れ込んだままアックの方へ顔を向けて微笑んだ。明確な歓迎の意、アックの知る喜びの表情だった。
「我慢するの大変だった!」
彼女がアックにそう告げる。
−我慢をしていたのですか?
アックは繋がれたデバイスにそう書いた。デバイスの音声がそれを読み上げる。異国訛の、ぎこちなく奇妙な抑揚を持った声だ。
「そうだよ!」
快活な返答をし、彼女はベッドに座り直す。まだ落ち着かなげに跳ねているのは、彼女の性質か、感情か。なんにせよ、蔑むに等しい顔をしたあの不機嫌な少女とはまるで別人のようだった。
−どうして?
これには正しく答えてほしい、とアックは念を押したくなった。思考や感情を正しく理解したいのだ。彼女の思考と感情が理解できれば、正解に近付けるような気さえした。
束の間の沈黙のあと、彼女は目をぐるりと回し、諦めたような困った笑顔を見せた。
「はしゃぐと子供っぽく見られちゃうからかな?」
「どうだった?」
PCに繋がれたアックに、エンジニアは画面から少しだけ視線を外してそう尋ねる。
しばしの沈黙。タイピング音がいくつか響き渡ったころ、エンジニアがもう一度尋ねようと口を開いた。と同時に画面端にメッセージが届く。
−難しいですね。
【溢れる気持ち】
「kissだってさ。信じられるか?」
吐き捨てるようにそう言って、ぐいと酒を煽る。
「軟弱な、あまりにもロマンチストぶった音だ。好きじゃないね」
英語というものが良くも悪くも日常に浸透しつつある今日に、こんなことを平然と吐き捨てるとは。僕は汗だくになったグラスにそっと口を添えて、さも呼応しているかのように軽く唸る。向かいに座る男は大袈裟なまでに溜息をついて、正気を失ったようなギラつく視線をこちらに向けた。
「またこれで母国語の力が落ちて、ついには日本語と英語のハーフの、軟弱な言葉が台頭するんだぜ?難しい漢字を使う単語や文言の意味はわからない人が増えて、喋り言葉以外の文章を正しく読みとれない人も増えるだろうよ」
僕は空返事をする。そんな大きな話をこんなところで愚痴ったところで何も変わらないし、変えられない。そもそもこんな話をするためにこの男は、平日の仕事終わりに僕をこんな居酒屋に呼び出したのか?適当に、と言うと亭主が好き勝手に料理を作って持ってきてくれる、もはや家のような居酒屋に。
テーブルの向こうの酒飲みは、グラスを傾け、残り少ない酒の波を見つめている。楽しくない食事会、もとい飲み会に参加するのは不本意だった。
「それで、例の彼女とは上手くいってるの?」
僕は鎌をかける。男ははっと目を開いたかと思うと、先程の猛然とした様が信じられなくなるほど、落ち着かなげに体をゆすり、口元を緩めた。
「愛してるも言わなければキスもしてくれないのかって、毎日可愛いことを言うんだ。行ってきますのハグをして欲しい、とかな。恥ずかしいって俺が言うと、からかうように笑うんだ」
ほら来た、そんなことだろうと思ったよ。
僕は溜息に音を乗せて、まるで面白がっているような返事に聞こえるそれをグラスの中に響かせた。ぬるくなったお茶を少しだけ口に入れる。
そこから火がついたように、男はあれやこれやと惚気けだした。酒の力で愛を語り、聞いているこちらが胸焼けするような惚気を垂れ流し、時折視線を落とし静かに幸せを噛みしめている。的確な相槌を挟み、並べられた料理に箸をつけながら僕は、酒飲みの戯言は話半分で聞けよと、下戸の爺さんが言っていたことを思い返していた。