『街へ』
小さい頃から兄と教皇以外に存在を知られていなかったオレにとって、聖域での生活は退屈そのものだった。
同年代の子供はおろか従者とすら話すことは憚られ、やむを得ず外出するときは厳重に警戒して外に出た。
そんな生活を続けていれば嫌になることは当然で、ある日オレは兄と教皇に無断で街に出た。聖域の外の街は人が多く気圧されたが、賑やかな街並みにオレは舞い上がった。
物見遊山で街中を歩いていると、「泥棒!」という声がした。声の方を見ると、一人の男がこちらに向かって走ってきた。手には何やら大きな荷物を持っている。
オレは反射的にその男に足をかけると男は盛大にすっ転んだので、腕を捻り抑え込んだ。少しして、少年がこちらに駆けてきた。
「あ……捕まえてくれたんですか。ありがとうございます」
「いや……」
「師匠に言われた買い物だったので、助かりました」
オレと同じくらいの年に見える少年は、心から安堵した感じでオレに頭を下げた。
「師匠?」
「え、あっ……」
オレが何気なく呟いた言葉に、彼はしまった、といった感じで口を抑えた。それを見て、オレは成程、と思った。
オレの予想通り、彼は聖域で修行をしている聖闘士候補生だった。小宇宙にはまだ目覚めていないが、その萌芽のようなものが彼には感じられた。
オレはそれを指摘した後、自分も候補生であると嘘をついた。この聖域で、オレの事を知らず、オレと話してくれる者は他にいなかったからだ。彼も、仲間が出来たと喜んでくれた。師匠は誰かと聞かれた時は少し困ったが、適当に誤魔化すと彼は「まぁいいか」と笑ってくれたのでオレも笑い返した。
それからオレは時々彼と周囲の目を盗んで遊んだ。オレは立場上から、彼は修行をサボっている後ろめたさから、誰にも見つからないようにだ。既に黄金聖闘士としての力をつけていたオレに比べ、彼はその肉体も小宇宙も貧弱ではあったが、そんなことオレには関係なかった。オレは彼と会い、遊ぶことが楽しくて仕方なかった。
しかし、ある日を境に彼は姿を見せなくなった。
サボっていることがバレたのか。最初はそんな風に考えていたが、一週間程経った頃、一人の候補生が死んだという話を耳にした。その候補生は崖から転落して死んだという事だった。そして、その崖とは、一週間前、彼と会うことを約束していた場所だった。
オレは愕然とした。オレにとっては何でもない場所でも、彼にとっては命懸けで来るような場所だったのだ。オレが彼との力の差を考えず、自分のことだけ考えていたせいだ。オレは激しく後悔し、自分の部屋で泣き通した。
オレが双子座の弟でなく、誰憚ることなく姿を見せられる存在であったなら――強烈な自己嫌悪は、やがてオレの存在を秘匿する兄と教皇、そして聖域そのもに向けられることとなった。
オレがいなければ、聖域がなければ、彼は幼くして死ぬことはなかったはずなのに。
オレの心に暗い火が灯ったのはこの時だった。その火は、その後もずっとオレの心で燻り続けた。
『この世界は』
この世界は、滅ぼさねばならぬ。
神に造られたただの人間どもは、神が目を離した隙に数を増やし、増長し、本来神のものである地上を穢し始めた。
美しい空は灰色の煙で覆われ、豊かな緑は不毛の砂漠と化し、澄み切った海はどす黒い油に染まった。挙句の果てに、人間同士の争いで自らの生きる場所すら破壊する始末だ。
最早、この地上を人間の好きにさせてはならぬ。一度、この地上を闇に染め、人間の手から取り戻さねばならぬのだ。
今すぐにでも目覚め、余の力を振るいたいところではあるが、余の魂の器となるべく心清らかな人間はまだ幼く、今目覚めたところで何もすることはできぬ。
それに、余の信頼する双子神、タナトスとヒュプノスが余の意思を汲んで地上を滅ぼす準備をしてくれている。彼らに任せておけば、上手くやってくれるであろう。
……ふむ、そうすると、余が今すぐにできることは特にないな……冥闘士が揃うのもまだ先のようだし、ここは力を蓄えておくべきか。
それにしても、このエリシオンは何とも心地良い場所であることか。余が創り出した世界ではあるが、素晴らしい地である。
……また眠くなってきた。もう少し寝よう……ふとんきもちいい……
『色とりどり』
手の中の袋を持ち上げる。中には色とりどりの飴玉がいっぱい入っている。
お正月、初詣の帰りに神社の屋台で見かけた飴の詰め合わせを見つけて、何だか無性に欲しくなって買って帰った。帰り道、適当に一つ摘み上げて口に放り込むと、安っぽい、でもどこか落ち着く甘さが口の中に広がって、僕は頬を緩めた。
