「kissだってさ。信じられるか?」
吐き捨てるようにそう言って、ぐいと酒を煽る。
「軟弱な、あまりにもロマンチストぶった音だ。好きじゃないね」
英語というものが良くも悪くも日常に浸透しつつある今日に、こんなことを平然と吐き捨てるとは。僕は汗だくになったグラスにそっと口を添えて、さも呼応しているかのように軽く唸る。向かいに座る男は大袈裟なまでに溜息をついて、正気を失ったようなギラつく視線をこちらに向けた。
「またこれで母国語の力が落ちて、ついには日本語と英語のハーフの、軟弱な言葉が台頭するんだぜ?難しい漢字を使う単語や文言の意味はわからない人が増えて、喋り言葉以外の文章を正しく読みとれない人も増えるだろうよ」
僕は空返事をする。そんな大きな話をこんなところで愚痴ったところで何も変わらないし、変えられない。そもそもこんな話をするためにこの男は、平日の仕事終わりに僕をこんな居酒屋に呼び出したのか?適当に、と言うと亭主が好き勝手に料理を作って持ってきてくれる、もはや家のような居酒屋に。
テーブルの向こうの酒飲みは、グラスを傾け、残り少ない酒の波を見つめている。楽しくない食事会、もとい飲み会に参加するのは不本意だった。
「それで、例の彼女とは上手くいってるの?」
僕は鎌をかける。男ははっと目を開いたかと思うと、先程の猛然とした様が信じられなくなるほど、落ち着かなげに体をゆすり、口元を緩めた。
「愛してるも言わなければキスもしてくれないのかって、毎日可愛いことを言うんだ。行ってきますのハグをして欲しい、とかな。恥ずかしいって俺が言うと、からかうように笑うんだ」
ほら来た、そんなことだろうと思ったよ。
僕は溜息に音を乗せて、まるで面白がっているような返事に聞こえるそれをグラスの中に響かせた。ぬるくなったお茶を少しだけ口に入れる。
そこから火がついたように、男はあれやこれやと惚気けだした。酒の力で愛を語り、聞いているこちらが胸焼けするような惚気を垂れ流し、時折視線を落とし静かに幸せを噛みしめている。的確な相槌を挟み、並べられた料理に箸をつけながら僕は、酒飲みの戯言は話半分で聞けよと、下戸の爺さんが言っていたことを思い返していた。
2/5/2024, 12:42:21 AM