今は自分の部屋で飴玉を眺めている。色とりどりの飴玉を見ていると、皆の顔が思い浮かんだ。
赤と黄色のマーブル模様の飴は、熱い心と、流星のような輝きを放つ星矢みたいだ。
うっすら透き通った緑色の飴玉は、芯の強さと優しい心を持つ紫龍を連想させた。
青と白のマーブル模様に赤い点が混じった飴玉は氷河みたいだ。一見クールに見えるけど、心の中には熱い心が滾っているのを知っている。
赤みがかったオレンジ色の飴玉は兄さん。不死鳥のような強さと激情を表していて、ピッタリだと思った。
混じりっ気のない真っ白な飴は純真さの象徴みたいで、沙織さんを思わせた。
そうして袋の中を漁っていると、ピンク色の飴を見つけた。それを摘み上げる。
僕はピンクという色が好きじゃなかった。それは女の子向けの色だと思っていたし、強さとはかけ離れているように思えたからだ。
でも今はそんな考えは微塵もない。アンドロメダの聖衣は色など関係なく強く、僕を何度も救い、戦いに勝たせてくれた。それに、見てくれと男らしさや強さには何の関係もないことを、これまで出会った人たちが教えてくれた。真の強さとは、己の心の中にある。
僕はピンクの飴玉を口に放り込んだ。
『クリスマスの過ごし方』
「でも、遅くないですか。クリスマスの当日にプレゼント買いに行くって」
「いいんだよ」
私の答えに、隣の少年は納得のいっていない顔をしながらも、それ以上訊いてはこなかった。その様子に、私はほくそ笑む。
「君の意見を是非聞きたいのだ」
「それはいいんですけど、僕の意見なんて参考になるんですか」
「私が見込んでいるのだ。そんな心配は不要だ」
「だって、あなた達と歳も全然違うのに」
どうやら彼の勘違いは未だ続いているようだった。私は敢えて訂正せず続ける。
「君だったら何をプレゼントされたら嬉しいか、という基準で考えてほしい」
「構いませんけど、あの人たちがそれで喜ぶのかなぁ」
隣の彼は首を捻る。ここまで言っても気付いていないようで、私は可笑しくなって笑い声が出そうになるのを堪えた。
彼の言うあの人たち、とは私の同僚のデスマスクとシュラの事だろう。だが、私は一言も彼らのためなどとは言っていない。ただ、「クリスマスプレゼントを買いたいから付き合ってほしい」と言っただけなのに。
街中にジングルベルが鳴り響く。隣の彼は時折それを口ずさみながら、私と歩調を合わせて歩く。その様子は少なくとも嫌々着いてきているようには見えない。彼も楽しんでいる、と思うのは私の願望が入り過ぎだろうか。
「そうだ、折角だからお茶しないか」
私の提案に彼は不思議そうな顔をする。
「いいですけど、遅くなりませんか。プレゼント買って、渡しに行く必要だってあるのに」
「大丈夫だ」
そのプレゼントは、君に渡すのだから。
プレゼントを買ったら宮に戻り、買ったばかりのプレゼントを彼に渡す。そして、彼のために用意したケーキと花束を渡すのだ。その時の彼がどんな反応をするのか、今から楽しみで仕方なかった。
「何笑ってるんですか。早く行きましょうよ」
「あぁ」
彼は早足になり、私の前を歩く。
そんな彼の姿は、今日も愛おしく、輝いて見えた。
『落ちていく』
暗い、昏い穴をオレは落ちていく。それはまるで永劫とも思えるように長い。
途切れつつある意識の中、オレはさっきまでの出来事を回想する。
まさか、青銅の小僧なんかにこのオレが負けるとはなぁ。しかも、黄金聖衣には逃げられた上、丸裸の相手に、オレの縄張りでやられたときたもんだ。言い訳のしようもねぇ。まったく、末代までの笑い者だぜ。
――ま、このオレにゃ相応しい末路だったかもしれねぇがな。
オレは今でも自分の行いが間違っていたとは思っていねぇし、やってきたことに後悔も反省もねぇ。だが、自分の行いが到底褒められたモンじゃねぇことぐらい自分でも分かってる。だから、自分の行いが回り回って自分に返ってきた、因果応報だと言われても、はいそうですねとしか言えねぇ。
それに、オレ自身畳の上で死ねるとか、ましてや極楽に行けるなんかこれっぽっちも思っちゃいねぇ。望んでこの手を血に染めたオレには、地獄が相応しい。
あとは、オレに青臭い説教をしてきたあいつがこの先どこまで行けるのか。その結末を見られねぇのはちょっと残念だな。
ともあれ、オレは一抜けだ。じゃあな、シュラ、アフロディーテ、それにサガ。先に地獄で待ってるぜ。